夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

西行歳暮和歌七首

2014年12月31日 | 日記・紀行

 

西行歳暮和歌七首

題しらず

567
山ざくら  思ひよそへて ながむれば  木ごとの花は  ゆきまさりけり

 

仁和寺の御室にて、山家閑居 見雪といふことをよませ給ひけるに

568
降りつもる  雪を友にて  春までは  日を送るべき  み山辺の里


山家冬深

569
訪ふ人は  初雪をこそ 分け来しか 路とぢてけり   み山辺の里

570
年のうちは  訪ふ人さらに  あらじかし  雪も山路も  深き住処を


世を遁れて、鞍馬の奥に侍りけるに、筧氷りて、水もうで来ざりけり。春になるまでかく侍るなりと申しけるを聞きて、よめる


571
わりなしや 氷る筧の水ゆゑに  思い捨ててし  春の待たるる


みちのくににて、年の暮れによめる

572
つねよりも  心細くぞ 思ほゆる  旅の空にて  年の暮れぬる

山家歳暮
573
あたらしき 柴の編戸を  たてかえて  年のあくるを 待ちわたるかな

今年もこの拙いブログに訪れてくださった皆さん、どうか良き新年をお迎えくださいますよう。

 

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クリスマスイブ

2014年12月24日 | 日記・紀行

 

Enya - Oíche Chiúin (Silent Night with Lyrics)

クリスマスイブ


昨夜、ラジオの深夜便を聴いていたら、アンカーの村上里和さんがクリスマスイブだということで、エンヤの「清しこの夜」を紹介していました。ケルト語で歌われているとのことです。潔らかな声です。

早いもので今年ももう終わりです。残念ながら大した成果なく今年も終わりそうです。今年お世話になった方、失礼とご無沙汰に終った方々にお礼とお詫びをかねて、クリスマス・イブのご挨拶を送ります。クリスマスおめでとうございます。



「そ こで、イエスは群衆の中から、彼一人を引き出し、その男の耳に指を差し入れ、つばを吐いた手でその男の舌に触れられた。そうして、イエスは天を仰ぎ、深く うめきながらその男に向かって、エファッタ、と言われた。開け、という意味である。たちまち男は聴こえるようになり、どもっていた舌はなめらかに話せるよ うになった。」

 (マルコ書 7:33ー34)

 

 

 

 

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自然の観察

2013年03月28日 | 日記・紀行

 

 

2013年平成25年3月27日(水)翳、小雨

先週の土曜日に仮植えしたままの二本の梅の苗木。何とか植え切ってしまおうと思い出掛けた。が、あいにく今日は空模様が怪しい。ネットで天気予報を確認したが昼過ぎから小雨になるという。

時 折は日が差すけれど、空はどうしても翳りがち。やれるだけやってから帰ろうと作業を始めた。三時頃になって小雨が降り始めた。切り残した畑の篠の上にブ ルーシートを張って、その下で雨を凌いだ。ウグイスの澄んだ鳴き声が聞こえる。少しでも小降りになれば取り掛かろうと思ったけれど、土が濡れて掘り返せば 泥になる。それを見て今日の作業はやむを得ず、霧雨になったのを見て山を降りる。

 

  梨の蕾

                                                                 桃の木の蕾

 

 

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今日はクリスマス

2012年12月25日 | 日記・紀行

 

 Gleich wie der Regen und Schnee vom Himmel fällt.

Dominica Sexagesimae.

„Gleich wie der Regen und Schnee vom Himmel fällt.“

1、SINFONIA.

2、RECITATIVO.叙唱

Gleich wie der Regen und Schnee vom Himmel fällt und nicht wieder dahin
ちょうど雨や雪が天空から降るように、そして、ふたたびそこに戻ることはなくて、
kommet, sondern feuchtet die Erde, und macht sie fruchtbar und wachsend, dass
地を潤して果実と稔りをもたらし、そうして蒔く種と食すべきパンを与える。
sie giebt Saamen zu säen und Brot zu essen: also soll das Wort, so aus meinem
私の口から出てゆく御言葉もまたそのようにしてあり、
Munde gehet, auch sein; Es soll nicht wieder zu mir leer kommen, sondern thun,
ふたたびむなしく私のところに戻ることは決してないだろう。むしろ私を喜ばせることを行い、
das mir gefället, und soll ihm gelingen, dazu ich’s sende.
そして、私が遣わすところのことを成し遂げるだろう。


3、CHORAL.RECITATIVO.合唱と叙唱

Mein Gott, hier wird mein Herze sein,
私の神よ、ここに私の心はあります。
ich öffne dir’s in meines Jesu Namen:
私はイエスの御名においてあなたを迎えます。
so ströme deinen Saamen,
そうして、あなたの種子を蒔いてください。
als in ein gutes Land hinein.
良き土地に蒔かれるように。
Mein Gott, hier wird mein Herze sein,
私の神よ、ここに私の心はあります。
lass solches Frucht und hundertfältig bringen.
こうした果実を百倍にしてもたらしてください。
O Herr, Herr, hilf! o Herr, lass wohl gelingen.
ああ、主よ、主よ、助けたまえ!ああ、主よ、善く成し遂げさせたまえ。
Du wollest deinen Geist und Kraft zum Worte geben,
あなたは御言葉に御身の霊と力を与えらる。
erhör uns, lieber Herre Gott!
我らの願いを聴き入れたまえ、愛する主なる神よ。
Nur wehre, treuer Vater, wehre,
ただ防ぎたまえ、誠の父よ、
dass mich und keinen Christen nicht
私を、そして、いかなるキリスト者をも
des Teufels Trug, des Teufels Trug, des Teufels Trug verkehre.
悪魔の誘いから、悪魔の誘いから、悪魔の誘いに迷うことから守りたまえ。
Sein Sinn ist ganz dahin gericht,
彼らの思いは、すべて誘いに迷わせること、
uns deines Rathes zu berauben
あなたの助言を私たちから奪い去ること、
mit aller Seligkeit, mit aller Seligkeit.
すべての祝福とともに、すべての祝福とともに。
Den Satan unter unsre Füße treten,
サタンを私たちの足の下に踏みつけ、
erhör uns, lieber Herre Gott!
私たちの願いを聴き入れたまえ、愛する主なる神!
Ach! viel verläugnen Wort und Glauben
おお、多くの者は御言葉と信頼とを拒み、
und fallen ab, wie faules Obst,
そして、腐った果実のように落ちる、
wenn sie Verfolgung sollen leiden.
彼らが迫害に苦しみ悩まねばならぬ時に。
So, so, so stürzen sie in ewig Herzeleid,
そうして、そうして、そうして彼らは永遠の心の悩みへと落ちてゆく。
da sie ein zeitlich Weh vermeiden.
そこで彼らは浮き世の苦しみから逃れるために。
Und uns für des Türken und des Pabst's
そして、私たちをトルコ人と教皇の
grausamen Mord und Lästerungen,
無慈悲な殺戮と嘲りと、
Wüten und Toben väterlich behüten,
凶暴とそして狂気から、父としてお守りください。
erhör uns, lieber Herre Gott!
私たちの願いを聴き入れてください。愛する主なる神!
Ein Andrer sorgt nur für den Bauch;
他の者が気がかりなのは、ただ腹のことだけ。
inzwischen wird der Seele ganz vergessen.
その間に霊魂のことはまったくに忘れ去られている。
Der Mammon auch
財神もまた
hat Vieler Herz besessen.
多くの心に取り憑いている。
So kann das Wort zu keiner Kraft gelangen.
そのために、御言葉には力無く、心にも届かない。
Und wieviel Seelen hält
そうして、どのくらい多くの霊魂が
die Wollust nicht gefangen!
欲情の虜となったままではないか!
So sehr verführet sie die Welt,
そうして、この世は彼らを巧みに惑わして、
die Welt, die ihnen muss anstatt des Himmels stehen,
この世が、彼らには天国に代わってこの世が立たねばならず、
darüber sie vom Himmel irre gehen.
あげくは、彼らは天国からさまよい出るのだ。
Alle Irrige und Verführte wiederbringen.
迷いそして誘惑されたすべての者が戻って来る。
Erhör uns, lieber Herre Gott!
私たちの願いを聴き届けてください。愛する主なる神!


