夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

山岸の正月4

2012年01月27日 | 日記・紀行

山岸の正月

AUCH  ICH  IN  ARKADIEN

 

 参観が終わると、楽園村会場の風呂に入り、その後牛しゃぶ料理を皆で楽しんだ。この時私たちのテーブルで給仕してくれたのは、神戸から来ていた陽気な看護婦さんだった。 

食後ふたたび研鑽会があった。この夜は、今後の我々の取り組みがテーマになった。資料には楽園村に参加した子供たちの作文と、その父親からの手紙がコピーして渡され、それを材料に「無償の行為」についての研鑽が進められた。三十名近い、社会経験も豊かな大人たちが集団で思考し、研鑽する。

十一

三日目の朝は軽い作業があった。作業着のうえにヤッケをまとい、長靴を履き、それぞれが、豚舎の建設、養牛部、養豚部に分かれた。私は希望通り養牛部に行った。作業は牛糞出しと、砂入れである。近くで見る牛は図体が大きいが柔和な眼をしている。この牛舎には千頭からの牛たちがいて壮観である。

牛の肛門から滝のように流れ落ちる尿と糞には驚かされるが、臭気は、肛門を出るとき少し臭うだけで、後は下水のドブ浚いの感覚と変わらない。ただ、牛の寝床に砂を入れていく作業は体力がいる。かっては木材のチップを使っていたが、乳房炎を起こしやすいとかで、今は砂を敷き詰めているそうだ。高等部の生徒も糞尿出し作業を手伝っていた。

十二

 

朝の六時から始まった作業が終わると、借りていたヤッケと長靴を返して、生活着に着替えて、ふたたび豊里温泉で汗を流した。宿舎に戻ると「お母さん」たちの書き初めも廊下に張り出されてあった。あの人は、女性らしい柔らかな筆跡で「やっぱり仲良し」と書いていた。

 

研鑽会の感想文に、古き良き日本の正月を味わって充実した三日間だったと私は書いた。最後の食事を終えると、AB両班がふたたび合同して、出発研鑽会があった。今まで主婦や子供たちの多かったヤマギシの会活動も、社会化運動に向けて、いよいよお父さんの出番であると、地域に帰ってネットワーク作りに尽くすことなどを確認しあった。一同揃って記念写真を撮った。皆いい笑顔を見せていた。

 

十三

 

徳島から来ていたH氏と、津の駅まで同行するはずだったが、津駅行きのバスがあるということで、氏はそれで行くことになった。大阪から来ていた男性とは握手をして別れた。そこで皆と別れてひとり駐車場まで車を取りに歩いた。

 

途中の広場に、モスグリーンのスーツに着換えたあの人が、仲間たちと一緒に立って談笑していた。自動車に乗って村を出る際、ふたたび広場を横切ることになったが、その時あの人は確かに自分の方に向かって強く手を振った。

 

あの人はこの三日の間、食事の時も一度も私の座ったテーブルに来ることはなかったし、視線すら合うことはなかった。しかし、もし私の名を聞き知っていたとすれば決して見逃すはずはない。ちょうど私が食堂であの人がいつも気にかかったように。

バックミラーの中に、強く手を振って見送るあの人の姿を眺めながら、一路帰途に就いた。 

       

                                                                                (一九八九・一・四)

 

 

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山岸の正月3

2012年01月26日 | 日記・紀行

 

岸の正月

AUCH  ICH  IN  ARKADIEN

再び豊里の村に帰り着くと、「書き初め」と「初釜」の会場が用意されていた。白い紙に真新しい立派な筆と、硯に墨が添えられていて、「至れり尽くせり」であった。皆が心に描いたこの一年のテーマを、大きな長い紙にそれぞれ書いた。

男らしく、ただ「やる」と書いただけの者、「日々研鑽」「軽く出す」とか「一歩前進」、「父として男として」とか百人百様に書いた。私は何を書こうかと思ったが、巳代蔵さんの文章の一節から「光彩輝く将来」と書いた。 この書き初めは後になって廊下にすべて張り出された。

次いでお茶会があった。だが、この初釜は堅苦しいものではなく、控え室で正月らしく着飾った婦人たちから、作法について簡単に教わってから、席に出た。

色鮮やかな和服をそれぞれに着飾った高等部の学生の村の娘たちから、手作りの和菓子と抹茶で心からのもてなしを受けた。彼女たちの作法の上手下手を見る眼はなくとも、正月の引き締まった心を味わうには、この茶室と静々とした作法の雰囲気だけで十分である。

二日目の第二食で、はじめてお節料理と雑煮が出た。いつしか気取られぬように彼女の姿を眼で追っている自分に気づいた。二日目の圧巻はやはり相撲大会である。養鶏部、出版部、流通センター、蔬菜部、養牛部、肉鶏部などの各部門から、一部屋七名、また我々「お父さん研」から二部屋十四名の総計八十名近くの男が参加した。

行司も審判役も本格的な装束で、にわか力士たちを囲む。肌の白い西洋人も二人参加していた。子どもたちも、村の娘も、老蘇さんも皆こぞって、男たちの力闘に声援を送る。力士たちも持てる気力を振り絞って闘う。激しい闘志のぶつかり合いなので、胸や膝に擦り傷などはしょっちゅうである。顔面を強く打って脳震盪を起こし、鼻血を出す者もいた。時間のせいもあったのか、上位三部屋を出しただけで、優勝部屋を決めなかった。我々「お父さん研」の力士たちもよく闘った。

  

 相撲が終わると、我々のメンバーは三つのコースに分かれた。宿舎に戻って自由に寛ぐ者、鶏舎入って卵を集める者、村の中を参観して回る者である。私は村をもう一度見たいと思った。村の中を歩いてゆっくりまわった。我々を案内してくれた人は、まだ参画して間もないのではないかと思った。

高等部の寮舎が完成まじかである。隣には立派な体育館兼講堂が建設中である。道路の向こうの山の上には健康特講の会場が建設中である。村全体が槌音高く建設途上にあることを感じさせる。

余儀なく畑を崩して作った駐車場には、ヤマギシのマークの入った真新しい観光バスが幾台も並んでいる。学生のための学育菜園には菊菜が植えられ、馥郁園では老蘇さんらの作った薔薇や菊、盆栽などが並んでいる。発酵した堆肥を実際に手にとって眺め、匂いを嗅いだ。

 

馥郁園の右手には「太陽の家」があり、そこでは子供たちが遊んでいた。小高い丘の上に立っている、太陽の家に通じる門には、「子放れの門」と「宇宙ステーション」の二つの大きな分厚い表札が掲げられ、ここでは親は子放れの練習をし、子供たちは無重力圏へと駆け出してゆくのだという。村人の衣服を洗濯し管理する黎明館、結婚式のある豊里会館、飼料センター、精乳部など、工場や倉庫などを抱えながら、ここに七百名ほどの村人が暮らしている。

 

 

 

 

 

 

 

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山岸の正月2

2012年01月20日 | 日記・紀行

山岸の正月2

AUCH   ICH   IN   ARKADIEN



日のまだ明るい内に、お風呂に入り、心身ともに寛いだ後に、用意されていたのは、広く明るい豊里食堂での食事であった。ヤマギシでは食事の前には必ずメニューの紹介がなされ、そこで材料の由来や、料理をした人の「思い」が紹介される。

第一日目のメニューは豚肉の生姜焼きであった。メニューの紹介に次いで、この研鑽会に裏方として参加した「お母さん」の紹介があった。以前にある女性を紹介されたことがある。この時ふと、、この「お母さん」の中に、彼女が来ているではないかと思った。記憶に残っていた名前をその中に探すと、偶然に二人いたが、左側のカーテンの前で、ほほえみを浮かべて立っている女性が、その人ではないかと思った。

