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宗教と挨拶 > 宥和を願って 改1

2012年05月29日 | 社会・文化

< ガンディー >

 色々な宗教に関する意見を伺うことがありますが、気になったことは相容れない壁をそこに感じたことです。そこで宗教と私達の関わりを身近な「挨拶」と比較して述べたいと思います。信心深い方には失礼な喩えに思えるかもしれませんが、真意は壁を取り除き、軋轢の生じないことを切に望むものです。

 相容れない壁とはどのようなものでしょうか。「宗教はアヘンである」、「宗教裁判」、「ホロコースト」と「マザーテレサ」、「ガンディー」、この好悪相反する言葉に集約されているようです。一つは宗教や宗教心が災いの元凶になると考える立場です。確かに歴史的にも最近でも世界各地の内戦・虐殺に宗教対立が油を注いでいるように見えます。オーム真理教のサリン事件は狂信的な事件でした。17世紀のガリレオ・ガリレイの地動説がキリスト教会によって封じ込まれたことも一例です。これらのことをもって宗教は害悪の元凶と見る向きがあります。一方、「マザーテレサ」に代表されるキリスト教会修道女の振る舞いに崇高な人類愛を見て取れることも周知の事実です。インド独立運動を指導したマハトマ・ガンディーの非暴力の思想はヒンドゥー教に由来していると考えられます。これらを知るにつけ宗教心は個人への救いである以上に、人類にかけがいのないものをもたらして来たとも言えます。この相反する理解が信仰者と無神論者の壁になっていますが、もう一つ大きな壁があります。それは信仰者同志の異教徒への敵対です。私にはこの二つの壁が無意味で、無理解から生じているように思えてならないのです。「宗教」を「挨拶」に喩えて見ましょう。朝、散歩に家を出た時、近所の方に会えば「おはようございます」と挨拶をします。相手から挨拶を返されたら、すがすがしい気持ちになります。この時、無視されれば気分は悪くなります。もし自分より若い相手から敬語が無い「おはよう」と返されても気分は悪くなるでしょう。極論すれば「宗教心」は「挨拶する心」で「挨拶が交わされない状況」は「信仰者と無神論者の無理解」、「敬語が間違っている挨拶」は「異教徒の対立」とそっくりです。



< チンパンジーの挨拶 >

 始めに「宗教心」について触れます。ところで「挨拶する行為」はいつ頃始まったと思いますか? 歴史書には載っていません。実は人類に最も近縁なアフリカのジャングルで自然に暮らすチンパンジーが既に行っているのです。順位の低い雄や雌は優位の雄に出会うと手を水平に挙げて挨拶するのです。・・・となると、人類学の定説から600万年前には人間は挨拶をしていたことになります。・・では、「宗教心」はいつ頃生まれたのでしょうか? 大方の見方では10万年前のネアンデルタール人の埋葬跡や洞窟内の様子から宗教心が最初に現れたと考えられています。私は先ほどのチンパンジーが、雨が降った時に集団で行うレインダンスに萌芽が読み取れると考えています。となると、やはり600年前からということになります。実は最初に「宗教」を定義しなければならないのですが、これが難しいのです。これを後回しにし、取り敢えず「宗教心」は人類誕生と共にあり、かつ「挨拶」と同様に心に根付いたものであることを感じていただけたでしょうか。



< 日本の祈祷治療 >

 ついで「宗教心」は今尚健在なのでしょうか? 紀元前後から儒教、仏教、キリスト教、イスラム教が誕生し、今なおその勢力(教徒人口)には大きなものがあります。大方の日本人にとって、これらは古い体質を持ち、形骸化したものと捉える傾向があるようです。確かに宗教史(教会史)を見れば世俗化と復興(宗教改革)が繰り返されいるが、輝きを失いつつあるように見えます。ここでは教会や教理では無く、「宗教心」が近代社会とどのように関わっているかを見てみたいと思います。90年前にニューギニア諸島の先住民を観察した人類学者マリノフスキーが見たところによれば、先住民は環礁内の漁に出かける時には行わなかった呪術を遠洋航海に出る前には念入りに行うとのことです。つまり人智の及ばない危険度によって呪術を使い分けているのです。このようなことはつい昔の日本でも起こっていました。60年前の四国南西部の山村を調査した民俗学者によれば、病気はカミや死霊、生霊の「タタリ」「ツキ」によって起きると信じられており、遠方の医者にもかかるが村の霊能者や霊媒者に治療を依頼することが多かった。このような心情を否定しきれないのも事実です。これらの心情には「すがる」という依存的・受動的な姿が見え隠れしますが、これだけではないのです。「宗教心」が能動的に社会を変革する力にもなり、少なくとも社会の秩序を保持する有効な機能をもっているのです。