4、ARIA.

Mein Seelenschatz ist Gottes Wort,
私の心の宝は神の御言葉。
mein Seelenschatz ist Gottes Wort;
私の心の宝は神の御言葉。
ausserdem sind alle Schätze
その他のすべての宝は、
solche Netze,
網のようなもの、
welche Welt und Satan stricken,
この世もサタンもどちらも、
schnöde Seelen zu berücken.
卑しい霊魂を捉えようと罠を張る。
Fort mit allen, fort, nur fort,
遠くへすべて。去れ、ただ遠くへ。
mein Seelenschatz ist Gottes Wort.
私の心の宝は、神の御言葉。


5、CHORAL.


Ich bitt o Herr, aus Herzens Grund
私は願う、おお主よ、心の奥から、
Du wollst nicht von mir nehmen
あなたが私から離れられないことを。
Dein heilges Wort aus meinem Mund,
私の口より出るあなたの聖なる言葉は、
So wird mich nicht beschämen
それゆえ私を辱めることはない、
Mein Sünd und Schuld,
私の罪と咎も、
denn in dein Huld
私はあなたの慈しみに
setz ich all mein Vertrauen,
私のすべての信頼を置くゆえに、
Wer sich nur fest darauf verlässt,
ただ強く身をそこに寄せる者は、
Der wird den Tod nicht schauen.
誰も死を見ることはない。

 

 

 久しぶりにバッハのBWV18《雨や雪が天空から降るように》„Gleich wie der Regen und Schnee vom Himmel fällt.“のCDを取りだして聴いた。全集に収められているのは、アーノンクールの演奏である。

 こ のカンタータで主題にしているのは、「神の御言葉」とそれを「受け入れる心」である。モーゼが「人はパンのみに生きるのではなく、主の口から出るすべての 言葉によって生きる」(申命記 8:3)と言ったことが聖書のなかに記録されている。この言葉は後に、イエスが荒れ野で苦行をしていたときに、悪魔から石に命じてパンになるようにと誘惑 され た時にも、このモーゼの言葉を引いてイエスが悪魔に答えられたことで良く知られている。

雨や雪が天から降るように、そして、大地を 潤し、果実を実らせるように、御言葉も神から来て、御心に望まれることとを成し遂げる使命を必ず果たす。イザヤ書第五十五章十節十一節をバスの叙唱で歌い 上げる。それに引きつづき、CHORALとRECITATIVO(合唱と叙唱)のテノールとバスが交互に、ルターの祈祷を引用しながら心の願いを祈る。

神の御言葉は「種子」に、私たちの心は「土地」にたとえられる。「良き土地に蒔かれるように。私の神よ、ここに私の心はあります。こうした果実を百 倍にしてもたらしてください。」「良き地に落ちし種あり、生え出でて百倍の実を結べり」(ルカ8:8、マタイ13:23)などの聖句からの引用を詩にして 歌うものである。

音楽それ自体のなかに立ち入って技巧的に批評することは、音楽を専門にもしていない者には良くしえない。ただそれでも、その構成の展開からも直観できることは、この小さな作品のもつほんとんど非の打ち所のない美しさである。

冒頭のシンフォニアから、それを受けてイザヤ書の一節を叙べ歌い、さらに連祷のコラールのなかで、世の誘惑と葛藤サタンとの闘いの苦しみを低音のバスで語り、ついには、神の言葉を宝とするに至る純粋な歓ばしい心の境地を、透明で美しいアリアに歌う。

これらの連祷のなかに「トルコ人と教皇の無慈悲な殺戮と嘲り」など宗教改革で知られるルターの祈祷も用いられている。いかにもプロテスタントの時代背景を思い出させる。

「私の心の宝は神の御言葉」と教化の目的はソプラノの美しいアリアで歌われ、最終章では、神の御言葉に依り頼む者の罪科も救われる希望を、重厚なコラールの歌う祈りで終わる。

バッハのカンタータなどの音楽は、本来実際に教会のミサなどの祭祀において歌われた宗教的楽曲であって、今日のように、コンサートホールや自宅で、純粋に音楽として鑑賞されるものではもちろんなかった。

die Welt と対比させられる  die  Himmel など興味のあるテーマも題材になっているけれども、それらの考察についてはまた別の機会に。

今年もまた、送るべき人にクリスマスカードも送りきれなかった。それに代えてせめて、ここだけでもお祝いをお伝えして。メリークリスマス!来る年も良き一年でありますよう。

 

 

 

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自然と人間

2012年09月26日 | 日記・紀行

       

自然と人間

二〇一二年九月二十六日(晴)

山畑に行く。ようやくにして暑い夏も過ぎ去り、あぜ道のあちこちには彼岸花のつぼみも散見するようになった。すでに咲き出しているのもある。所々まだ刈り残された稲畑が残っている。

この国の自然は地球上の北緯35度前後あたりの温帯に属し、ユーラシア大陸の東縁に位置するところから来る温暖な気候風土が特色であるといわれる。アフリカにおけるような原色に充ちた植生も、ライオンや象、キリン、ワニなどの動物に見る荒々しい生命力の露出もなく、また、ロシアやアラスカのような厳しい冬もない。

今年の反日デモで中国人たちが「小日本」といつものように揶揄したように、たしかに国土も狭く、モンゴルのような大草原もなく、どこを見回しても箱庭のような山国である。

地理としては国土は、その東岸を太平洋と黒潮に洗われ、日の出は太平洋の遙か沖合の水平線の上に眺める。子午線の関係からも世界に先駆けて日は昇る。

国土面積は世界第六二番目ぐらいだそうで大きくはない。ただ、排他的経済水域と領土、領海を含めると世界第九位になるという。中国は第七位である。

先ごろその「大中国」がようやくにして、この国にしてはじめての空母「遼寧」を大連港で就航させたそうだ。「遼寧」と名付け、母港を東シナ海に面する遼寧省の大連港とすることにも中国の戦略的な意図を予想させる。

ウクライナから買った中古空母ワリヤーグを改造して作った「遼寧」であるが、完全な自前で航空母艦をつくるだけの余裕もないほどに戦略的にも急いだということだろう。

遼寧省の大連は、戦前の日本が深く経営に関わった縁のある旧満州の都市である。政変で失脚した薄熙来氏もかって市長をつとめたこともある。日系企業も多く進出している。日露戦争では遼東半島が戦争の舞台ともなった。

「小日本」は大国ロシアには辛うじて勝った。太平洋戦争に敗れたアメリカによって今は軍艦を建造することも禁じられているが、戦前にはすでに世界最大の戦艦「大和」を造った。「大中国」に先駆けて、1944年には世界最大の航空母艦「信濃」を造っている。アメリカの原子力空母「エンタープライズ」が1961年に登場するまでは、この空母「信濃」が史上最大の排水量を持つ空母だった。

「小日本」は必ずしも「小精神」とは言えないと思う。かって戦国時代の豊臣秀吉は大陸の明に攻め入ろうとしたこともあったし、織田信長などは、さらにもっと気宇壮大な精神をもっていたのではなかったか。いずれにせよ「大中国」も「小日本」も、銀河系の彼方から見れば、蟻とコオロギほどの違いもない。