この研鑽会に参加した「お父さん」は、実顕地のメンバーを含めて、六十八名である。それに食事の世話や朝晩の布団の上げ下ろし、部屋の清掃など生活スタッフとして加わった主婦や女性のボランティアは、二十二名であり、総勢九十名ほどでこの研鑽会をつくりあげていった。これだけの多人数が明るい食堂に一堂に会して、ユーモラスな話に笑いとよめきながら、老いも若きも食事を共にするのは愉快なものである。

裏方に徹した「お母さん」のテーマは、「至れり尽くせり」だと言った。ヤマギシでは何か仕事をする時、必ずと言っていいほど、テーマを研鑽して掲げる。岡山から来ていた主婦は、個人的には「何でも、ハイでやります」というテーマに取り組んでいたが、彼女は後で、ある「お父さん」から、「背中を流してくれ」と冷やかされて困ることになる。

広い食堂の、カーテンで仕切られた向こう側では、子供たちや学生たちが大勢賑やかに食事をしていた。私たちの囲んだテーブルには、二人の女性がそれぞれ受け持って、親切に給仕してくれた。この時ばかりは「お父さん」は箸の上げ下ろし以外何もすることはなく、陽気で美しい「お母さん」の給仕で、心身共に腹一杯にしてもらって見送られ、出発研鑽会の会場になっている、学育鶏舎にある鶏鳴館へと向かった。



部屋の壁に、テーマとサブテーマが大きく書かれて掲げられてある。ここで全員がこの研鑽会に参加した動機を述べた。それはもちろん人様ざまであったが、なかには「お父さん預かり」とか冗談めかして言う者もいた。しかし、概して参加者は、父親として男としてあらためてこの機会に生き方を考え直そうとしていたようである。ある人は、妻や子ども達がヤマギシに熱心なので、ヤマギシのことを知るために渋々参加した「お父さん」もいた。

それから参加者はA班とB班とに振り分けられて、明日の相撲大会のために早速準備研に取り組んだ。出場力士を選び、その四股名を決めるのに、各人の特徴や出身地などから案を出してゆくのだが、髪の毛が薄く、歳より老けて見られる「お父さん」は、「年寄り若」、酒好きな「お父さん」は、「千鳥足」、本職が獣医で風采の立派な青年は文字通り「獣威」、富士山麓で蕎麦屋を営む「お父さん」は「富士之側」などユーモラスな四股名が考え出され研鑽されていった。この過程でいっそうに和気藹々となり、大人の「仲良し」が深まってゆく。B班部屋は「二十一世紀を創る部屋」と名付けられ、部屋の幟も描かれた。



この新春「お父さん研鑽会」は実に良く仕組まれていて、会運営も事前に深く研鑽されていたことを伺わせる。行事は日程表に沿ってきっちりと実行されていった。二日目の朝は五時起床である。大安農場から日の出を見るためである。宿舎の前に集合したときには、まだ外は真っ暗で、空には月が弦を描いて輝いていた。寒いけれど、マフラーを巻きジャンバーの下に十分に厚着をしてきたので、むしろ、これくらいの冷え込みは心地よい。

まだ新しい立派な観光バスが、広場に待っていた我々を迎えに来た。大安農場まで一時半の行程である。私はバスのなかで、昨夜の浅かった眠りを癒した。

大型バスは頂上までは登ることができず、我々は麓から白い息を吐きながら歩いて上った。その頃になってようやく白々と夜が明け始めた。頬を刺す、清々しい朝の大気を吸いながら、大安の梨農園に着いた時、そこでは焚き火の火を起こしながら、北原さんが待っていた。パチパチと燃えさかる火を囲むみんなに、彼は十一年前の正月を感慨深げに思い出すように、この地に入植した当時のことを語った。

付近の村人に不審の眼で見られ反対に遭いながらも、「全人幸福思う者に行き詰まりなし」と言って、雑木林を切り開き、今日に至る大安農場を切り開いていったことなど。

東の空がますます明るみを増して、はるか彼方にうっすらと浮かぶ水平線の向こうに、小さな太陽が揺れるようにしてその顔を現したとき、みんなから歓声がわき上がった。太陽は見る見る内にその全容を見せたが、そこに宇宙の構造を実感すると共に、その神秘に打たれた。日の這い上る早さに時の移ろいを思う。新しい春の日の出を見終わってから、食堂に戻って暖かい昆布茶を飲み、皆で歌を合唱した。

 

 

 

 

 

 

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山岸の正月

2012年01月17日 | 日記・紀行

 

山岸の正月
 
AUCH    ICH    IN     ARKADIEN
 

 
ヤマギシズム京都供給所の林さんに誘われて、豊里の村で行われる、新春の「お父さん研鑽会」に参加した。名神高速道路の京都南インターチェンジから、栗東まで行き、そこから国道一号線に乗って関まで、そして、ヤマギシズム生活豊里実顕地のある高野尾町へと出た。途中少し道に迷いはしたが、まず順調な旅であった。

滋賀の県境で、小雨が降り出したが、すぐに止み、鈴鹿峠を越えて、伊勢の平野に入ったときにはすっかり晴れて正月らしい青空が広がった。日の丸の掲げられた、町立小学校の校舎の脇を右に折れて小道にはいると、低い冬枯れの木立の向こうにヤマギシの鶏舎特有の青いトタン屋根が見え隠れしていた。



駐車場に車を入れ、誘導板に従って歩いてゆくと、道路の辻々に案内人が立っていた。正月にヤマギシの村では様々の催しがあり、子供から老人に至るまで、この村に集ってくる。

左手に壬生菜の植わった畑を眺めながら、坂を降りきったとき、いかにも百姓らしい風采をした男が立っていたが、近寄ってみると、昨秋、村に参画したばかりのK氏であった。「よくいらっしゃいました」と言って、彼は固い握手で、私を迎えてくれた。彼は厚い防寒着に帽子を被り、その上に風よけの手ぬぐいを巻いていたので、近づくまで気がつかなかった。

彼が、支部の仲間の会員に送り出された研鑽会で、参画に至るまでの迷いや心境を語っていた時も、私は平凡な感想しか述べることしかできなかった。彼が京都大学を卒業後、建築会社で長くサラリーマン生活を過ごしていたが、東京への転勤の辞令があったのをきっかけに、村に入った。「何も今でなくとも」など上司などから慰留もされたそうである。

今こうして、穏やかな笑みを浮かべ、村を訪れた人を案内すべく、辻に立ちながら、村の正月を過ごしている。建設部で働いているそうである。むろん、これからも試練は避けられないにしても、彼もまた良い決断をしたのだと思った。

立ち話もそこそこに、私はK氏の指さした受付まで行った。木造の校舎のような建物の二階で、そこで財布や免許証、車の鍵などの貴重品を預け、それから私に割り当てられた部屋へ行った。私と合部屋になる六人の名前が、紙に書かれて入口に貼ってある。

すでに到着していた人は、一階のロビーで皆と雑談しながらくつろいでいる風であったが、私は昨夜の寝不足を補うために少し横になった。しかし、半時間ほどの浅い眠りのなかに過ごしてから、夕日の差し込み始めた窓際に寄って、外の景色を眺めた。

何も植わっていない、掘り返された冬の畑の向こうは、伊勢自動車道の土手に遮られており、さらにはるか彼方の伊賀の山々の向こうに夕日は沈もうとしていた。遠くの畦道を、晴れ着に着飾った和服の女性が、裾を風に翻しながらひとり渡って行く。空には名も知らぬ鳥が二羽、西の空に悠々と飛び去ってゆく。



