西行を語る時に、
平安朝に於いて最も悲劇的な生涯を送った天皇として知られる崇徳院を外せない。
先述したが、崇徳院は待賢門院が鳥羽天皇の中宮になった時、
既に白河法王の子を宿していた。 それが崇徳天皇だ。
白河法皇崩御の後、当然ながら鳥羽上皇は崇徳天皇を忌み嫌い、
天皇職を廃し、終には、崇徳院を讃岐に追いやる。
西行は崇徳院と年齢が近く、早くから和歌を通して顔見知りだったのだろう。
配流先の鬱憤やる方なき崇徳院を案じたり、
崩御後は、讃岐に庵を構えてまで崇徳院を偲んだ。
百人一首にある崇徳院の歌だが、
・・瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ・・
何かもの悲しい。
崇徳院は書にも通じていた筈だが彼の書は見出せなかった。
百人一首にある西行の歌。
・・嘆なげけとて月つきやは物ものを思おもはする
かこち顔がほなる我わが涙なみだかな・・
この書は、西行にしては流麗で美しい筆の流れだが、
芯は通っている。
ふたつなくみつなきのりのあめなれど
いつつのうるいあまねかりけり