夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

批判とは何か

2009年03月09日 | 哲学一般

 

批判とは何か

ブログ上に公表している私の前回の論考「自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)」に対するコメント(批判?)を、「らくだ」さんという方からいただきました。

>>

コメントhttp://blog.goo.ne.jp/aowls/e/1db60e8258c871213b90b9fd5173cc54

 

 
 (らくだ)

2009-03-09 01:02:11

日本という国は、文化的に言えば、輸入によって成立し、成立している雑種文化です。

漢字は中国から輸入されたものでした。仏教もその発祥の地からではなく、中国経由で取り入れ、今ではまったく独自な発展を遂げています。江戸時代には蘭学が最先端の学問とされ、明治維新後は食文化から服装に至るまで洋風化されました。

現行の日本国憲法はGHQによって押しつけられたものにすぎず、よってこれは日本という国家の脆弱さを示すと言われます。
外から何かを取り入れることは、いつも必ずそのものの独自性や自主性をそぐことになるのでしょうか?

漢字や仏教にはじまり、食文化・服装ですら、元来は輸入したものでありながら、今では日本独自の様態を見せているように思われます。
現行の日本国憲法がたとえ輸入・翻訳になるとしても、日本人が日本人の心性に従って運用し、日本という国の方向性を自らの手で開拓する限り、一国の尊厳を脅かすほどの脅威にはなり得ないように思います。
そもそもあなたが依って立つ「憲法」の概念や、「国家」の概念、ヘーゲル哲学ですら、輸入学問ではありませんか。
輸入された道具で輸入した道具を批判しても、日本国という現実の存在を相手にしては、何らの生産性ももたないように思います。

>>引用終わり

この方からはこれまでにもいくどかコメント(批判?)をいただいています。
[らくだ様のこれまでのコメント]

なに言ってんだか。 (らくだ)
http://blog.goo.ne.jp/aowls/e/f6080648dcbe0b12c4372bd8d3ca9541

Unknown (らくだ)
http://blog.goo.ne.jp/aowls/e/ba94f15e685a356ad9563ba8dc47249b

普遍論争と数学基礎論 (らくだ)
http://blog.goo.ne.jp/aowls/e/52fcb4146ad5bf03f7b13be8ff405863

これまでにもブログ上での記事、論考に対する相互批判のあり方について、考えたことがありますが(「ブログでの討論の仕方」)、今回らくだ様のコメントに対するお返事を記事にして、この問題についてさらに考えて見たいと思いました。

 

らくだ様、いつもご批評ありがとうございます。これまでもあなたから何度か私の記事や論考に対するご批判をいただいております。先般もコメントをいただいていることは存じ上げていましたけれども、ご回答するだけの意義もないと思い、あなたのコメント「批判」についてお返事をしませんでした。

その根本的な理由は、私の記事や論考に対するあなたのコメント批判を読んでも、ただそこからうける印象は、批判のための批判にすぎないか、さらにはそこに悪意や中傷の底意すら感じたからです。

思想や哲学上の問題について議論し、批判してゆくうえで根本的に大切な前提は、議論の間の当事者に、少なくとも「ただひたすらに真理のみを目的とする人格」の存在していることだろうと思います。この前提の無いところでの議論や批判は、結局は「我意の充足」だけが自己目的になってしまうと思います。

もちろん、「人間の性悪説」からすれば、それは神ならぬ人間に実現不可能な理想を求めるようなものです。ですから、表面的には学問や科学上の論争を騙っていても、その実際は単なる「我意の応酬」にすぎなかったり、事実上その本質は他者への「誹謗中傷」かあるいは「嫉妬や偏見」である場合がほとんどであるようです。

らくだ氏が、「ヘーゲル哲学」が「輸入品だから何らの生産性ももたない」と独断的に断定するとしても、それはせめてヘーゲルの「小論理学」の「序文」だけでも読み通してから(岩波文庫版の翻訳があります)、そして、その論拠をもっと説得的に説明してほしいと思います。そうでなければ、私たちの議論は、一般に多くのブログ「炎上」などに見られるように、それこそ非生産的な「議論のための議論」「批判のための批判」 に終わってしまうと思うのです。