宿舎の端にあった二一五号室で、参加者全員が集まって、オリエンテーションが開かれた。その中で、今回の「新春お父さん研鑽会」のメインテーマとして、「二十一世紀を創る」という標語が明らかにされ、サブテーマとして「光彩輝く将来を画策、施行し・・・」という青本の一節が掲げられた。そして、正月の三日間の日程表が参加者に配られ、研鑽会のスケジュールが紹介された。それが終わると、まだ新しい「豊里温泉」に案内された。

この浴場の外観は、瓦葺きのどっしりした日本建築になっているが、入口はガラス張りで自動ドアである。風呂場には大理石がふんだんに使われている。男風呂はグレーに、女風呂は淡いピンク色で統一されているという。大きな一枚ガラスの向こうに、枯山水の小さな庭を眺め、暖簾をくぐって風呂に入る。

 

 

 

 

 

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畑の上を舞うツバメ

2011年09月07日 | 日記・紀行


畑の上を舞うツバメ――夏の終わりに思う

長く居座った激しい豪雨で各地に被害をもたらした台風が去っていった。翌日の今日、久しぶりに空に青空が広がった。台風一過とともに夏の終わりを感じる。

田圃はまだ青いが、すでに稲穂は立っている。畑では、南の国に帰る準備をしているのか、ツバメが低い空に円を幾度も描いている。手に取ることさえできそうな高さに繰り返し自分の頭上を巡り来るツバメたちは、まるで別れの挨拶を交わしているようにも感じる。
こうしたツバメの営みにも暑かった夏も今過ぎ去ろうとしているのがわかる。

久しぶりにすがすがしい青空と青い田圃を見ながら、自然を感じる一瞬がある。「自然」は言うまでもなく、哲学においても根本的に重要な基本的な概念である。自然は精神の前提であり、その発展の帰結が人間の意識である。しかし、自然においてはまだ「概念」は内面的なものに過ぎない。(§247)

途中に第二外環工事の現場に出会う。まぎれもなく、この環状道路工事は大原野の歴史的な景観地区を破壊している。国土交通省、京都府当局の一連の行政にわが国の民主主義の愚劣と水準を思う。いまだ行政当局の歴史認識や環境意識には経済的利得優先の論理が貫かれていて、それを克服できるまでに至っていない。

道路をどうしても必要なら、どうして核シェルターと雇用対策を兼ねた地下トンネルを掘らないのか。日本版二十一世紀ニューディールとして雇用対策、経済活性化にもなる。大胆な発想と行動力を持ち合わせた政治家が出てこない日本政治の永年の「貧困」と人材の枯渇。その帰結として失われた二十年はさらに三十年に、さらには亡国へと至ろうとしている。現在の民主党政治もまた自民党政治と同様に「戦後民主主義」世代の哀れむべき能力の実態を明らかにしている。

             
                               
先月の西尾幹二氏のブログにWiLL8月号「平和主義ではない脱原発」の論文の掲載があった。雑誌で論文を読むことができなったので貴重な機会だった。

西尾氏がそこでえぐり出そうとしていることは、原子力発電の原料となるウランを諸外国から手に入れるために、日本がどれほどの桎梏と制約を、とくに欧米各国の資源メジャーから受けているかということである。それくらいなら、むしろインドやイスラエルとの闇取引で、核ミサイルを直接手に入れた方が、どれほど確実に、安価と安全に日本の自由と独立と環境に貢献することになるかもしれない。

原子力発電のためのウラン原料を手に入れるために、日本がこれほどの屈辱的な条件を呑み込まされていることも、西尾氏の論文ではじめて知った。これでは現代の日米安保条約下の日本国民に幕末の不平等条約を笑う資格はない。


すでに信用を無くした原発で、技術者も減少しているという。今度の津波による福島第一発電所の事故でさらに輪をかけてそうした事態が進むだろう。西尾幹二氏の論考を読むかぎりでは、氏の主張にも一理はあると思う。ただ、その議論の前提が正しいかどうか、さらに調査し確認する必要はあるだろう。

いずれにせよ、国防のための核技術は、東電や原子力委員会などの俗人世人や官僚オタクに曖昧に任せるのではなく、むしろ自衛隊の――これも一刻も早く憲法改正とともに国防軍に改組すべきだが――軍人たちに法的根拠を与えて、彼らにしっかりと責任をもって担当させた方がいい。

八月が去って「戦争の季節」も終わる。あれだけの大戦争だったから、その古傷はやはり深く今なお癒しがたいのか、あるいは、それ正しく克服できないのも民族の資質か。

在任中菅首相は千鳥が淵には参ったが靖国神社には行かなかった。それも伸子夫人の差し金か。野田新首相も靖国神社に行かないと言明している。自由な独立した主権国家の指導者として、それは果たして正しい選択だったろうか。

要するに、戦後民主主義の申し子としての市民運動家菅直人氏や民主党の指導者たちは、いまだ先の太平洋戦争を完全に相対化できてはいないのだ。戦勝国のアメリカが、敵国である大日本帝国軍隊の権威を失墜させるために、どれだけの「策謀」を巡らすものであるかは反省されも自覚もされていない。軍事力のみならず情報戦においても完膚無きまでに旧敵国アメリカに敗北したままだ。そのために日本は主体的に民主化すべきなのに、それができないのである。

たとえ凡才であろうとなかろうと、国民が自ら選んだ自分たちの首相を、あれほど口汚く罵るのは、国民自らの愚かさと品位のなさを証明するようなものだ。能力がなければ交替させればいいだけの話なのに。菅首相の引きずり降ろしは、現代日本の政治家連中と国民の無情と非見識と明らかにしただけだった。

NHK・BSでも、先月は終戦記念として五味川純平原作の「人間の条件」なども全編放映されていた。たまたま見たが、社会主義者監督の視点から、旧日本軍の悪弊と社会主義的人間の「個人主義」とエゴ「平和主義」の夢想があくどく強調されていた。

アメリカ合衆国軍と比較しても、確かに旧日本帝国軍隊に陰惨と抑圧の性格のあったことは事実だろう。それは正しく総括されなければならない。しかし、マルクス主義の国家観と同じく、その否定的な部分的な現象だけをもって、旧帝国軍隊の本質を、あるいは国家の概念そのものさえも否定しさろうとするのは誤りである。現代日本国民はいまだこの認識の延長線上にある。この映画もやはりアメリカによる「戦後民主主義」の視点から制作されている。

チュニジアのジャスミン革命に端を発した中東イスラム諸国では政変も今なお著しい。リビアのカダフィ大佐の命運も尽きたかのようだ。ただ、イスラム諸国の民衆がなぜアメリカを憎むのか、正しく客観的に認識しておくことは、今日の中東の政治状況を知る上での必須の前提ではある。戦前の日本もまた、そこに自らの能力を過信する愚かさが加わったとしても、アメリカの傲慢と抑圧を憎み反抗し戦ったのである。

                   

 

 

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梅雨が明ける――ヨブの忍耐をもって

2011年07月11日 | 日記・紀行

梅雨が明ける

昨日の十日、日曜日は午前中から山の畑に行く。この日の作業は、草刈り。そして、冷や麦のご相伴に与り、弁当を食べた後、無花果、柿、桃と見て回る。枇杷の木は、前々回に茎が根腐れを起こしているのを見て、その成長を断念したばかり。美しい萌黄色の若葉をつけていたので期待していたのだが、野鹿に二度も新芽を喰われて、それ以来成長を止めた。そしてこの春、枇杷の木の死を確認したばかり。この秋には、新しい苗木で再び挑戦するつもり。