山畑で土を耕していると、くわしくは種属もわからない様々の小動物との出会いがある。ミミズ、クモ、バッタ、沢カニ、カエルなど、マムシなどの蛇や鹿、猿などとも出会う。時間に余裕さえあればデジカメにでも記録できればいいと思うけれども。

小さなカエルが土の中から出てくるのを見ると、人間の生命もカエルの命も、本質的な差異は少しもないのだと思う。

コスモスやまだつぼみの曼珠沙華などは途中に見られたが、山のなかに入っても、萩やススキ、クズくらいしかまだ目に付かない。キキョウはとにかく、ナデシコもオミナエシもフジバカマもその姿を見ない。幼い頃の記憶の片隅にあるような秋の野山の風情に反復はない。

ハジカミショウガを思い出したように今頃になって収穫する。八丁味噌で味わおうと思う。遅れをとっていたニンジン、ダイコン、ブロッコリなど冬野菜の種もようやく植え終えた。昨年に蒔いた茶は何とか成長しているが、今年の紅茶の種は失敗した。ほとんど芽が出て来ない。

いつものことながらことながら、美しい青や赤の一ミリにも足りない小さな種から、ニンジンやカブの姿を現わすのは奇蹟としか思えない。この広大無辺の宇宙の神秘は私たちの存在を含めて想像を絶している。紅茶の畝を少し整備した後、毎年遠くから眺めていたコスモスの群生するところに近づいて、カメラにとった。 

         

                      

 

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暑中お見舞い申し上げます

2012年08月05日 | 日記・紀行
        

暑中お見舞い申し上げます

相変わらず暑い日が続きます。鈍い頭がいっそう鈍くなり、このブログの更新もさらに滞りがちになります。今年のはじめに年賀状を送りそびれるという 生涯はじめての失礼をしてしまったので、例年は送ることのない暑中見舞いをお送りすることによって、お茶を濁させていただきました。

八月にはいっても、相変わらず良く晴れた暑い夏らしい日が続きます。折しもロンドンではオリンピックの熱戦が繰り広げられています。

現在のところ日本チームは金メダルが二個で、金メダルの獲得ではあまりふるいません。とくに柔道での不振が大きいようです。二十一世紀になって十余年、我が国における柔道の伝統的な遺産というものは、ほぼ食いつぶしてしまったように思われます。

ヨーロッパにはギリシャローマ以来の文化的にも科学的にも伝統的な遺産という太い幹があり、その太い幹に日本の柔道もしっかり接ぎ木されたようです。「JUDO」として、精神的にも技術的にも今後母国日本を越える大輪の花を咲かせてゆくことになるのでしょう。

これから日本の柔道が復活して行くためには、柔術などの古武道の根源につねに立ち戻るとともに、一方で、欧米の哲学・科学の伝統を日本の柔道家たちが一刻も早く自家薬籠のものとしてゆくことです。それによって「ゴリラ柔道」から脱却してゆかねばなりません。

自動車産業やかっての半導体産業のように、欧米の科学技術を日本が導入して、自国の産業として立派に開花させた経験があります。かって唱えられたことのある「和魂洋才」といった中途半端なものではなく、「洋魂洋才」に徹しなければなりません。

ここで言う「洋魂」としての「西欧の哲学と科学の伝統」は、単なる「洋魂」にとどまるものではなく、その遺産は「普遍的」なものだからです。真の「洋魂」によって「和魂」を復活再生させなければなりません。

私たちアジア人が欧米にうち勝つためには、西欧人の持つ武器を自分たちのものとして、彼ら以上に「西欧の哲学と科学の伝統」を活用する以外にはないからです。

久しぶりにというかこの間、たまたまNHKの大河ドラマ「平清盛」を見ることがありました。そのシーンのなかに、現在国宝とされる「平家納経」を主人公の清盛が厳島神社に奉納してゆく場面がありました。

確かに歌人の西行法師は平清盛とほぼ同時代人で、讃岐に崇徳院の供養に訪問しているのも歴史的な事実です。しかし、嵐の中を西行法師が清盛と同船して厳島神社に納経に訪れたどうかは、史実なのかドラマとしてのフィクションなのかどうかはわかりません。

ただ、その場面では、かって一度でも西行の和歌に感動したことなどおよそ感じられもしないような若い俳優が西行法師を演じていて、どうしても役者不足という感想をぬぐえませんでした。

芸術性、思想性、娯楽性そのいずれをとっても、過去のNHK大河ドラマ作品と比較しても高く評価はできないように思われます。NHKの担当ディレク ターたちの資質能力も落ちているのではないでしょうか。国家の中枢とも言える重要な使命を持つ公共放送がこの体たらくでは、本当にゆゆしき問題です。

いわゆる保守的な立場からすれば偏向しているとされるNHKの報道姿勢は、 この番組にも明白に見て取れるように思われました。もし、この大河ドラマの制作者たちが、「自分たちの隠された左向き思想」で国民を洗脳できる、と考えて いるのであれば、あまりにも国民を馬鹿にした傲慢な振るまいでしょう。このドラマの中にも彼らの性向は、皇室の伝統のいたずらな冒涜として象徴的に現れて いるように思われました。国民は黙ってこのドラマ「平清盛」をみています。

確かに戦前と比較して不敬罪そのものはなくなりましましたが、皇室をいたずらに軽率に不必要に不敬に取り扱って良いことにはならないと思います。

若き日の西行に面会した藤原頼長も保元の乱に敗れて死んでいます。謹慎のために仁和寺で出家した崇徳院の剃髪にも西行法師は立ち会っていたようです。

平清盛ら平家一門が勢力を固めるきっかけにもなったこの保元の乱に際して、西行は浮き世の転変を、次のような前詞書きとともに歌い残しています。

    世の中に大事出で来て、新院あらぬ様にならせおわしまして、御髪おろして、仁和寺  の北院おはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨出であひたり。月明かくて詠みける             

1277    かかる世に  かげも変わらず  すむ月を 
         見るわが身さへ  恨めしきかな


讃岐に流されその地に没した崇徳院を供養するために西行はこの地を訪れ、草庵を結びもしています。

源頼朝も伊豆に流されるなど、貴族から武家の社会へと権力の移行するこの端境期の時代もそれなりに過酷なものであったようです。崇徳院には百人一首の中に

    瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
       われても末にあはむとぞおもふ

という涼しげな歌があります。崇徳院の母は待賢門院藤藤原璋子であり、この美しい女性はとりわけ西行とはゆかりが深かったそうです。この女性にちなんだ和歌も多く残しています。

やがて今年も敗戦記念日を迎えます。第二次世界大戦に巡り合わせた世代は、保元平治の乱とは比較にはならない過酷な運命を辿らざるを得ませんでした。

今年も相変わらず感傷過剰の戦争の季節を迎えることになるのでしょう。そこで見られるのはテレビ業界演出の戦争懺悔のマンネリ化した番組のパレード です。残念ながらこれまでのテレビ番組で過去の戦争を相対化して徹底的に科学的に、歴史的に検証しようとした番組を見たことがありません。

        

先日、ハッカ油に防虫効果があるのを知って、小さなボトル噴霧器と一緒にインターネットを通じて購入しました。山畑の農作業でブヨなどに少なからず 悩まされていたからです。防虫ネットなどを帽子の上から被っているのですが、それでも耳先や首元、二の腕などを狙って刺してきます。