また、残念ながら「らくだ」様ご自身のブログを開設しておられないようなので、らくだ氏の「思想」や「哲学」についての最小限の輪郭すら私にはつかむことができません。ですから、そのために私の側からは、らくだ氏の「思想」や「哲学」についての根本的な相互批判の交換も、全面的な批判もできません。

その一方に、私の論考に対する「らくだ」氏のコメントについては、どうでもよいような部分末梢的な細部についての、実証的な些細な知識についての「批判」にとどまっていると思います。そのために、私の論考に対するらくだ氏の「批判」のその根本的な意図に疑念を懐かせることになっています。

おそらく、らくだ氏は、多くの日本の批判的論者のように「本当の批判」がどういうものかをご理解されていないこともあるように思います。本当の批判というのは、――それはカント、ヘーゲルの流れを引くドイツ観念論哲学における「批判」概念を踏まえているものですが、――まず批判の対象についての意義と限界を明らかにして、その上で、自己の思想と哲学の中にそれを「アウフヘーベン」してしまうことです。

たしかに、私のよって立とうとしているヘーゲル哲学は、この哲学者の国籍、民族の出自からいえばドイツ人のものです。また「国家」や「憲法」という概念そのものも、らくださんが言われるように、その出自は西洋にあります。したがって、たしかにそれらは日本人のオリジナルなものではなく、「輸入したもの」であることは事実でしょう。

しかし、ヘーゲルの哲学は、単にドイツ民族という狭い特殊な領域にとどまるものではありません。その哲学は人類の哲学史を踏まえた普遍的な性格を持っています。それを「輸入品」だと言うことによってすでに、らくだ氏にはこの哲学について何らの見識の無いことを言明していることになると思います。らくだ氏には議論の前提となるものがないのです。

しかし、たとえもし「輸入したもの」であっても、それらは明治の開国以来一世紀以上を経過し、すでに「日本国の現実の存在」に成りきっています。それは単に「国家」や「憲法」といった概念に限らず、「自由」や「民主主義」「人権」などと言ったその他の概念とともに、日本国の国家や社会の運営上にも不可欠な観念、イデオロギーとして存在しています。今日ではこれらの観念、概念なくしてどのような国民も現代国家の経営はできないのです。

らくださんのおっしゃるように「「憲法」や「国家」の概念やヘーゲル哲学」が輸入された「概念」であり「学問」であるとしても、それは日本という日本人の構成する国家機構の中に、西洋文化の移入以来すっかり定着し「日本国の現実」の一部に成りきり、血肉と化してしまっています。

ただ、日本におけるその「輸入の仕方」「血肉と化すその仕方」にこそ問題があると感じるからこそ――とくに、その主体性などについて―――私たちが「批判」しようとするのです。

私たちはこの「批判」が、日本国における真理の実現において、その国家の姿をあるべき正しいものに改革してゆくうえで決して「生産性」がないとも思いません。もし「生産性がない」と思われるとすれば、それはその人に国家社会における真理を求めようとする気も、よりよき国家や社会の形成について問題意識もやる気も、また認識能力もないからではないかと思います。

「国家」や「憲法」という概念と同じく「ヘーゲル哲学」についても、それはたしかに「輸入品」ではありますが、ちょうど同じ輸入品である「議員内閣制」や「三権分立」などの思想は、日本民族の自由の実現においてわが国社会にきわめて重要な貢献をしています。それと同じように出自が同じ輸入品であるとしても、科学理論である素粒子理論などについては、日本人によって消化されて、物理学や原子力発電などに活用されています。

このことは哲学であると同時に何よりも科学そのものであることをめざしたヘーゲル哲学についても同じことが言えると思います。日本人においてもこの哲学がさらに深く消化されて民族の血肉と化すことによって、より完成された国家の形成に寄与してゆくべきものであると思います。それはヨーロッパ諸国家が、古代ギリシャ哲学を伝統として引き継ぎ消化発展させることによって、みずからの国家や民族の精神文化を豊かにしたようにです。

ですから、「ヘーゲル哲学が、輸入学問で」あるから「何らの生産性ももたない」と説明もなく断定的に否定するのは、それは「輸入品」である「ヘーゲル哲学」を消化する能力もなく、また、それをみずからの能力とすべく、ヘーゲル哲学の修行もやる気のない人が「イヌの遠吠え」のような「批判」で吠えているにすぎないのではないでしょうか。

 

 


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