今の柿の木も三本目の苗木でようやく根付いたばかり。虫食いもない美しい若葉をつけていたのに、春の終わり頃に、これもすっかり野鹿に喰われてしまった。今日あらためて見ると、再生の双葉があちこちに見られた。

全てを独占しているような、たった一人の山で、濡れたシャツと肌着を脱いで上半身、裸になる。ほとんど純白に近い肌をまだ強い昼下がりの陽光にさらす。鳥のさえずりを聞きながら、わずかな木陰を探して腰を下ろす。

無花果は、猿や鹿に枝を割かれたり折られてしまって、まともな樹形も損なわれていたにもかかわらず、何とか今のところはよく成長している。垂れた枝枝に添え木などしてやると、その下に何とか涼しげな樹陰らしきものができる。大きく育った無花果の樹陰で、夏の甘い午睡に浸るのが夢だ。

どうやら梅雨明けの宣言があったらしい。見上げる空も、夏に近い。青空を見ながら、今もなお苦難の日々を耐えている東北の人たちのことを思う。冷却設備が地震と津波で破壊され、海からのヘドロと腐った冷凍魚などから、ハエも湧き衛生環境も劣悪だという。自分にできることは何もない。ヨブの忍耐をもって耐え抜かれ、夏を乗り切られんことを、ただ祈ることができるばかり。

武田邦彦教授のブログによれば、

「(福島原発)事故直後は、北海道産の牛乳は北海道産でしたが、今では、福島、茨城、千葉の牛乳は大量に西日本に送り、そこで、「汚染された牛乳」と「綺麗な牛乳」をまぜて、ベクレルを規制値以内に納めていることも分かってきました」そうだ。それが本当なら、生産者、商業者たちの地に墜ちたモラル。気の毒な日本国民。生産者、商人にも生活がある?

「誠実な社会を取り戻したい・・・牛乳と柏市の放射線」
http://takedanet.com/2011/07/post_088c.html


また、玄海原子力発電所(佐賀県玄海町)2、3号機の運転再開を巡る国の公開説明会で、九州電力による組織ぐるみの「やらせメール」事件が発覚したばかり。東電も九電も、その上にあぐらをかくばかりの地域独占大企業だが、図体はでかいが、ネズミほどのモラルもない。

電力会社は電力不足と節電を訴えるが、肝心の火力発電や原子力発電、水力発電などの実体の正確な情報開示もない。またもや騙されているかと国民の疑念が募るばかり。

官僚の電力会社への天下りが、行政の公正を歪めているのに、どの政党にも、この不正を糺す力がない。また、電力会社からの巨額の政治献金を受け取る政治家たちに、公正な電力行政を期するなど百年河清を待つようなもの。

政治家に対する「企業献金」を止めさせて、政治と行政の中立化、公正化を図るためのはずだった「政党助成金」。しかし、「助成金」は手に入れたが、いまだ、どの政党も「企業献金」を止めさせることができない。政治家たちの濡れ手に粟だけが残る。

さしあたっては、池田信夫氏が自身のブログで主張されているように、今政府によって国会に上程されている「原子力賠償支援機構法案」を廃案にし、東電自身と株主と金融機関に明確な責任を果たさせることである。そして、電力事業を自由化して、電力事業の地域独占を廃止し、官民癒着の歪んだ電力行政を改革してゆかねばならない。

参照
池田信夫『民主党政権は電力自由化でよみがえる』
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51725473.html

 

 

 

 

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六月も終わり

2011年06月28日 | 日記・紀行

 

六月も終わり

後二日もすれば六月も終わる。さる三月十一日、忘れるはずもない。東北に起きた地震と津波と原子力発電所の事故から、すでに三ヶ月が過ぎた。失われた十年、あるいは失われた二〇年とさえいわれる、人材も枯渇して疲弊した日本に、追い打ちをかけるような痛手となった。災い転じて復興の契機となし得るのか、それとも泥船のように、ただ沈み行くのみなのか私にはわからない。

戦後民主主義文化の日本と日本人に絶望している者には、すでに同時代人らともほとんど別世界に、異教徒のような立場に生きているようにも見える。それでもただ、自己と国家と民族に対してなすべき義務と使命と考えるところのみは、極力果たして行こうと考えている。同時代の国家と国民に対しては本質的な関心はない。その理由も明確である。真に興味と関心の対象として値するものとは、事物の概念のみがそうだ、といえる。その他の多くは、ほとんどむなしく、かつ馬鹿馬鹿しい。『伝道の書』のコヘレートと同じ眼で世界を見ることを宿命づけられているのか。

テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ、正→反→合という、事物の螺旋的な発展を認識することを、我が哲学は目的としているといえる。今年の東北大震災とその津波による原子力発電所のメルトダウンほどに、その具体的な事例としても、深刻なアンチテーゼはこれまでなかった。これほどまでに、原子力発電に対して『否定』を突きつけたられたことはこれまでなかった。この「アンチテーゼ」、「否定」をいかにして克服、アウフヘーベンして行くかが課題になる。この否定の意義を高く評価したのもヘーゲルである。

原発推進派の世人や多くの国民は、その否定的な側面には頬被りして、原子力発電のもつ、その利便性や快適性、また利潤といった観点から、積極的に支持していると考えられるのに対して、私の立場は、原子力発電については、どちらかと言えば「消極的な支持」というものだったろう。

アメリカに国防の首根っこを押さえられ、真の独立のために核武装さえ許されない哀れな日本国のこの現状で、将来の日本国の真の独立の実現という観点から、原子力発電に伴う核技術は、唯一核兵器開発の技術を担保できるものとして、必要悪として消極的に肯定してきたといえる。

しかし、今回の福島原子力発電所の事故を契機として、西尾幹二氏らは、「原子力発電所の存在こそが、日本の核武装、少くとも日本の国防の合理的強化を妨げている」という見解を主張している。
「脱原発こそ国家永続の道」について(二)
http://www.nishiokanji.jp/blog/?m=20110628

こうした見解について、今のところ批判し、論評するだけの知識も能力も私にはない。
これまでの論考で、一通り私の立場は明らかにしており、さらなる全面的で広範な客観的な調査と研究なくしては、新しい段階で論考を展開してゆくことはできないと思っている。ブログ投稿の頻度が落ちているのも、そのせいでもある。

先日、軒下のアジサイに剪定鋏を入れる。乾燥した空気の、明るい日差しの下で見るアジサイは、色彩も濁って見える。梅雨の滴るなかでこそアジサイはよく似合う。

梅雨の合間を縫って、山の畑に行く。その巨大な樹木や竹林の叢生の凄まじい生命力に自然の威力の一端を思い知らされる。暫く山に足を踏み入れない間に獣道は失われ、雑草や雑木の凄まじい成長に、見慣れた山野辺の光景は一変している。

植えた後、一度か二度雑草取りをしただけで、ほとんど植えたことも忘れかけていたニンニク畑に足を踏み入れると、ちょうど茎が枯れていた。引っこ抜いて見ると、白く美しい球根が現れた。植える時とその後の二三度の雑草取りだけで、「最高級」のニンニクが手に入る。これこそ、ずぼらな私の目指すべき理想の農業である。早速、五、六株引っこ抜いて帰った。まだ畝には多く残っている。去年は見るべき成果はなかったので、記念に写真を撮って帰る。