桃の木のところにたどり着いて一休みしているときに、首筋や手首、耳などにハッカ油を吹きつけ刷り込んでみました。すると折から吹き込んでくる風が鼻水が出そうなほどに涼しく感じられます。

防虫効果についてはまだよくわかりません。ただ、刺されてすぐにハッカ油を塗ると、腫れはかなり押さえられるようです。

 

 

 

 

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山岸の正月4

2012年01月27日 | 日記・紀行

山岸の正月

AUCH  ICH  IN  ARKADIEN

 

 参観が終わると、楽園村会場の風呂に入り、その後牛しゃぶ料理を皆で楽しんだ。この時私たちのテーブルで給仕してくれたのは、神戸から来ていた陽気な看護婦さんだった。 

食後ふたたび研鑽会があった。この夜は、今後の我々の取り組みがテーマになった。資料には楽園村に参加した子供たちの作文と、その父親からの手紙がコピーして渡され、それを材料に「無償の行為」についての研鑽が進められた。三十名近い、社会経験も豊かな大人たちが集団で思考し、研鑽する。

十一

三日目の朝は軽い作業があった。作業着のうえにヤッケをまとい、長靴を履き、それぞれが、豚舎の建設、養牛部、養豚部に分かれた。私は希望通り養牛部に行った。作業は牛糞出しと、砂入れである。近くで見る牛は図体が大きいが柔和な眼をしている。この牛舎には千頭からの牛たちがいて壮観である。

牛の肛門から滝のように流れ落ちる尿と糞には驚かされるが、臭気は、肛門を出るとき少し臭うだけで、後は下水のドブ浚いの感覚と変わらない。ただ、牛の寝床に砂を入れていく作業は体力がいる。かっては木材のチップを使っていたが、乳房炎を起こしやすいとかで、今は砂を敷き詰めているそうだ。高等部の生徒も糞尿出し作業を手伝っていた。

十二

 

朝の六時から始まった作業が終わると、借りていたヤッケと長靴を返して、生活着に着替えて、ふたたび豊里温泉で汗を流した。宿舎に戻ると「お母さん」たちの書き初めも廊下に張り出されてあった。あの人は、女性らしい柔らかな筆跡で「やっぱり仲良し」と書いていた。

 

研鑽会の感想文に、古き良き日本の正月を味わって充実した三日間だったと私は書いた。最後の食事を終えると、AB両班がふたたび合同して、出発研鑽会があった。今まで主婦や子供たちの多かったヤマギシの会活動も、社会化運動に向けて、いよいよお父さんの出番であると、地域に帰ってネットワーク作りに尽くすことなどを確認しあった。一同揃って記念写真を撮った。皆いい笑顔を見せていた。

 

十三

 

徳島から来ていたH氏と、津の駅まで同行するはずだったが、津駅行きのバスがあるということで、氏はそれで行くことになった。大阪から来ていた男性とは握手をして別れた。そこで皆と別れてひとり駐車場まで車を取りに歩いた。

 

途中の広場に、モスグリーンのスーツに着換えたあの人が、仲間たちと一緒に立って談笑していた。自動車に乗って村を出る際、ふたたび広場を横切ることになったが、その時あの人は確かに自分の方に向かって強く手を振った。

 

あの人はこの三日の間、食事の時も一度も私の座ったテーブルに来ることはなかったし、視線すら合うことはなかった。しかし、もし私の名を聞き知っていたとすれば決して見逃すはずはない。ちょうど私が食堂であの人がいつも気にかかったように。

バックミラーの中に、強く手を振って見送るあの人の姿を眺めながら、一路帰途に就いた。 

       

                                                                                (一九八九・一・四)

 

 

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山岸の正月3

2012年01月26日 | 日記・紀行

 

岸の正月

AUCH  ICH  IN  ARKADIEN

再び豊里の村に帰り着くと、「書き初め」と「初釜」の会場が用意されていた。白い紙に真新しい立派な筆と、硯に墨が添えられていて、「至れり尽くせり」であった。皆が心に描いたこの一年のテーマを、大きな長い紙にそれぞれ書いた。

男らしく、ただ「やる」と書いただけの者、「日々研鑽」「軽く出す」とか「一歩前進」、「父として男として」とか百人百様に書いた。私は何を書こうかと思ったが、巳代蔵さんの文章の一節から「光彩輝く将来」と書いた。 この書き初めは後になって廊下にすべて張り出された。

次いでお茶会があった。だが、この初釜は堅苦しいものではなく、控え室で正月らしく着飾った婦人たちから、作法について簡単に教わってから、席に出た。

色鮮やかな和服をそれぞれに着飾った高等部の学生の村の娘たちから、手作りの和菓子と抹茶で心からのもてなしを受けた。彼女たちの作法の上手下手を見る眼はなくとも、正月の引き締まった心を味わうには、この茶室と静々とした作法の雰囲気だけで十分である。

二日目の第二食で、はじめてお節料理と雑煮が出た。いつしか気取られぬように彼女の姿を眼で追っている自分に気づいた。二日目の圧巻はやはり相撲大会である。養鶏部、出版部、流通センター、蔬菜部、養牛部、肉鶏部などの各部門から、一部屋七名、また我々「お父さん研」から二部屋十四名の総計八十名近くの男が参加した。

行司も審判役も本格的な装束で、にわか力士たちを囲む。肌の白い西洋人も二人参加していた。子どもたちも、村の娘も、老蘇さんも皆こぞって、男たちの力闘に声援を送る。力士たちも持てる気力を振り絞って闘う。激しい闘志のぶつかり合いなので、胸や膝に擦り傷などはしょっちゅうである。顔面を強く打って脳震盪を起こし、鼻血を出す者もいた。時間のせいもあったのか、上位三部屋を出しただけで、優勝部屋を決めなかった。我々「お父さん研」の力士たちもよく闘った。

  

 相撲が終わると、我々のメンバーは三つのコースに分かれた。宿舎に戻って自由に寛ぐ者、鶏舎入って卵を集める者、村の中を参観して回る者である。私は村をもう一度見たいと思った。村の中を歩いてゆっくりまわった。我々を案内してくれた人は、まだ参画して間もないのではないかと思った。

高等部の寮舎が完成まじかである。隣には立派な体育館兼講堂が建設中である。道路の向こうの山の上には健康特講の会場が建設中である。村全体が槌音高く建設途上にあることを感じさせる。

余儀なく畑を崩して作った駐車場には、ヤマギシのマークの入った真新しい観光バスが幾台も並んでいる。学生のための学育菜園には菊菜が植えられ、馥郁園では老蘇さんらの作った薔薇や菊、盆栽などが並んでいる。発酵した堆肥を実際に手にとって眺め、匂いを嗅いだ。

 

馥郁園の右手には「太陽の家」があり、そこでは子供たちが遊んでいた。小高い丘の上に立っている、太陽の家に通じる門には、「子放れの門」と「宇宙ステーション」の二つの大きな分厚い表札が掲げられ、ここでは親は子放れの練習をし、子供たちは無重力圏へと駆け出してゆくのだという。村人の衣服を洗濯し管理する黎明館、結婚式のある豊里会館、飼料センター、精乳部など、工場や倉庫などを抱えながら、ここに七百名ほどの村人が暮らしている。

 

 

 

 

 

 

 

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山岸の正月2

2012年01月20日 | 日記・紀行

山岸の正月2

AUCH   ICH   IN   ARKADIEN



日のまだ明るい内に、お風呂に入り、心身ともに寛いだ後に、用意されていたのは、広く明るい豊里食堂での食事であった。ヤマギシでは食事の前には必ずメニューの紹介がなされ、そこで材料の由来や、料理をした人の「思い」が紹介される。

