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北陸旅行 9: 鳥越城

2014年04月26日 | 旅行

< 1. 城門:門の奥に本丸の礎石が見える >

今回は、430年前、この加賀の国で起きた出来事を紹介します。
それは日本史上、希有な「百姓の持ちたる国」の終焉だった。




< 2. 二つの門の左手に本丸があった >



< 3.中央に後三の丸、右手に後二の丸、右手遠方が白山の方向 >



< 4. 加賀の国(石川県)の平野部 >
赤枠は手取峡谷地図の範囲を示す。
左の黄色丸は吉崎御坊を示す。



< 5. 手取峡谷 >
矢印はパノラマ撮影の方向、黒丸は綿ヶ滝を示す。



< 6. 180°のパノラマ写真 >
上: 赤矢印の撮影。中央が本丸跡。右手奥が手取川の下流で金沢方面。
下: ピンク矢印の撮影。奥が白山方向。


鳥越城で何が起きたのか
この手取峡谷の地は、かつて上杉謙信の軍勢をも退け、幾多の戦いを勝ち抜いた。
しかし最後まで織田軍に抵抗したこの城が攻め滅ぼされ、加賀の国はその軍門に下った。
この城に立て籠もったのは浄土真宗門徒の侍や百姓(一向一揆)だった。
加賀は、それまでの110年の間、あらゆる階層の人々の合議によって国を運営してきた。
室町時代末期より、この加賀は戦乱の時代の中央政権や隣国の大名から独立していた。
これは浄土真宗が北陸(越前、加賀、越中)に浸透したことが大きい。



< 7. 吉崎御坊にある高村光雲作の蓮如像 >



< 8. 吉崎御坊の再現図:当時、多くの宿坊が建った >


蓮如の活躍
1471年、浄土真宗の8代門跡の蓮如が、京都の迫害から逃れて吉崎に御坊を建設し、布教を始めた。
その信仰はまたたく間に北陸から東北まで広がった。
室町時代から戦国時代まで、各地で戦が常態化し、一方で町村の百姓や侍達は共同体結合を強めた。
この結合力(惣や一揆)と信仰心が、大きなエネルギーとなり、やがて弱体化した守護と肩を並べる力を持つようになった。



< 9.鳥越一向一揆祭りのパレード: 当時の百姓の戦支度を再現 > 

戦乱に巻き込まれた教団
加賀の国は独立と引き換えに、武力を手放せなくなった。
そうして他宗派や戦国大名、真宗教団内の覇権を巡って争いは続いた。
織田信長軍は真宗の拠点であった大阪(石山本願寺)と加賀を含む北陸一帯を攻めた。
織田は石山本願寺と和議をなし、また加賀の大半を掌中に収め、残るは手取峡谷の鳥越城だけとなった。

1582年3月1日、雪の山野は鳥越城で抵抗した村人の血で染まった。
こうして百姓(侍や農民、商人、僧侶)が自治した国(加賀=石川県)は潰えた。


なぜ加賀の国だけが独立を長く保てたのだろうか?
当時、京都を中心にした近畿一円では一揆が頻発し、百姓が武士団に要求を呑ませることもあった。
しかしそれらは長く続かなかった。
加賀が存続出来た理由は、浄土真宗への信仰が篤く、極楽往生を願い、死を厭わない抵抗心と強い団結力にあった。
さらに、巨大になった真宗教団は幕府の中枢(細川家)や戦国大名と連携を図り、加賀を統制、支援していた。
次いで、京都から遠く、大きな戦国大名の干渉から免れた。

最後に
北陸旅行記をこれで終わります。
ありがとうございました。

特に、私のブログにフランスから多くの方が訪問していただきありごとうございました。
北陸には、多くの温泉、旨い海の幸、日本の伝統工芸品、雪深い立山・白山などが楽しめます。
是非とも海外から、北陸にお越し下さい。





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