ショウガと違って、ニンニクはあまり好きな作物ではない。臭いが気に入らない。それでも、せっかくの収穫だから、何とか美味しく食べる方法を調べてみようと思う。

ネットで少し調べてみると、「醤油漬け」と「蜂蜜漬け」などがあるらしい。何とかここ、二、三日の新鮮な内に実験してみようと思っている。

今年は青紫蘇の成長はよくないらしい。昨年は掃いて棄てるほどあったのに、今年はほとんど自生しているのを探すことができない。去年イチジクの木の脇に植えた名残の青紫蘇が少し葉をつけているだけ。その貴重な葉を四五枚冷や奴に添えるために摘んで持ち帰る。

 

 

               

                                                           

                

                                                      

 

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久しぶりのブログ更新

2010年10月13日 | 日記・紀行

 

久しぶりのブログ更新


ここしばらくブログの更新を怠っていた。別に体調を悪くしたり病気になったりしたせいでもない。体調は悪くはなく、頭の中身以外にこれといって悪いところもとくにない。いずれにせよ、今のところ曲がりなりにも健康を保つことができていることも神に感謝しなければならない。

ブログの更新を怠っていた間にも、やはりさまざまな出来事があった。その中でもやはり特筆すべきは、中国人が我が国固有の領土である尖閣列島近海の領海を侵犯した事件であるだろう。

この事件は図らずも、戦後民主主義教育を受けて育った仙谷由人氏や菅直人氏ら全共闘世代の、平和ぼけした日本の政治家たちの哲学の貧困とその腰抜けぶりを明らかにすることになった。このような三流四流の人物を国家の指導者に据えなければならない国家は哀れだ。悲劇を通り越して喜劇を演じている。

尖閣列島の沖合を領海侵犯した上に、海上保安庁の巡視船に体当たり衝突した中国人船長を、せっかくに逮捕したのにもかかわらず、かつ法治国家である日本の裁判に掛けるのでもなく、現場の那覇地検に中国人船長の釈放を決めさせ、自己決断も「政治主導」もできない菅直人首相も仙谷由人官房長官も、それに便乗してほおかむりして那覇地検の一検事に責任を押しつける。

「政治主導」をこれまで一枚看板のように民主党は唱えておきながら、中国の高圧的な態度の前にあわてふためき、自己の決断で対処する姿勢も見せなかった。那覇地検の現場の検事は、この中国人船長の衝突妨害行為を、公務執行妨害で起訴する覚悟でいたのである。それを事なかれ主義の国家指導者たちは自己規制して、中国人船長を超法規的に釈放してしまった。戦争という過酷な現場で、愚かな参謀たちの指揮と作戦の許で働かなければならない気の毒な下士官や兵士たちの切歯扼腕を想起させる。

先に「中国とチベット動乱」の記事で述べたように、中国との関係については、中国が民主化されないまま現在の中華独裁国家体制が存続する限り、必ずや日本は、現在のアメリカの属国の地位から転じて中国の属国となるか、それとも中国と一戦を交える覚悟をして「自由と独立」を守ろうとするか、その選択を迫られる時がいずれ必ず来るのである。日本の指導者と国民はその覚悟をし、その準備態勢の確立を急ぐ必要があるのだ。準備とは日本国憲法の改正であり、核武装をも念頭に置いた自衛隊の解体と新日本国軍の建設である。

太平洋を挟んで、中国とアメリカという巨大な大陸国家の間で翻弄されかねない日本の危うい地位である。それは日本の地政学的な宿命でもあるのだが、現在のような状況は、第二次世界大戦当時の日本国民と国家指導者たちが、アメリカと大東亜戦争を覚悟せざるを得なかった当時の国際情勢を彷彿させるものである。

今中国は領海侵犯をしてまでも東シナ海の天然ガスなどの海底資源の掘削を始めようとしている。先の太平洋戦争においても、当時の日本国民は資源大国アメリカの石油禁輸など高圧的で挑発的な姿勢に反発したに違いないのである。

何事も物事は両面から見なければならない。共産主義中国「漁民」の尖閣列島近辺領海侵犯事件を契機として、日本国民の国家意識や主権意識が目覚め始めた。(まだ多くの日本人はアメリカインディアンのように自閉的で退廃的な世界に眠らされたままであるけれども)中国の不当なあまりにも高圧的な態度に、多くの日本国民が日章旗を掲げて街頭デモに参加し繰り出し始めた。それなのに、NHKや朝日新聞、毎日新聞などの大手新聞・テレビなどのマスメディアはその現実を一切報じることはなかった。

いわゆる「慰安婦問題」や「竹島問題」などで再々引き起こされる日本大使館前の反日デモなどについては、わずか百人足らずの集会でも、彼らは新聞テレビなどに真っ先に仰々しく報道する。一体にこの情報選択の偏向や記事報道の自主規制はいったい何に起因するのか。国民はこれら主要メディアの偏向と堕落が、国家国民と民族の退廃と衰亡の元凶となっていることに気づき始めている。新聞やテレビの私物化と特権化をやめさせ、日本国民の手に取り戻さなければならない。

さらにこの間に起きた事件として、小沢一郎氏が第五回検察審議会によって起訴されたことがある。剛腕と称される小沢一郎氏が有罪とされるだけの証拠を残しているのか、それとも無罪であるのか、もちろん私はそれを立証する立場にはない。しかし、政治家は政治とカネの問題で嫌疑を受けるようなことはあってはならないのである。昔の日本には井戸塀政治家も少なくなかった。もういい加減にあの故田中角栄氏以来に、自民党を中心にはびこった利権政治という品格なき政治を、日本も清算して行かなければならない。小沢一郎氏の起訴をそのきっかけにして行かなければならないのである。

明治の国家指導者たちは、大日本帝国憲法下で、清貧でモラルも高い官僚たちによる国家運営が行えるように、曲がりなりにもそれなりの国家機構を残して逝った。商売人か政治屋かわからない連中たちが国家の中枢に居座るような現在の政治よりはよほど品格が高かったのである。たとえ言葉やスローガンだけで「政治主導」「政治主導」と叫んでも、その肝心の政治家たちが、モラルや識見において、官僚たちの足許にも及ばないということでは話にもならない。

確かに、検察官による証拠改ざんという不祥事が生じたり、国家公務員の天下り問題に見るように、公務員の資質も劣化し腐敗し始めているのかもしれない。国家機構や制度も今や形骸化し、自由ではなくむしろ桎梏になり始めている。そのために確かに、検察官や司法制度の悪しき面ばかりを見て悪口ばかりを言う者もいる。しかし、それでも、まだ多くの有名無名の優れた日本人が、心ある経営者や国家公務員、官僚、検察官、裁判官たちが、屋台骨の崩れ始めた日本を支えていることも忘れてはならないのである。

気がついてみると、先月の九月には一本の投稿記事もない。せめて今年の暑かった夏のために遅咲きになった曼珠沙華の面影でも記録しておくことにする。

これからも、ブログ記事の更新はきわめて緩やかになるだろうと思う。書くことよりも行動すること、読むことにより力を配分したいと考えている。せめてキッシンジャーの『DIPROMACY』や『NUCLEAR  WEAPONS  AND  FOREIGN   POLICY』ぐらい読んでおこうとせっかく手に入れてあるのに、まだ腰を据えて読むこともできないでいる。何とかここ一二年は、書くことよりも、読むこと、行動することに力を入れたいと思っている。時間はいくらあっても足りない。

 

 

