夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

哲学の伝統

2008年07月31日 | 哲学一般

哲学の伝統ということを考える。哲学という語彙を手近にある辞書で調べてみると次のようにある。

【哲学】
      ①世界や人生の究極の根本原理を理論的に追求する学問。
         「哲学者」「 哲学的」
      ②自分自身の経験などから作りあげた人生観、世界観。理念。「彼は哲学を持っている」 ▼ギリシャ語PHILOSOPHIA「愛智」から出た英PHILOSOPHYの訳語。(現代国語例解辞典)

言うまでもなく、哲学という概念が問題になるのは、日本においては明治維新以降になって、欧米からその文化と文明が流入してきてからの話である。哲学という用語が明治の哲学者、西周らによって翻訳されたのがはじめである。最近ではカテゴリーも狭まり、世界の究極の原理として、単に弁証法の論理を研究する科学のように扱われるようにもなってきているけれど、かっては万学の女王だった。

それはとにかく、哲学の祖国といえばやはり古代ギリシャがすぐに思い浮かぶ。有史以来の有名無名の多くの存在の中でも、ソクラテスをはじめその弟子プラトンは哲学の父として人類の歴史に燦然と栄光を担ってきた。プラトンは、理想国家を探求して『国家』や『法律』などの本を書き、いわゆる「哲人政治」という概念を確立したが、彼やアリストテレスに始まるそうした哲学の伝統は西洋文化において、今日に至るまで何千年にわたって脈々と受け継がれている。近代において社会科学が、西洋に起源をもつことになった根拠もそこにある。

その一方において、キリスト教の伝統からは、トマス ・アクィナスの『神学大全』やアウグスチヌスの『神の国』に連なる思想的な系譜もある。

そこには哲学者の重要な使命として、国家の概念を追求するということが含まれている。西洋におけるそうした哲学の伝統の流れにあって、近代に至ってカントは民主主義の世界政府を構想し、その後を批判的に継いだヘーゲルは彼の『法哲学』において立憲君主制の意義を論証した。現代に至ってマルクスの『プロレタリア独裁政府』のような鬼子が生まれたりもしたけれども、人類の歴史は、カントの言ったように、自由の拡大の歴史であるといってもあながちまちがいではないようにも思われる。

普遍、特殊、個別の三段階の発展の論理もどきに言えば、はじめはただ一人の人間だけが自由であったのに、やがては幾人かが自由になり、そして、究極には万人が自由に解放されるという。歴史の発展の論理である。

その一方で、中国をはじめとするアジア諸国の民衆は、その長い歴史的な時間を、家父長的な専制君主の強圧的な統治の下で、抑圧的で過酷な不自由な生活に甘んじてきた。とくに圧倒的な伝統の重さをもった中国の異民族王朝。しかし、アジアの民衆も近現代になってようやく自由へと解放され始めた。

自由がどれほどに貴重なものであるかは、現在の北朝鮮をはじめ、かって東欧の過酷な独裁政治の歴史の体験からもわかることである。国家の形態や政治はそれほど民衆の日常生活の幸福に影響する。

自由と民主主義をかならずしも自国民の実力で獲得できなかったとはいえ、曲がりなりにもこれほど自由を享受することのできている日本国民は、世界的に見ても恩恵を受けている方だといえる。比較相対の問題で、最悪の劣悪政治とまでは言い切れない。現代でもなおスーダンや北朝鮮その他貧困と飢餓にあえぐ似たような国は多い。上を見ても下を見てもキリがないということか。

人類の歴史を総括的に見ても、自由と民主主義が充実するほど、国民生活は「幸福」なものになるようである。現代の日本の政治や社会の不幸も、多くの場面で「自由」と「民主主義」が正しく機能していないためであると考えられる場合が多い。その意味でも、「自由と民主主義」は政治の概念であるといえるのではないか。

そうした事実と観点をこれまで誰も言わないので、何度か繰り返し述べてきたが、現在の日本の政党政治を、「選挙談合利権型政治」から脱却して、それぞれ党是を自由主義と民主主義におく自由党と民主党を中心に再編成してゆくことである。そして、この二つの政党が交替しながら、国民ために自由と民主主義を理念として追求してゆく「理念追求型政党政治」に転換してゆかねばならない。

永年の間に利権利欲がらみで混沌としてからみ合ってしまった日本の政党政治で、それぞれの政党の理念をすっきり論理的なものにさせて行くことだ。政治家や国民がまず、この「政治の概念」をはっきりと自覚してゆくべきであると思う。そして、この概念を具体化し、深めてゆくことによってしか、政治家も国家、国民もその品位を取り戻すことはできないと思う。

アメリカでクリントン氏と民主党の大統領候補者指名を激しく争って勝利を得たオバマ氏がヨーロッパを歴訪し、かってのケネディやレーガンにひそみ、ベルリンのブランデンブルク門の前で20万人の聴衆を前に演説を行ったという。日本の政治家たちもいつの日か、彼のように「哲学者」としても、大聴衆を前に演説する日の来ることを願いたいものである。

当然のことながら、政治家が政治に従事するのと、哲学者が政治に関与するのとでは立場も違えば観点も違う。しかし、少なくとも西洋では、ソクラテスやプラトン以来、哲学が政治を指導するというのは自明の伝統だった。その伝統の差異は、欧米の政治家の演説や議論と日本の政治家のそれとを比較して見れば一目瞭然である。

 

John F. Kennedy's speech in Berlin”Ich Bin Ein Berliner”

President Ronald Reagan "Tear Down This Wall" Speech at Berlin Wall

Highlights: President Obama's Berlin Speech
 

 

 


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