< キング牧師 >

 百年前に社会学者マックス・ウェーバーは、近代資本主義は欧米のプロテスタント(キリスト教改革から生まれた新教徒)達が担ったことを明確にしました。その確信はウェーバーが米国旅行の列車内でのエピソードに始まりました。雑談をしていた商人が、「始めての土地で商いを行うときは属している教派を確認し、バプティスト(プロテスタントの最大教派)なら売買を安心して始める。」と言ったそうです。16世紀にヨーロッパで始まった宗教改革(プロテスタント誕生)が現在のグローバル化に繋がっていたのです。現代最大の根深い黒人差別からの解放はどうして行われたのでしょうか? マハトマ・ガンディーの非暴力による抵抗の思想は米国のバプティスト派のキング牧師に受け継がれたのです。キング牧師の下、黒人達がバス・ボイコットを組織し、暴力に対して非暴力で向かい、やがて絶望的な人種差別政策を自らの手でこじ開けることになったのです。また20年前の「ベルリンの壁崩壊」の切っ掛けになった最初のデモは東独の都市ライプチヒの教会から生まれました。まとめると、宗教心に基づく「生活規範の遵守」や「善意・善行・慈善」、「団結心」が社会をより良く支え、さらには変える力にもなるのです。また世界宗教の「教理」(聖書、仏典、コーラン)に含意されている「希望」「平等」「愛」が不屈の精神と行動を養い続けているとも言えるのです。

 こうして見ていきますと「宗教心」は「挨拶する心」と似ているのが了解していただけたかと思います。ついで「挨拶が交わされない状況」を見てみましょう。敵意を持って挨拶をしないのは論外ですが、挨拶の良さを知らずにまたその習慣が無いために気まずくなることは残念なことです。つまり「挨拶の意味」を互いの立場から理解出来ればそれが解決の一歩となり、自然と挨拶が出来、付き合いはスムーズになるでしょう。翻って言えば「信仰者」は「宗教を否定的に見る人々」の根拠に理解を示し、その逆もしかりです。



<アウシュビッツ収容所 / photos et voyages から転載>

 既に宗教心の効用については触れました。それでは宗教の問題点をかいつまんで見てみましょう。それは主に個人の宗教心では無く教団や組織に起因するものです。第二次世界大戦時のユダヤ人虐殺(ホロコースト)はナチスが主導したのですがユダヤ教徒に対する宗教差別が根にありました。十字軍遠征はキリスト教徒によるエレサレム聖地奪還が名目でしたが、実際は領地拡大と略奪が主になりました。大航海時代の宣教師達の人権を無視した行動には異教徒への純粋な布教だけではなく、派遣国の権益を守る意図が隠れていました。これらの悲劇は宗教の力を背景に皇帝、教皇、教団が引き起こしたことですが歴史上頻繁に起こり、現在も世界中の内戦や差別に影を落としています。このような戦争や虐殺に容易に荷担するのが信仰者の常だというのではありませんが、イデオロギーに凝り固まった人びとと同様に抑止が効かない傾向は否めません。また暴力的でない問題も長く尾を引くことになります。それは経典や教団の一方的な解釈に身を委ね、後に明確となるような真理に目を背け、隠蔽し抹殺することすらあるのです。これらを容認し、免罪し自ら手を下してきたのが信仰者と言うのが「宗教を否定的に見る人々」の立場になります。問題の本質は「信仰」の対象にあります。世界宗教誕生時は信仰の対象は神のみでしたが、やがて変節していきます。それらは大概、イエス、釈迦、マホメッドが否定すらしていたものですが。やがて教団の勢力拡大や維持が重視され権力者とも結託し、ついには教団上層部や教団権威者の意向に振り回されていきます。このようなことが頻発する中で世界は「政教分離」を教訓として学んだのです。これらを招いてしまうのは偏に盲目になりがちな「信仰心」のなせる業と見なせるからです。しかしこれをもって「信仰心」が否定されてはなりません。「宗教組織」の行動のみが問題と見るべきですし、同様に信仰者の自覚も重要ということになります。このことにより「挨拶が交わされない状況」は「信仰者と宗教否定論者の無理解」に似ていることを理解していただけたでしょうか。