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八月の雲

2010年08月11日 | 日記・紀行


二〇一〇年八月十一日(水) 晴れ

二千十年夏の追憶のために、八月の雲の記録。


















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琵琶湖の花火

2010年08月06日 | 日記・紀行

二〇一〇年八月六日(金)  晴れ一時雨

琵琶湖の花火

結局、四時近くになってようやく山畑に向かう。家をでるときには、夏らしい青空に、太陽がまだ煌々と照りつけていた。暑い日には自転車でも決して急がない。息が切れないように、まだ青い稲穂を付け始めたばかりの稲田を遠くに眺めたり、その上を低く飛び交うツバメの跡を追ったり、遠くの野原と家々を見晴るかしたりしながら、ゆっくりとペダルを踏みこんで行く。

山畑に向かうときに、とくに坂を登り行くときに、その日の自分の体調がどんな具合かはっきりと感じる。やはり寝不足のときなどは、疲労度が確実に違う。この日は睡眠も足りていたのか、急な坂もそれほどに苦痛に感じない。

ほとんど畑の中に入りかけたのに、空模様が急変したかと思うと、霙のような雨が降り出した。二百メートルほども走ると小屋もありそこで雨宿りもできるのだが、急な雨の激しさと、その距離の間にずぶ濡れになるのを恐れて、先の雨宿りの経験からこんなときのために小さな青いビニールシートを用意していたのを、早速バックの中から取りだした。そして、立てかけた自転車にその片方を括りつけ、もう一方は傍らの一本の立木に括り付けて、ちょうど公園などで時折見かける路上生活者の生活空間のようなものをつくって入り、そこで雨を凌いだ。

子供の頃の冒険ごっこを思い出すような気持ちで、京都タワーなどを遠くに見下ろせる市街地を眺めていた。雨は三四十分も続いただろうか。山の天気は変わりやすいのだ。夏の日の夕立は昔なら当たり前だった。

空に再び青空が広がり、雨で濡れそぶる小笹の間を抜けて、イチジクと柿と桃の木を見に行く。柿はこの春から、折られた根幹の脇から天空に向けてまっすぐに一本の枝を伸ばしている。猿に再び折られることのないように、先日、支っかえ棒を三四本打ち込んだ。

イチジクはすでに小さいながらひとかどの大人のような樹形を見せている。そこそこに実もつけている。しかし、どれもまだ小粒で青い。

このブログではすっかり報告はしていないが、桃の木もかなりの大きさに成長している。枝も四方に伸び放題になっていたので、秋になって涼しくなれば剪定鋏を入れて、枝振りを整えるつもりでいた。それなのに、先日サルに先手(剪定)を撃たれて、大切な枝を折られてしまう。洒落にも面白くない。

それでも山をさらに上がると、飛び交うトンボの群の数とヒグラシの鳴き声の繁さが増してくる。東の青空を流れ行く雲の形に、すでに秋の片鱗を感じる。

鎌や噴霧器などの畑の道具を出し入れしているときに、バックのチャックが毀れてしまった。脇に抱えて修理に取りかかったが、適当なペンチなどの道具がなく、どうにも直らない。結局畑仕事もそっちのけで、時計を見ると夕刻七時にも近い。

真夏だから、まだ十分に明るいけれども、闇の帳は早いので、畑を降りることにした。その帰り道の畦道から、夕闇の中に輝き始めた市内を遠くに眺望することができる。視点の中心に写るのはいつもライトアップされた京都タワーだ。その見慣れた黄昏景色の中に、タワーの右手後方に、色鮮やかな小さなダリアの花のような花火の上がっているが見えた。どこかで花火大会が開かれているに違いない。

市内を眺望できる場所は、この山畑の畦道からのほかに、もう一カ所ある。それは高畠稜のある丘陵からである。この御陵には桓武天皇の皇后であられた藤原乙牟漏さまが葬られている。長岡京の造営に失敗して平安京に都を移したとき、この地に亡くなられた美しいお后が新しい平安京を一望できるようにと、桓武天皇はお后をこの高台に葬られたに違いない。この場所からも市内を眺望できる。もし花火大会がまだ終わっていなければ、帰路そこからも花火が見られるはずだ。

まだ畑仲間が一人残っていた。池に流れ落ちる水で、いつものように顔の汗と手の泥を洗って、畑を後にする。

帰り道に高畠御陵の傍らを通り過ぎるとき、その急坂の途中に自転車を止めて、まだ花火大会が終わっていないかどうか、京都タワーの右側後方のあたりをしばらく見つめていた。すると果たして遠くの山際のあたりがほのかに明るくなったかと思うと、さまざまな彩りの花火が、東山の稜線の上に輝いて見えた。いずれも山影に半円だけ切り取られた花火である。ときおり空高く打ち上げられる大型花火だけが、ボタンや菊のような小さな丸い花の全容を見せた。

しばらく自転車に腰掛けたまま、小さな花火を遠くに眺めていると、団扇を片手にした小柄な婦人が、坂の下から上がってきた。彼女はやがて立ち止まるとくるりと背を向けて、私のように同じ花火を眺め始めた。それから約二十分近くも、遙か遠くの東山の稜線に切られて頭の半円だけ顔を出す花火と、ときおり高く打ち上げられて、山影のうえ高く闇夜に浮かぶ小さな花々を眺める。打ち上げの音がここまで小さく響いてくる。

たたずまいを崩さずに、団扇をあおりながらいつまでも花火を見ている婦人の後ろ姿を見て、彼女ならこの花火がどこの花火か知っているかもしれないと思った。しかし、行き交う人に気軽に挨拶することさえ憚られる哀れな人間関係の日本では、見ず知らずの婦人に声を掛けるのも気後れし、尋ねても気まずい思いがするだけかもしれない。それでも、自転車を乗り直して再び坂を降りがけに、
「奥さん、どこの花火かご存じですか」と訊いて見た。
「ええ、琵琶湖の花火です。おおきに。」と言って応えてくれる。

家に帰り着きテレビを見ると、ちょうど菅直人首相が広島原爆の第65回記念式典で挨拶する姿が映っていた。

 

 

 

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風のそよぎ

2010年07月18日 | 日記・紀行

 

風のそよぎ

風の戦ぎ、
山から落ちる、水のせせらぎ、
カラスやウグイスたちの鳥の鳴き声、
芝刈り機のエンジンの音、遠くから聞こえてくる。
私の全身を撫でながら過ぎてゆく、
山頂から吹き下ろしてくる風。
眼を瞑ると、
梅雨明けの青空から日差しは消え、
私の瞼の血の色である深紅の世界に、
鎖される。

私のこの全身の感覚が、
今自分の生きていることを実感させる。
死とはこの五感のすべてを喪失した、
無の世界に他ならない。
しかし、たとい
私の生がなくとも、世界はある。
私は私の前世を忘れてしまっているが

いつか、
無限の時間と空間を旅した後に、
いつかどこかで再び私自身に出逢うことがあるに違いない。
だが、そのとき新しい私は今の私を思い出すこともない。
それが反復であることすら気づかない。―――――

道路の側壁に腰を下ろし、
そこから市内を眺望していても、
誰一人行き過ぎる人もいない。

空を見上げると、
先ほどまであった小さな入道雲の子供は、
姿を消し、
真っ白なかき氷の山に姿を変えている。

うとうと寝そべっている私に、
「おい、A」と、
少年時代の友人が呼びかけたような錯覚にとらわれる。

キュウリも茄子もまるまると太って、
その重みに茎も傾いでいた。
収穫して行って、彼らの身を軽くしてやろう。                                              

                                       

 

 

 

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夏が来る

2010年06月24日 | 日記・紀行

 

