夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

§279d[国家の人格性の現実としての君主]

2018年06月15日 | 法の哲学

§279d[国家の人格性の現実としての君主]

- Eine sogenannte moralische Person, Gesellschaft, Gemeinde, Familie, so konkret sie in sich ist, hat die Persönlichkeit nur als Moment, abstrakt in ihr; sie ist darin nicht zur Wahrheit ihrer Existenz gekommen; der Staat aber ist eben diese Totalität, in welcher die Momente des Begriffs zur Wirklichkeit nach ihrer eigentümlichen Wahrheit gelangen.

⎯ 一個のいわゆる法的な人格、会社、公共団体、家族など、それらはそれ自体においてどんなに具体的であっても、人格性をその中に抽象的に、ただ要素Momentとしてのみもっているにすぎない。それら(人格性)はそこでは、その存在の真理には至ってはいない。国家は、しかし、その内において概念の諸要素が、それらに固有の真理にしたがって現実性に達したところの、まさにこうした総体性である。

- Alle diese Bestimmungen sind schon für sich und in ihren Gestaltungen im ganzen Verlauf dieser Abhandlung erörtert, aber hier darum wiederholt worden, weil man sie zwar in ihren besonderen Gestaltungen leicht zugibt, aber da sie gerade nicht wieder erkennt und auffaßt, wo sie in ihrer wahrhaften Stellung, nicht vereinzelt, sondern nach ihrer Wahrheit, als Momente der Idee vorkommen.

⎯ これらの諸規定のすべては、それ自体(概念規定)についても、そしてその(具体的な)形態においても、この論考の全過程において、すでに論じられている。しかし、ここで再び繰り返す理由は、人は確かにそれらの特殊な形態においては(これらの諸規定のすべてを)容易に認めるのに、しかし、それらが真の位置におかれてバラバラにされずに、そうではなくて、その真理にしたがって理念の要素として立ち現れてくるところでは、そこでは直ちにふたたび認識も理解もしないからである。


国家の要素die Momenteとして、司法や行政、立法などの機関については容易に人は理解するのに、君主(元首)についてはその意義についてはなかなか認識も理解もされない、ということだろうか。

 
 
 

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