第一日目のメニューは豚肉の生姜焼きであった。メニューの紹介に次いで、この研鑽会に裏方として参加した「お母さん」の紹介があった。以前にある女性を紹介されたことがある。この時ふと、、この「お母さん」の中に、彼女が来ているではないかと思った。記憶に残っていた名前をその中に探すと、偶然に二人いたが、左側のカーテンの前で、ほほえみを浮かべて立っている女性が、その人ではないかと思った。

この研鑽会に参加した「お父さん」は、実顕地のメンバーを含めて、六十八名である。それに食事の世話や朝晩の布団の上げ下ろし、部屋の清掃など生活スタッフとして加わった主婦や女性のボランティアは、二十二名であり、総勢九十名ほどでこの研鑽会をつくりあげていった。これだけの多人数が明るい食堂に一堂に会して、ユーモラスな話に笑いとよめきながら、老いも若きも食事を共にするのは愉快なものである。

裏方に徹した「お母さん」のテーマは、「至れり尽くせり」だと言った。ヤマギシでは何か仕事をする時、必ずと言っていいほど、テーマを研鑽して掲げる。岡山から来ていた主婦は、個人的には「何でも、ハイでやります」というテーマに取り組んでいたが、彼女は後で、ある「お父さん」から、「背中を流してくれ」と冷やかされて困ることになる。

広い食堂の、カーテンで仕切られた向こう側では、子供たちや学生たちが大勢賑やかに食事をしていた。私たちの囲んだテーブルには、二人の女性がそれぞれ受け持って、親切に給仕してくれた。この時ばかりは「お父さん」は箸の上げ下ろし以外何もすることはなく、陽気で美しい「お母さん」の給仕で、心身共に腹一杯にしてもらって見送られ、出発研鑽会の会場になっている、学育鶏舎にある鶏鳴館へと向かった。



部屋の壁に、テーマとサブテーマが大きく書かれて掲げられてある。ここで全員がこの研鑽会に参加した動機を述べた。それはもちろん人様ざまであったが、なかには「お父さん預かり」とか冗談めかして言う者もいた。しかし、概して参加者は、父親として男としてあらためてこの機会に生き方を考え直そうとしていたようである。ある人は、妻や子ども達がヤマギシに熱心なので、ヤマギシのことを知るために渋々参加した「お父さん」もいた。

それから参加者はA班とB班とに振り分けられて、明日の相撲大会のために早速準備研に取り組んだ。出場力士を選び、その四股名を決めるのに、各人の特徴や出身地などから案を出してゆくのだが、髪の毛が薄く、歳より老けて見られる「お父さん」は、「年寄り若」、酒好きな「お父さん」は、「千鳥足」、本職が獣医で風采の立派な青年は文字通り「獣威」、富士山麓で蕎麦屋を営む「お父さん」は「富士之側」などユーモラスな四股名が考え出され研鑽されていった。この過程でいっそうに和気藹々となり、大人の「仲良し」が深まってゆく。B班部屋は「二十一世紀を創る部屋」と名付けられ、部屋の幟も描かれた。



この新春「お父さん研鑽会」は実に良く仕組まれていて、会運営も事前に深く研鑽されていたことを伺わせる。行事は日程表に沿ってきっちりと実行されていった。二日目の朝は五時起床である。大安農場から日の出を見るためである。宿舎の前に集合したときには、まだ外は真っ暗で、空には月が弦を描いて輝いていた。寒いけれど、マフラーを巻きジャンバーの下に十分に厚着をしてきたので、むしろ、これくらいの冷え込みは心地よい。

まだ新しい立派な観光バスが、広場に待っていた我々を迎えに来た。大安農場まで一時半の行程である。私はバスのなかで、昨夜の浅かった眠りを癒した。

大型バスは頂上までは登ることができず、我々は麓から白い息を吐きながら歩いて上った。その頃になってようやく白々と夜が明け始めた。頬を刺す、清々しい朝の大気を吸いながら、大安の梨農園に着いた時、そこでは焚き火の火を起こしながら、北原さんが待っていた。パチパチと燃えさかる火を囲むみんなに、彼は十一年前の正月を感慨深げに思い出すように、この地に入植した当時のことを語った。

付近の村人に不審の眼で見られ反対に遭いながらも、「全人幸福思う者に行き詰まりなし」と言って、雑木林を切り開き、今日に至る大安農場を切り開いていったことなど。

東の空がますます明るみを増して、はるか彼方にうっすらと浮かぶ水平線の向こうに、小さな太陽が揺れるようにしてその顔を現したとき、みんなから歓声がわき上がった。太陽は見る見る内にその全容を見せたが、そこに宇宙の構造を実感すると共に、その神秘に打たれた。日の這い上る早さに時の移ろいを思う。新しい春の日の出を見終わってから、食堂に戻って暖かい昆布茶を飲み、皆で歌を合唱した。

 

 

 

 

 

 

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山岸の正月

2012年01月17日 | 日記・紀行

 

山岸の正月
 
AUCH    ICH    IN     ARKADIEN
 

 
ヤマギシズム京都供給所の林さんに誘われて、豊里の村で行われる、新春の「お父さん研鑽会」に参加した。名神高速道路の京都南インターチェンジから、栗東まで行き、そこから国道一号線に乗って関まで、そして、ヤマギシズム生活豊里実顕地のある高野尾町へと出た。途中少し道に迷いはしたが、まず順調な旅であった。

滋賀の県境で、小雨が降り出したが、すぐに止み、鈴鹿峠を越えて、伊勢の平野に入ったときにはすっかり晴れて正月らしい青空が広がった。日の丸の掲げられた、町立小学校の校舎の脇を右に折れて小道にはいると、低い冬枯れの木立の向こうにヤマギシの鶏舎特有の青いトタン屋根が見え隠れしていた。



駐車場に車を入れ、誘導板に従って歩いてゆくと、道路の辻々に案内人が立っていた。正月にヤマギシの村では様々の催しがあり、子供から老人に至るまで、この村に集ってくる。

左手に壬生菜の植わった畑を眺めながら、坂を降りきったとき、いかにも百姓らしい風采をした男が立っていたが、近寄ってみると、昨秋、村に参画したばかりのK氏であった。「よくいらっしゃいました」と言って、彼は固い握手で、私を迎えてくれた。彼は厚い防寒着に帽子を被り、その上に風よけの手ぬぐいを巻いていたので、近づくまで気がつかなかった。

彼が、支部の仲間の会員に送り出された研鑽会で、参画に至るまでの迷いや心境を語っていた時も、私は平凡な感想しか述べることしかできなかった。彼が京都大学を卒業後、建築会社で長くサラリーマン生活を過ごしていたが、東京への転勤の辞令があったのをきっかけに、村に入った。「何も今でなくとも」など上司などから慰留もされたそうである。

今こうして、穏やかな笑みを浮かべ、村を訪れた人を案内すべく、辻に立ちながら、村の正月を過ごしている。建設部で働いているそうである。むろん、これからも試練は避けられないにしても、彼もまた良い決断をしたのだと思った。

立ち話もそこそこに、私はK氏の指さした受付まで行った。木造の校舎のような建物の二階で、そこで財布や免許証、車の鍵などの貴重品を預け、それから私に割り当てられた部屋へ行った。私と合部屋になる六人の名前が、紙に書かれて入口に貼ってある。

すでに到着していた人は、一階のロビーで皆と雑談しながらくつろいでいる風であったが、私は昨夜の寝不足を補うために少し横になった。しかし、半時間ほどの浅い眠りのなかに過ごしてから、夕日の差し込み始めた窓際に寄って、外の景色を眺めた。