 最後に「敬語が間違った挨拶」について考えてみましょう。互いに挨拶の必要性を知ってはいるのですが、自分の挨拶が敬語の間違いにより相手の気持ちを逆なでしていることに気がつかない場合です。これは挨拶をしないよりも深く相手を憤慨させ、場合によっては憎しみを招くことになるかもしれません。これと同じことが「信仰者」同志で起こります。当然、異教徒と呼ばれる明らかに一致が見なれない場合もそうですが、同じ教団から袂を分かった分派に対しても同様です。むしろこちらの方がきついかもしれません。現代でも教派、宗派の違いによる軋轢、内戦は世界中で見られます。ユーゴ内戦のキリスト教徒とイスラム教徒、パキスタンとインドにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒、アフリカ諸国のキリスト教徒とイスラム教徒の対立等はよく新聞欄を賑わしています。世界中で起きている内戦の最大の原因が宗教ではないのですが、民族、言語、階層、貧富差と絡まり、違いの指標にされ易く、かつ当事者が捨てきれないものだからなのです。表面的には「信仰篤き人々」ほど「他の神を認めない」ことに尽きてしまうようにもみえるのですが、これでは解決にはつながりません。

 先ず異教徒について考えてみましょう。それぞれの世界宗教は異教徒をどのように見ているのでしょうか。簡単に要約します。ユダヤ教は異民族、異教徒総てを拒否し内輪で団結しますが、そこから生まれたキリスト教は異民族を広く受け入れます。しかしキリスト教以外を信じることは信仰の堕落と見なし、放置することは神を裏切ることになります。同じメソポタミアで後に生まれたイスラム教は異民族、異教徒の存在を信仰の危機とは考えませんが、敵対する異教徒を征服することは神の御心に沿うとし、税金を納め恭順の意を示せば異教徒であっても同胞として扱います。初期仏教は異民族、異教徒を問いませんでしたが、それは釈迦が「心」の有り様だけを重視したからです。後に「仏」や「如来」が崇拝されるようになると若干、異教徒への寛容度は薄れることになりました。このように見ると世界宗教における「異教徒への扱い」は「挨拶の敬語の扱い」のようなもので、それぞれに異なった戒が拘束しているのです。神が異教を敵視しているのではなく、信仰心が薄れるのを危惧するあまり、教団が異教や偶像を信じることを拒否しているだけなのです。少なくともイエスや釈迦は争いを望まなかったはずです。イエスや釈迦は腐敗した教団の権威に抗いましたが決して民衆と争うことを望みませんでした。マホメッドは当時の部族間紛争を終わらせる為に武器を取ったはずです。本来、宗教には争いを避ける役割があるのです。



<プロテスタント教会 /モスク /ベトナム寺院>

 それでは本当に神が異教の神を拒絶したのでしょうか? イエスが生きた時代には中国とインドでは儒教と仏教が国教として定着していました。しかし新約聖書には最大の異教徒集団である仏教と儒教を名指しで非難していませんでした。それは単にイエスが知らなかったからでしょうか。当時、イスラエルを支配していたローマとインド、中国の間にはかなりの交流が行われていました。穿った見方をしない限り、辞義通りに解釈するとやはり神は異教の神を拒絶していないのではないでしょうか。世界宗教の宗祖(イエス、釈迦、マホメッド)は他の地域の異教については名指しで非難することはなく、未来を見通していることからすれば、離れた地域の異教を認めているようにも思えます。ましてやその異教の神よりも優れていると名指しで明言はしていません。

 最後に私が大事と考えることをまとめます。信仰者は「教団」や「教団権威者」のプロパガンダ(宣伝)や安直な区別(宗派、教派)に惑わされないことが大事です。無神論者はイデオロギーに振り回されずに信仰者の尊厳を認めるべきです。そして互いに人権を認め、歴史が育んだ教訓を共有すべきです。

参考 「宗教」の定義を広辞苑から引用します。「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。」 ますますわからなくなったのではないでしょうか。これが的確な説明ではないというだけでなく、未だに定義が定まらないのです。


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