蓮の花だより・・・不定期便

季節のうつり変わりと花の香りを求めて、筑後地方を中心に紹介して行きたいと思います。

三池炭鉱関連施設を世界遺産へ・・・・・三川鉱跡 ②

2015-05-30 10:44:22 | 日記
















1933年当時の三池炭鉱は、宮浦、万田、四山の3坑体制で三井鉱山出炭の半ばを占めていました。しかし宮浦、万田両坑はすでに老境に入り、四山も開坑以来14年を経過しており、坑内温度の上昇やガスの発生に悩まされ、増産の体制が困難でした。
そこで、さらに西方海面下を採掘するため、新坑開発として三川坑が計画されました。大牟田市西港町から有明海の海底下に向かって傾斜角11度、長さ約2,000mの斜坑2本を開さく、深度350mのレベルを基準坑底として四山坑とも連絡させました。
三川坑は1940年に採炭を開始しました。そして新たに海底区域の主要部分の運搬を使命とする新坑は、宮浦坑の集団ベルトコンベア方式が採用されました。
三川坑の坑底には貯炭層が6層あり、炭層別、部内別に貯炭ができました。その後選炭工場に送り、鉄鋼・ガス・コークス・電力・化学などの需要者の要望に沿った銘柄を生産しました。三池炭鉱で掘られた石炭は全て三川坑の斜坑ベルトから揚炭され、その石炭が選炭工場に入り、最初に通るのがホッパーでした。
戦後も三井鉱山の最主力鉱として活躍しましたが、1997年に三池炭鉱閉山とともに閉坑しました。

三池争議…1959年~1960年には戦後最大の労働争議が「総資本対総労働」の対決という形で、
       三池に集約されました。
炭塵爆発事故…1963年11/9に坑内で事故が発生し、死者458人、重傷者675人、一酸化中毒患
          者839人を出す戦後最大の労働災害となりました。今年で悪夢の事故から51年目
          を迎えます。
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12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは♪ (ベル)
2015-05-30 14:44:41
炭鉱の事故は怖いですね。
炭塵爆発事故は、まだベルさんは子供だったけど、
メディアが新聞やラジオの時代ですから、あまり覚えてません(^^ゞ
でも、炭鉱の事故はいくつか有ったと思います。
逃げ場のない坑内では、沢山の犠牲が出ますね。
そう言う場所も見て置きたいと、年を取ってから思うようになりましたね。
此方でも、東洋のマチュピチュ(東平=とうなる)と言う、
山奥の炭鉱に、足を運んでみましたよ。
冬は雪で通れなくなるので、夏に行きました。
また行ってみたいと思ってますが・・・
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三池争議 (どんこ)
2015-05-30 22:17:09
月日は経ってもまだあの生々しい傷跡は
なかなか消え去ることは出来ない感じがしています。
お写真の廃墟を見ると
さすがに時の経過はうかがえますが
「つわものどもが夢の跡」という言葉が思わず頭をよぎります。
返信する
ベルさんへ (蓮の花)
2015-05-30 22:56:08
こんばんは~
コメントありがとうございます。
炭塵爆発事故があったのは高校2年生の時で
ちょうど土曜日の夕方近くでした。
突然大きな音と地中からのすごい地響きがあり
家が揺れました。。
7時のニュースの時間TVを付けると犠牲者の数が
次々に増えるので大きな事故だとわかりました。

三川鉱の事故があった日は鶴見でも列車事故が
あり、「魔の土曜日」と言われています。
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どんこさんへ (蓮の花)
2015-05-30 23:37:31
こんばんは~
コメントありがとうございます。
三池争議の時は、ちょうど小学6年生の時から
中学1年生までありました。
1週間に1度、小浜社宅の方面に勉強を習いに
行っていた頃、バス停の前のアパートには赤い
色の旗が翻り「団結」の白い文字が書いあった
事を覚えています。
炭鉱が閉山して約20年近く経ちますが野ざらし
状態だったのですっかり荒れています。
昨年12月から試験的に、三川鉱の跡地を巡る
ツアーをしたところ来場者数が予想を上回った
そうです。
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おはようございます (imaipo)
2015-05-31 07:58:22
炭鉱事故は大事になりますね
逃げ場がないので仕事してる方は絶えず心配しながら
ご家族もでしょうね、炭鉱事故のことは覚えてますよ。
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おはようございます (ヒューマン)
2015-05-31 08:45:07
三池争議をご存じだったのですね。
壮絶な戦いだったのですね 
今は争議やストライキという言葉が死語になってしまいした
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imaipoさんへ (蓮の花)
2015-05-31 12:38:02
こんにちは~
コメントありがとうございます。
各地で炭鉱事故があっていた当時「三池炭鉱は安全だ。」という神話が
あったそうですが炭鉱事故は大きいですね。
坑内下がりの家族の皆さんは、仕事を終えた夫が無事に地上に上がって
来るまでは心配だったと聞いています。
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ヒューマンさんへ (蓮の花)
2015-05-31 13:03:51
こんにちは~
コメントありがとうございます。
小学校6年生の晩秋の頃に三池争議は起きたので
覚えています。
大牟田警察署の前では炭労の旗を持った人を先頭に
ジグザグ行進をしていました。
また、各地からオルグ団の人たちが大牟田に集まって
来ていましたよ。
今は、ストライキなどは決行寸前に解決していますが
当時の労組のエネルギーは何処に行ったのでしょうね!
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こんにちは~。 (筑前の国良裕)
2015-06-01 12:06:16
小・中学校の頃ですね、故郷の山河で遊びまくっていたので当時のことは知りませんが、聞いたことはあります。
近代化のための大きな犠牲があったのですね。
世界遺産になって欲しいですね、そうすれば、設備と当時のことが歴史に確実に刻まれます。
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筑前の国良裕さんへ (蓮の花)
2015-06-01 12:45:16
コメントありがとうございます。
三池争議の頃は小学校を卒業し、中学生に
なったばかりの頃でした。
毎日TVでは三池争議のニュースを報道して
いました。
石炭から石油の時代になったので会社側も
経営が難しくなったのでしょうね。
三川鉱は昭和の時代に採炭が始まったので
「明治日本の産業革命遺産」の構成資産では
ありませんが、世界遺産として認められれば
大牟田の街も変わると思います。
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