何も植わっていない、掘り返された冬の畑の向こうは、伊勢自動車道の土手に遮られており、さらにはるか彼方の伊賀の山々の向こうに夕日は沈もうとしていた。遠くの畦道を、晴れ着に着飾った和服の女性が、裾を風に翻しながらひとり渡って行く。空には名も知らぬ鳥が二羽、西の空に悠々と飛び去ってゆく。



宿舎の端にあった二一五号室で、参加者全員が集まって、オリエンテーションが開かれた。その中で、今回の「新春お父さん研鑽会」のメインテーマとして、「二十一世紀を創る」という標語が明らかにされ、サブテーマとして「光彩輝く将来を画策、施行し・・・」という青本の一節が掲げられた。そして、正月の三日間の日程表が参加者に配られ、研鑽会のスケジュールが紹介された。それが終わると、まだ新しい「豊里温泉」に案内された。

この浴場の外観は、瓦葺きのどっしりした日本建築になっているが、入口はガラス張りで自動ドアである。風呂場には大理石がふんだんに使われている。男風呂はグレーに、女風呂は淡いピンク色で統一されているという。大きな一枚ガラスの向こうに、枯山水の小さな庭を眺め、暖簾をくぐって風呂に入る。

 

 

 

 

 

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畑の上を舞うツバメ

2011年09月07日 | 日記・紀行


畑の上を舞うツバメ――夏の終わりに思う

長く居座った激しい豪雨で各地に被害をもたらした台風が去っていった。翌日の今日、久しぶりに空に青空が広がった。台風一過とともに夏の終わりを感じる。

田圃はまだ青いが、すでに稲穂は立っている。畑では、南の国に帰る準備をしているのか、ツバメが低い空に円を幾度も描いている。手に取ることさえできそうな高さに繰り返し自分の頭上を巡り来るツバメたちは、まるで別れの挨拶を交わしているようにも感じる。
こうしたツバメの営みにも暑かった夏も今過ぎ去ろうとしているのがわかる。

久しぶりにすがすがしい青空と青い田圃を見ながら、自然を感じる一瞬がある。「自然」は言うまでもなく、哲学においても根本的に重要な基本的な概念である。自然は精神の前提であり、その発展の帰結が人間の意識である。しかし、自然においてはまだ「概念」は内面的なものに過ぎない。(§247)

途中に第二外環工事の現場に出会う。まぎれもなく、この環状道路工事は大原野の歴史的な景観地区を破壊している。国土交通省、京都府当局の一連の行政にわが国の民主主義の愚劣と水準を思う。いまだ行政当局の歴史認識や環境意識には経済的利得優先の論理が貫かれていて、それを克服できるまでに至っていない。

道路をどうしても必要なら、どうして核シェルターと雇用対策を兼ねた地下トンネルを掘らないのか。日本版二十一世紀ニューディールとして雇用対策、経済活性化にもなる。大胆な発想と行動力を持ち合わせた政治家が出てこない日本政治の永年の「貧困」と人材の枯渇。その帰結として失われた二十年はさらに三十年に、さらには亡国へと至ろうとしている。現在の民主党政治もまた自民党政治と同様に「戦後民主主義」世代の哀れむべき能力の実態を明らかにしている。

             
                               
先月の西尾幹二氏のブログにWiLL8月号「平和主義ではない脱原発」の論文の掲載があった。雑誌で論文を読むことができなったので貴重な機会だった。

西尾氏がそこでえぐり出そうとしていることは、原子力発電の原料となるウランを諸外国から手に入れるために、日本がどれほどの桎梏と制約を、とくに欧米各国の資源メジャーから受けているかということである。それくらいなら、むしろインドやイスラエルとの闇取引で、核ミサイルを直接手に入れた方が、どれほど確実に、安価と安全に日本の自由と独立と環境に貢献することになるかもしれない。

原子力発電のためのウラン原料を手に入れるために、日本がこれほどの屈辱的な条件を呑み込まされていることも、西尾氏の論文ではじめて知った。これでは現代の日米安保条約下の日本国民に幕末の不平等条約を笑う資格はない。


すでに信用を無くした原発で、技術者も減少しているという。今度の津波による福島第一発電所の事故でさらに輪をかけてそうした事態が進むだろう。西尾幹二氏の論考を読むかぎりでは、氏の主張にも一理はあると思う。ただ、その議論の前提が正しいかどうか、さらに調査し確認する必要はあるだろう。

いずれにせよ、国防のための核技術は、東電や原子力委員会などの俗人世人や官僚オタクに曖昧に任せるのではなく、むしろ自衛隊の――これも一刻も早く憲法改正とともに国防軍に改組すべきだが――軍人たちに法的根拠を与えて、彼らにしっかりと責任をもって担当させた方がいい。

八月が去って「戦争の季節」も終わる。あれだけの大戦争だったから、その古傷はやはり深く今なお癒しがたいのか、あるいは、それ正しく克服できないのも民族の資質か。

在任中菅首相は千鳥が淵には参ったが靖国神社には行かなかった。それも伸子夫人の差し金か。野田新首相も靖国神社に行かないと言明している。自由な独立した主権国家の指導者として、それは果たして正しい選択だったろうか。

要するに、戦後民主主義の申し子としての市民運動家菅直人氏や民主党の指導者たちは、いまだ先の太平洋戦争を完全に相対化できてはいないのだ。戦勝国のアメリカが、敵国である大日本帝国軍隊の権威を失墜させるために、どれだけの「策謀」を巡らすものであるかは反省されも自覚もされていない。軍事力のみならず情報戦においても完膚無きまでに旧敵国アメリカに敗北したままだ。そのために日本は主体的に民主化すべきなのに、それができないのである。

たとえ凡才であろうとなかろうと、国民が自ら選んだ自分たちの首相を、あれほど口汚く罵るのは、国民自らの愚かさと品位のなさを証明するようなものだ。能力がなければ交替させればいいだけの話なのに。菅首相の引きずり降ろしは、現代日本の政治家連中と国民の無情と非見識と明らかにしただけだった。

NHK・BSでも、先月は終戦記念として五味川純平原作の「人間の条件」なども全編放映されていた。たまたま見たが、社会主義者監督の視点から、旧日本軍の悪弊と社会主義的人間の「個人主義」とエゴ「平和主義」の夢想があくどく強調されていた。

アメリカ合衆国軍と比較しても、確かに旧日本帝国軍隊に陰惨と抑圧の性格のあったことは事実だろう。それは正しく総括されなければならない。しかし、マルクス主義の国家観と同じく、その否定的な部分的な現象だけをもって、旧帝国軍隊の本質を、あるいは国家の概念そのものさえも否定しさろうとするのは誤りである。現代日本国民はいまだこの認識の延長線上にある。この映画もやはりアメリカによる「戦後民主主義」の視点から制作されている。

チュニジアのジャスミン革命に端を発した中東イスラム諸国では政変も今なお著しい。リビアのカダフィ大佐の命運も尽きたかのようだ。ただ、イスラム諸国の民衆がなぜアメリカを憎むのか、正しく客観的に認識しておくことは、今日の中東の政治状況を知る上での必須の前提ではある。戦前の日本もまた、そこに自らの能力を過信する愚かさが加わったとしても、アメリカの傲慢と抑圧を憎み反抗し戦ったのである。

                   

 

 

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梅雨が明ける――ヨブの忍耐をもって

2011年07月11日 | 日記・紀行

梅雨が明ける

昨日の十日、日曜日は午前中から山の畑に行く。この日の作業は、草刈り。そして、冷や麦のご相伴に与り、弁当を食べた後、無花果、柿、桃と見て回る。枇杷の木は、前々回に茎が根腐れを起こしているのを見て、その成長を断念したばかり。美しい萌黄色の若葉をつけていたので期待していたのだが、野鹿に二度も新芽を喰われて、それ以来成長を止めた。そしてこの春、枇杷の木の死を確認したばかり。この秋には、新しい苗木で再び挑戦するつもり。