夏が来る

昨年は少し忙しくて、作ることに手が回らなかった夏野菜も、今年は何とか実り始めた。茄子が紫の美しい花をつけ始め、キュウリも小さな黄色の花の下に実を付け始めた。

いつ見ても、自然の造形と色彩の美には眼を見張る。あえてそこに創造の主体としての「神」のことを言うなら、神の創造の御業は私たちの理解を超えている。私が自然を見ると言うことは、神が私を見ることである。その「存在」を「認識」するのは、また、その由来を問うのも言語を持つ人間のみの特権である。単なる動物にその能力はない。

自然は回帰する。むろん、それは太陽系という宇宙の構造に由来する。しかし、この回帰も、太陽に寿命の存在することを知っている以上、未来永劫の回帰ではあり得ない。

とはいえ、太陽系の存在自体とその再生の必然性のことを考えれば、私たちの生命体を含む存在の「永劫回帰」は、その意味では復活としても認めることはできるのかもしれない。こうした問題の論証は、いずれにしても、もっと厳密に行われるべきだろうけれども。小さな自然の中に宇宙を見る。

                                        

 

 

 

 

 

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新春のお慶びを申し上げます。

2010年01月05日 | 日記・紀行

 

上の写真は2010年1月2日午前8時の、忍野富士

富士山ライブカメラ
http://www.fujigoko.tv/live/index.html
 

新春のお慶びを申し上げます。

昨年はアメリカ発の疑似世界恐慌で、全世界が揺れた一年でした。しかし、金融不安からもっとも遠く安全地帯にいたはずの日本が、低温火傷の被害のように、もっとも深刻に、長く経済不況を蒙っているように見えます。鳩山民主党の掲げた、子ども手当や高校授業料無償化、農業の戸別補償などの雇用・環境、景気対策における「バラマキ」は、この緊急非常時に、国民に対して財政再建のための耐乏と貢献、犠牲の覚悟を促すのではなく、むしろ甘やかし政策になっている。これで財政破綻を招くことになれば(その可能性は高い)、国民経済を本当に救うことにはならないのです。一時しのぎのモルヒネ注射にしかなりません。

本当に必要なのは、「バラマキ政策」ではなく、新産業、新事業の開発、新しく若い企業家の育成であり、そのための財政金融支援、教育支援です。経済の再活性化のために重点的、集中的に財政投融資して、とくに人口少子化対策にはあらゆる手を打たなければなりません。今の鳩山政権の経済政策は、後ろ向きの「バラマキ、甘やかし」の弥縫策に終始してます。そんな時期に福島瑞穂少子化担当相など、とうていその任に堪えないブラックユーモアでしかありません。

昨年の一年は、戦後になってようやく曲がりなりにも政権交代らしい政権交代を果たしました(小沢一郎氏などについても悪口を言うばかりではなく、その功罪をきっちりと評価すべきでしょう)。しかし、だからといって日本の政治がまともなものになったとはとうてい言えません。さらに自民党を消滅させ、また、現在の「旧社会党」系民主党をも分解させて、政界の再編成を図ることが当面に残された次の課題になっています。

長く続いた55年政治体制の旧政界の廃墟の上に、新自由党と新民主党による真の二大政党によって、さらに日本国の自由と民主主義を充実させながら、立憲君主国家体制をさらに発展させて行く必要があります。そうして、本当に健全な国家社会を建設して行くことによって、バブル経済の崩壊以来、毎年三万人を越える自殺者が出ているような悲惨な社会状況を改革して行く必要があります。

こうした課題は、新憲法の制定と並行して実現して行く必要のあるものが多い。衆議院、参議院の定数削減、道州制国家体制、公務員制度の全面的な行政改革、全寮制の中高一貫教育(現在の民主党政権で高校教育の実質的な無料化は進んでいますが)や、保育所・幼稚園の統合、国民皆兵制度の制定など、教育制度の全面的な改革などとも並行してゆく必要があります。明治維新を越える平成維新として根本的な国家体制の変革をさらに準備して行かなければならないと思います。

鳩山民主党は、危ういながらも、アメリカ依存からの相対的な独立を実現し始めているのはよい。ですが国家に真の独立を求めることが、国民にどれほどの負担と覚悟を求められるものであるかを、国民に十分に周知、教育、納得させるという前提抜きで、早急にことを運ぼうとしています。こうした歴史的な課題の実現には、十分な歳月と準備が必要です。向後百年を要する政治的な課題でもあるのですから、工程表を明らかにして、着実に腰を据えて実行してゆくべきでしょう。

今年も世間に対する愚痴から、新年のご挨拶を始めてしまいましたが、何はともあれ、どうか本年が多くの人々にとって、平安と歓びに満ちたさらに豊かな一年になりますよう、ささやかな祈りを込めて、新年のご挨拶をお送りします。

相変わらず和歌の修行も余裕のない私には、自分の言葉で春の心を詠むことができません。せめて西行法師の心を懐かしむばかりです。

        世にあらじと思ひける頃、東山にて、人々、寄レ霞述懐といふことを       詠める 

722  そらになる 心は春の かすみにて 世にあらじとも 思い立つかな

    おなじ心を

724  世をいとふ 名をだにもさは  留め置きて  
       数ならぬ身の  思い出にせむ
       
        世を遁れける折り、ゆかりありける人の許へ 言ひ送りける

726 世の中を   背きはてぬと 言ひ置かん 思ひしるべき 人はなくとも

 

 

 

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プロバイダの変更

2009年06月04日 | 日記・紀行
プロバイダの変更
 
 
先月の五月一日からプロバイダーを変更した。そのためにホームページに記録していた以前の文書が読めなくなっている。一九九八年頃に開設したホームページに記事や論考を記録しはじめていたが、消えてしまった。そのなかには欧米の学者の論文の翻訳の一部や聖書の詩篇などの翻訳などもある。いずれ上梓しようと思い、また途中でほとんど中断してしまっていたとは言え、ヘーゲル哲学大系を抄訳録したノート風の「ヘーゲル哲学事典」などもホームページに載せ始めていた。それも消えてしまった。
 
ホームページの標題を「哲学の小窓」として(http://www8.plala.or.jp/ws/)、それまでの論考や記事をそこに記録しはじめていた。しかし、記事を書くごとにいちいちアップロードしなければならず、HTMLタグやスタイルシートの活用にも手間もかかった。そこにやがてブログが登場してきた。そして、ブログの簡便さに馴れると、記事や論考のほとんどをブログの方に記録して、ホームページ上での論考の整理もおろそかになりがちだった。
 
科学としての思想、科学としての哲学を志すとなると、どうしても世界についての私たちの認識を、一つの体系として構築して行かざるをえない。真実に科学の名に値する哲学は体系的であるからだ。この認識の体系の基本的な骨格については歴史的にはすでにヘーゲルがやり遂げている。だからヘーゲル以降に生きる我々は、この哲学体系に対してどういう立場を取るかによって、我々の哲学的な立場が決まる。
 
私自身の最終的な立場は、まだ構想半ばではあるが、私自身の「哲学百科辞事典」(http://aowls.exblog.jp/)において明らかにしようとしている。しかし、この辞事典についても、私の「時間と能力」の問題もあって遅々として進んでいない。
 
しかし、いずれにせよ、どこまでやりきれるかはとにかく、新しいプロバイダーと契約し、ホームページも新しく開くことにした。内容については基本的には以前と変わり様がない。パソコンに保存されているデータをそのままアップロードして行くことになる。
 
当面は「全集アーカイブ」として、表紙だけをとりあえず再録した。(http://www.eonet.ne.jp/~anowl/index.html)
 
