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中東に平和を! 76 なぜ疲弊したのか 14: コンゴで何があったのか 2

2017年04月28日 | 連載完 中東に平和を

< 1.ベルギー国王レオポルト2世 >


冷酷非情には見えない王が遺したもの。



< 2. ベルギーとコンゴ自由国 >


黎明と悲劇の始まり
ここには14世紀から続く人口200~300万人のコンゴ王国があった。
1482年、大航海時代に先鞭をつけたポルトガルがこの王国を発見し、両王国は国交を開始した。
コンゴ王はカトリック教徒となり、西欧文明(技術、制度)を積極的に取り入れ始めた。
しかし奴隷商人が暗躍し、銃入手の為に奴隷狩りによる抗争が部族間で激化した。
次の王は奴隷貿易に危機感を持ちポルトガルに訴えたが無視された。
やがて王国は拡大する奴隷狩りと銃の蔓延、度重なる王位継承戦争で疲弊の度を深めていくことになる。

しかしこれは惨劇の序章に過ぎなかった。
やがてポルトガルは撤退し、17世紀にはいるとフランスが進出し、奴隷と象牙の貿易を行った。
西欧は産業革命を経て、奴隷貿易が衰えた19世紀末になると、各国は最後に残ったアフリカで植民地の獲得競争を始めた。
1884年、欧米列強はベルリン会議でアフリカ分割を決め、この地はフランスとベルギーによって分割され、ついにコンゴ王国は消滅した。



< 3.大西洋奴隷貿易 >


この数世紀の間に、アフリカのギニア湾から連れ去れた奴隷は1000~2000万人にのぼり、おそらくは人口の半数が奪われ、社会は大打撃を受けた。

コンゴの大半を占める東側の地はベルギー国王レオポルト2世の私有地(コンゴ自由国)となった。
当初、国王は近代化を推し進めたが、赤字になると暴政へと転換した。
現地住民は奴隷にされ象牙やゴムの採集に徹底的に使役された。
当時、植民地で収奪することが当然の欧州諸国においても、この暴政は非難の的となった。
しかたなくベルギー政府は国王からコンゴを買い取り、植民地ベルギー領コンゴ(1908年 - 1960年)となった。

一方、西側の小さな地はフランス領となった。
フランスはコンゴの開発を白人企業にゆだね、白人企業は徹底した搾取を行った。

これらの暴政が社会を荒廃させ、独立しても暴力と独裁が横行する国家となる道筋を準備した。



*4

ベルギー王の暴政

コンゴ自由国(1885-1908)において、王は象牙とゴム取引を独占し巨万の富を得た。

当時、自動車タイヤ用にコンゴの天然ゴムの需要は旺盛であった。
後半の8年間でゴム生産量は24倍になったが、これは先住民の過酷なノルマ制によるものだった。
ノルマを達成出来ない住民は手足を切断された。
また人口は当初の3000万人から900万人にまで減少した。
殺された人数はユダヤ人虐殺(ホロコースト)に匹敵した。

王が創設した軍は白人の将校が指揮し、兵は先住民の戦士や奴隷からなった。
この軍の目的は治安維持ではなく、国民(奴隷にされた先住民)を酷使する為であった。
軍は国民を鞭打ち、従わない者の婦女子を誘拐し、村を焼き払った。
兵は討伐時の弾薬使用の証明として切断した手を上官に提出しなければならかった。
これは銃弾の無駄遣いを防止する為であった。

また王は領土拡大を目指し、南部(ザンビア)の部族長が英国の国策会社と手を結ぶと、軍を送り彼を射殺し、傀儡を据えた。

次回に続きます。






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