今の柿の木も三本目の苗木でようやく根付いたばかり。虫食いもない美しい若葉をつけていたのに、春の終わり頃に、これもすっかり野鹿に喰われてしまった。今日あらためて見ると、再生の双葉があちこちに見られた。

全てを独占しているような、たった一人の山で、濡れたシャツと肌着を脱いで上半身、裸になる。ほとんど純白に近い肌をまだ強い昼下がりの陽光にさらす。鳥のさえずりを聞きながら、わずかな木陰を探して腰を下ろす。

無花果は、猿や鹿に枝を割かれたり折られてしまって、まともな樹形も損なわれていたにもかかわらず、何とか今のところはよく成長している。垂れた枝枝に添え木などしてやると、その下に何とか涼しげな樹陰らしきものができる。大きく育った無花果の樹陰で、夏の甘い午睡に浸るのが夢だ。

どうやら梅雨明けの宣言があったらしい。見上げる空も、夏に近い。青空を見ながら、今もなお苦難の日々を耐えている東北の人たちのことを思う。冷却設備が地震と津波で破壊され、海からのヘドロと腐った冷凍魚などから、ハエも湧き衛生環境も劣悪だという。自分にできることは何もない。ヨブの忍耐をもって耐え抜かれ、夏を乗り切られんことを、ただ祈ることができるばかり。

武田邦彦教授のブログによれば、

「(福島原発)事故直後は、北海道産の牛乳は北海道産でしたが、今では、福島、茨城、千葉の牛乳は大量に西日本に送り、そこで、「汚染された牛乳」と「綺麗な牛乳」をまぜて、ベクレルを規制値以内に納めていることも分かってきました」そうだ。それが本当なら、生産者、商業者たちの地に墜ちたモラル。気の毒な日本国民。生産者、商人にも生活がある?

「誠実な社会を取り戻したい・・・牛乳と柏市の放射線」
http://takedanet.com/2011/07/post_088c.html


また、玄海原子力発電所(佐賀県玄海町)2、3号機の運転再開を巡る国の公開説明会で、九州電力による組織ぐるみの「やらせメール」事件が発覚したばかり。東電も九電も、その上にあぐらをかくばかりの地域独占大企業だが、図体はでかいが、ネズミほどのモラルもない。

電力会社は電力不足と節電を訴えるが、肝心の火力発電や原子力発電、水力発電などの実体の正確な情報開示もない。またもや騙されているかと国民の疑念が募るばかり。

官僚の電力会社への天下りが、行政の公正を歪めているのに、どの政党にも、この不正を糺す力がない。また、電力会社からの巨額の政治献金を受け取る政治家たちに、公正な電力行政を期するなど百年河清を待つようなもの。

政治家に対する「企業献金」を止めさせて、政治と行政の中立化、公正化を図るためのはずだった「政党助成金」。しかし、「助成金」は手に入れたが、いまだ、どの政党も「企業献金」を止めさせることができない。政治家たちの濡れ手に粟だけが残る。

さしあたっては、池田信夫氏が自身のブログで主張されているように、今政府によって国会に上程されている「原子力賠償支援機構法案」を廃案にし、東電自身と株主と金融機関に明確な責任を果たさせることである。そして、電力事業を自由化して、電力事業の地域独占を廃止し、官民癒着の歪んだ電力行政を改革してゆかねばならない。

参照
池田信夫『民主党政権は電力自由化でよみがえる』
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51725473.html

 

 

 

 

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六月も終わり

2011年06月28日 | 日記・紀行

 

六月も終わり

後二日もすれば六月も終わる。さる三月十一日、忘れるはずもない。東北に起きた地震と津波と原子力発電所の事故から、すでに三ヶ月が過ぎた。失われた十年、あるいは失われた二〇年とさえいわれる、人材も枯渇して疲弊した日本に、追い打ちをかけるような痛手となった。災い転じて復興の契機となし得るのか、それとも泥船のように、ただ沈み行くのみなのか私にはわからない。

戦後民主主義文化の日本と日本人に絶望している者には、すでに同時代人らともほとんど別世界に、異教徒のような立場に生きているようにも見える。それでもただ、自己と国家と民族に対してなすべき義務と使命と考えるところのみは、極力果たして行こうと考えている。同時代の国家と国民に対しては本質的な関心はない。その理由も明確である。真に興味と関心の対象として値するものとは、事物の概念のみがそうだ、といえる。その他の多くは、ほとんどむなしく、かつ馬鹿馬鹿しい。『伝道の書』のコヘレートと同じ眼で世界を見ることを宿命づけられているのか。

テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ、正→反→合という、事物の螺旋的な発展を認識することを、我が哲学は目的としているといえる。今年の東北大震災とその津波による原子力発電所のメルトダウンほどに、その具体的な事例としても、深刻なアンチテーゼはこれまでなかった。これほどまでに、原子力発電に対して『否定』を突きつけたられたことはこれまでなかった。この「アンチテーゼ」、「否定」をいかにして克服、アウフヘーベンして行くかが課題になる。この否定の意義を高く評価したのもヘーゲルである。

原発推進派の世人や多くの国民は、その否定的な側面には頬被りして、原子力発電のもつ、その利便性や快適性、また利潤といった観点から、積極的に支持していると考えられるのに対して、私の立場は、原子力発電については、どちらかと言えば「消極的な支持」というものだったろう。

アメリカに国防の首根っこを押さえられ、真の独立のために核武装さえ許されない哀れな日本国のこの現状で、将来の日本国の真の独立の実現という観点から、原子力発電に伴う核技術は、唯一核兵器開発の技術を担保できるものとして、必要悪として消極的に肯定してきたといえる。

しかし、今回の福島原子力発電所の事故を契機として、西尾幹二氏らは、「原子力発電所の存在こそが、日本の核武装、少くとも日本の国防の合理的強化を妨げている」という見解を主張している。
「脱原発こそ国家永続の道」について(二)
http://www.nishiokanji.jp/blog/?m=20110628

こうした見解について、今のところ批判し、論評するだけの知識も能力も私にはない。
これまでの論考で、一通り私の立場は明らかにしており、さらなる全面的で広範な客観的な調査と研究なくしては、新しい段階で論考を展開してゆくことはできないと思っている。ブログ投稿の頻度が落ちているのも、そのせいでもある。

先日、軒下のアジサイに剪定鋏を入れる。乾燥した空気の、明るい日差しの下で見るアジサイは、色彩も濁って見える。梅雨の滴るなかでこそアジサイはよく似合う。

梅雨の合間を縫って、山の畑に行く。その巨大な樹木や竹林の叢生の凄まじい生命力に自然の威力の一端を思い知らされる。暫く山に足を踏み入れない間に獣道は失われ、雑草や雑木の凄まじい成長に、見慣れた山野辺の光景は一変している。

植えた後、一度か二度雑草取りをしただけで、ほとんど植えたことも忘れかけていたニンニク畑に足を踏み入れると、ちょうど茎が枯れていた。引っこ抜いて見ると、白く美しい球根が現れた。植える時とその後の二三度の雑草取りだけで、「最高級」のニンニクが手に入る。これこそ、ずぼらな私の目指すべき理想の農業である。早速、五、六株引っこ抜いて帰った。まだ畝には多く残っている。去年は見るべき成果はなかったので、記念に写真を撮って帰る。