全集と体系の形態にいたるまで少しずつでも構築してゆきたいと思っている。さし当たっての記事や論考はブログにまず投稿して記録して行くつもりでいるけれども、それをこのホームページで、一つの必然的な認識の体系として、再構成して行かなければならない。
 
それにしてもこの非哲学的な国民性のなかにあって、それがたとえ世の覚えのめでたくもない仕事であるにせよ、他人は他人で我が道を行けばいいと思っているが、いったいそれが「何の役に立つのか」というモンゴル人種に特有の実利的な問いではなく、「真理」そのものを問うてきたつもりである。言い訳をするなら、真理こそがもっとも有益なものであるはずだから。
 
それにしても、こうした論考に意義はあるか。あるとすればそれはどのようなものか。一つはヘーゲル哲学の研究を中心的なテーマにしていることである。とくにヘーゲルの「概念論」の分析と研究とその意義を明らかにすることを中心的な課題としている。その成果も乏しく、内容もいまだきわめて不十分で未熟であるとは言え、ヘーゲルの「概念論」については、これまで誰も明らかにしていない独自の解釈の方向を示していると思う。この方面の研究は引き続き根本的な研究テーマである。このブログの目的でもある。
 
ヘーゲルの概念論は真理認識において不可欠の要素であり、また、従来の唯物論者マルクスなどの理解の及ばなかった概念観について考察し、イデア論の復活と再認識を目的としている。また、とくにヘーゲルがキリスト教の「聖霊」を、必然的な「絶対的な精神」として捉えなおしたところに、ヘーゲル哲学の意義を見出している。「ヘーゲル哲学」を「最深の神学」としてこの哲学にかかわり始めた私にとっては、この哲学とキリスト教との関連をさらに解明してゆく仕事も残っている。ヘーゲルにあっては「哲学」することは至高の宗教的行為だったのだ。
 
さらに、マルクス流の共産主義国家論の、歴史的な哲学的な破綻を受けて、ふたたびヘーゲルの『法の哲学』の現代国家論にもつ意義とその弁証法の再評価を主張している。つまり立憲君主国家の形成は、現代においてもなお課題として残されているということである。マルクスは市民社会の否定的な側面のみを見て、その肯定的な面を正当に評価することが出来なかった。
 
先般に行われた自民党と民主党の党首討論おいて、鳩山由紀夫氏などは「友愛社会の建設」をアピールされていた。なるほどたしかに、抽象的な「友愛」の精神に誰も反対する者はいないだろう。しかし本当の課題は具体的な各論で論争することである。
 
私の論考では、現在の自由民主党と民主党による利益談合型の政界を解体し、自由主義と民主主義をそれぞれ自由党と民主党によって充実発展させてゆく理念追求型の政党政治への変革を主張している。その上で、国家の行政形態として道州制国家を展望している。
 
元大蔵官僚の榊原英資氏や民主党などは、わが国ではいまだ歴史的な体験がないことを理由に、国と人口40万人程度の自治体(基礎的自治体)の二重構造国家を主張しているようだが、国家概念としては道州制国家の方が優れている。新しい歴史を創造してゆくことだ。
 
わが国ではヘーゲルの『法の哲学』の研究や「弁証法」の能力の修行もせずに、一国の指導者の地位にさえ就くことができるのである。以前に「国家指導者論」という小論(http://anowl.exblog.jp/7671044)でも論及したが、ヘーゲルの『法の哲学』や「弁証法」について何らの素養もなくして首相の職さえ勤まることのできるこの国では、その「党首討論」といっても、その実、自らの政治のレベルと学問科学の哀れな水準を、世界に告知するだけの恥さらしでみじめなものになり終わらざるをえない。それもやむをえないと言える。何度も繰り返して言っているけれども、西洋のことわざにあるように「自分たちにふさわしい水準以上の政治を国民はもつことは出来ない」のである。
 
フランス革命や文化大革命など過去の歴史的な事件などにおいても見られたように、また、現在も世界各地でなお続いている民族や宗教間の紛争、とくに中東やインドなどに起きている各宗教、宗派間の紛争などの不幸の根源が、理性的な思考の能力に欠けた指導者、大衆のその悟性的な意識と思考にあることも明らかにした。
 
狂信や個人崇拝の認識論上の根源がその「悟性的思考」にあることを明らかにして、悟性的思考と理性的思考(弁証法思考)の違いを明確にし、後者の能力なくしては罰と不幸は避けられないこと、理性的思考(弁証法思考)の決定的な重要性について論及していることなど、これらもこの全集の意義であるといえるかもしれない。
 
 
 
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山野辺の宝石

2009年05月10日 | 日記・紀行

                                             




次第に山野辺の面影も夏の彩を帯びてくる。春の花はすでに散り、新芽のすがすがしい新緑も強い日の光を浴びて日々さらに葉の色の濃さを増してゆく。街中の暮らしに、季節の変化をさほど実感することはないけれど、山辺を歩くと自然の循環と回帰を痛感する。秋冬春夏それぞれに山野辺は相貌を変える。

昨年の今頃は夏野菜の種を蒔いていた。 夏の盛りの暑い日ざしの下で、トマトをもいで食べた時に舌と肌に感じた自然は、今も身体の感覚に深くきざまれている。幼い頃に田舎で味わったトマトの香りの記憶を蘇らせたいという長年のささやかな夢はかなった。

夏野菜を植える
http://anowl.exblog.jp/7945077/

昨年と同じように、今年も生命感にもっともあふれる夏を深く味わいたいと思うけれど、この夏は忙しくなりそうで、余裕を見て見送ることにする。

生涯に残された夏もさほど数が多いわけではないが、一回や二回見送ったとしても、後悔することはないと思う。また再び豊かな夏の日々を迎え味わう日の来ることを期待している。楽しみが先に延びただけだ。

この夏はそれなりに手間のかかる夏野菜に代えて、果樹としてビワを新たに植えることにした。もともと野菜よりもむしろ果樹に惹かれて農作業を始めた経緯がある。

できるだけ荒れた山地に近いところを切り開いてそこに植えることにする。もともと昔は農地であったところだけれど、トラクターなどの農機具が入りにくい土地なので、耕作が放棄されて長年の間に荒れ果ててしまったのである。

このあたりは茶畑に利用されていたらしく、すでに野生化した茶の木がところどころに残されている。むかし静岡で新茶摘を経験したのを思い出しながら、
笹や雑木にまぎれている茶の木の新芽を摘んで持ち帰った。家で玉露の茶にして飲む。

山辺の道を辿って入ると、野いちごが至るところに目に付く。ほとんど人が入らないところで、赤い小さな宝石をちりばめたように映る。赤く熟した小さな実は、それなりに甘い。

昼を過ぎたころ、畑の仲間がマムシを見つけたというので見に行く。すでに頭をつぶされ踏みつけられたマムシが尻尾を捩じらせていた。マムシを見るのも久しぶりである。というよりも子供のころはまだ近所に青大将なども見かけたし、郊外に行くとカラスヘビやシマヘビなどのヘビも見かけた。しかし、畑が住宅地になり、都市化も進むとそうした自然の面影もすっかり失われてしまった。

Mさんは、足でマムシの頭を踏みつけながら、誰かに鋏を借りると尻尾の皮を切り、それを切り口にヘビの皮を剥いでいった。するとタイの刺身のような白身が現れ、ヘビの内臓が透けて見える。 そして首を落とすと池のほとりの水流に持って行った。ヘビの白身を裂いて内臓を取り出し、近くの茂みにそれを投げ捨てた。そしてマムシの白身を篩の網に張りつけて、またたくまにマムシを天日干しにする。


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