ショウガと違って、ニンニクはあまり好きな作物ではない。臭いが気に入らない。それでも、せっかくの収穫だから、何とか美味しく食べる方法を調べてみようと思う。

ネットで少し調べてみると、「醤油漬け」と「蜂蜜漬け」などがあるらしい。何とかここ、二、三日の新鮮な内に実験してみようと思っている。

今年は青紫蘇の成長はよくないらしい。昨年は掃いて棄てるほどあったのに、今年はほとんど自生しているのを探すことができない。去年イチジクの木の脇に植えた名残の青紫蘇が少し葉をつけているだけ。その貴重な葉を四五枚冷や奴に添えるために摘んで持ち帰る。

 

 

               

                                                           

                

                                                      

 

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久しぶりのブログ更新

2010年10月13日 | 日記・紀行

 

久しぶりのブログ更新


ここしばらくブログの更新を怠っていた。別に体調を悪くしたり病気になったりしたせいでもない。体調は悪くはなく、頭の中身以外にこれといって悪いところもとくにない。いずれにせよ、今のところ曲がりなりにも健康を保つことができていることも神に感謝しなければならない。

ブログの更新を怠っていた間にも、やはりさまざまな出来事があった。その中でもやはり特筆すべきは、中国人が我が国固有の領土である尖閣列島近海の領海を侵犯した事件であるだろう。

この事件は図らずも、戦後民主主義教育を受けて育った仙谷由人氏や菅直人氏ら全共闘世代の、平和ぼけした日本の政治家たちの哲学の貧困とその腰抜けぶりを明らかにすることになった。このような三流四流の人物を国家の指導者に据えなければならない国家は哀れだ。悲劇を通り越して喜劇を演じている。

尖閣列島の沖合を領海侵犯した上に、海上保安庁の巡視船に体当たり衝突した中国人船長を、せっかくに逮捕したのにもかかわらず、かつ法治国家である日本の裁判に掛けるのでもなく、現場の那覇地検に中国人船長の釈放を決めさせ、自己決断も「政治主導」もできない菅直人首相も仙谷由人官房長官も、それに便乗してほおかむりして那覇地検の一検事に責任を押しつける。

「政治主導」をこれまで一枚看板のように民主党は唱えておきながら、中国の高圧的な態度の前にあわてふためき、自己の決断で対処する姿勢も見せなかった。那覇地検の現場の検事は、この中国人船長の衝突妨害行為を、公務執行妨害で起訴する覚悟でいたのである。それを事なかれ主義の国家指導者たちは自己規制して、中国人船長を超法規的に釈放してしまった。戦争という過酷な現場で、愚かな参謀たちの指揮と作戦の許で働かなければならない気の毒な下士官や兵士たちの切歯扼腕を想起させる。

先に「中国とチベット動乱」の記事で述べたように、中国との関係については、中国が民主化されないまま現在の中華独裁国家体制が存続する限り、必ずや日本は、現在のアメリカの属国の地位から転じて中国の属国となるか、それとも中国と一戦を交える覚悟をして「自由と独立」を守ろうとするか、その選択を迫られる時がいずれ必ず来るのである。日本の指導者と国民はその覚悟をし、その準備態勢の確立を急ぐ必要があるのだ。準備とは日本国憲法の改正であり、核武装をも念頭に置いた自衛隊の解体と新日本国軍の建設である。

太平洋を挟んで、中国とアメリカという巨大な大陸国家の間で翻弄されかねない日本の危うい地位である。それは日本の地政学的な宿命でもあるのだが、現在のような状況は、第二次世界大戦当時の日本国民と国家指導者たちが、アメリカと大東亜戦争を覚悟せざるを得なかった当時の国際情勢を彷彿させるものである。

今中国は領海侵犯をしてまでも東シナ海の天然ガスなどの海底資源の掘削を始めようとしている。先の太平洋戦争においても、当時の日本国民は資源大国アメリカの石油禁輸など高圧的で挑発的な姿勢に反発したに違いないのである。

何事も物事は両面から見なければならない。共産主義中国「漁民」の尖閣列島近辺領海侵犯事件を契機として、日本国民の国家意識や主権意識が目覚め始めた。(まだ多くの日本人はアメリカインディアンのように自閉的で退廃的な世界に眠らされたままであるけれども)中国の不当なあまりにも高圧的な態度に、多くの日本国民が日章旗を掲げて街頭デモに参加し繰り出し始めた。それなのに、NHKや朝日新聞、毎日新聞などの大手新聞・テレビなどのマスメディアはその現実を一切報じることはなかった。

いわゆる「慰安婦問題」や「竹島問題」などで再々引き起こされる日本大使館前の反日デモなどについては、わずか百人足らずの集会でも、彼らは新聞テレビなどに真っ先に仰々しく報道する。一体にこの情報選択の偏向や記事報道の自主規制はいったい何に起因するのか。国民はこれら主要メディアの偏向と堕落が、国家国民と民族の退廃と衰亡の元凶となっていることに気づき始めている。新聞やテレビの私物化と特権化をやめさせ、日本国民の手に取り戻さなければならない。

さらにこの間に起きた事件として、小沢一郎氏が第五回検察審議会によって起訴されたことがある。剛腕と称される小沢一郎氏が有罪とされるだけの証拠を残しているのか、それとも無罪であるのか、もちろん私はそれを立証する立場にはない。しかし、政治家は政治とカネの問題で嫌疑を受けるようなことはあってはならないのである。昔の日本には井戸塀政治家も少なくなかった。もういい加減にあの故田中角栄氏以来に、自民党を中心にはびこった利権政治という品格なき政治を、日本も清算して行かなければならない。小沢一郎氏の起訴をそのきっかけにして行かなければならないのである。

明治の国家指導者たちは、大日本帝国憲法下で、清貧でモラルも高い官僚たちによる国家運営が行えるように、曲がりなりにもそれなりの国家機構を残して逝った。商売人か政治屋かわからない連中たちが国家の中枢に居座るような現在の政治よりはよほど品格が高かったのである。たとえ言葉やスローガンだけで「政治主導」「政治主導」と叫んでも、その肝心の政治家たちが、モラルや識見において、官僚たちの足許にも及ばないということでは話にもならない。

確かに、検察官による証拠改ざんという不祥事が生じたり、国家公務員の天下り問題に見るように、公務員の資質も劣化し腐敗し始めているのかもしれない。国家機構や制度も今や形骸化し、自由ではなくむしろ桎梏になり始めている。そのために確かに、検察官や司法制度の悪しき面ばかりを見て悪口ばかりを言う者もいる。しかし、それでも、まだ多くの有名無名の優れた日本人が、心ある経営者や国家公務員、官僚、検察官、裁判官たちが、屋台骨の崩れ始めた日本を支えていることも忘れてはならないのである。

気がついてみると、先月の九月には一本の投稿記事もない。せめて今年の暑かった夏のために遅咲きになった曼珠沙華の面影でも記録しておくことにする。

これからも、ブログ記事の更新はきわめて緩やかになるだろうと思う。書くことよりも行動すること、読むことにより力を配分したいと考えている。せめてキッシンジャーの『DIPROMACY』や『NUCLEAR  WEAPONS  AND  FOREIGN   POLICY』ぐらい読んでおこうとせっかく手に入れてあるのに、まだ腰を据えて読むこともできないでいる。何とかここ一二年は、書くことよりも、読むこと、行動することに力を入れたいと思っている。時間はいくらあっても足りない。

 

 

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八月の雲

2010年08月11日 | 日記・紀行


二〇一〇年八月十一日(水) 晴れ

二千十年夏の追憶のために、八月の雲の記録。


















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