山岸の正月
AUCH ICH IN ARKADIEN
七
再び豊里の村に帰り着くと、「書き初め」と「初釜」の会場が用意されていた。白い紙に真新しい立派な筆と、硯に墨が添えられていて、「至れり尽くせり」であった。皆が心に描いたこの一年のテーマを、大きな長い紙にそれぞれ書いた。
男らしく、ただ「やる」と書いただけの者、「日々研鑽」「軽く出す」とか「一歩前進」、「父として男として」とか百人百様に書いた。私は何を書こうかと思ったが、巳代蔵さんの文章の一節から「光彩輝く将来」と書いた。 この書き初めは後になって廊下にすべて張り出された。
次いでお茶会があった。だが、この初釜は堅苦しいものではなく、控え室で正月らしく着飾った婦人たちから、作法について簡単に教わってから、席に出た。
色鮮やかな和服をそれぞれに着飾った高等部の学生の村の娘たちから、手作りの和菓子と抹茶で心からのもてなしを受けた。彼女たちの作法の上手下手を見る眼はなくとも、正月の引き締まった心を味わうには、この茶室と静々とした作法の雰囲気だけで十分である。
八
二日目の第二食で、はじめてお節料理と雑煮が出た。いつしか気取られぬように彼女の姿を眼で追っている自分に気づいた。二日目の圧巻はやはり相撲大会である。養鶏部、出版部、流通センター、蔬菜部、養牛部、肉鶏部などの各部門から、一部屋七名、また我々「お父さん研」から二部屋十四名の総計八十名近くの男が参加した。
行司も審判役も本格的な装束で、にわか力士たちを囲む。肌の白い西洋人も二人参加していた。子どもたちも、村の娘も、老蘇さんも皆こぞって、男たちの力闘に声援を送る。力士たちも持てる気力を振り絞って闘う。激しい闘志のぶつかり合いなので、胸や膝に擦り傷などはしょっちゅうである。顔面を強く打って脳震盪を起こし、鼻血を出す者もいた。時間のせいもあったのか、上位三部屋を出しただけで、優勝部屋を決めなかった。我々「お父さん研」の力士たちもよく闘った。
九
相撲が終わると、我々のメンバーは三つのコースに分かれた。宿舎に戻って自由に寛ぐ者、鶏舎入って卵を集める者、村の中を参観して回る者である。私は村をもう一度見たいと思った。村の中を歩いてゆっくりまわった。我々を案内してくれた人は、まだ参画して間もないのではないかと思った。
高等部の寮舎が完成まじかである。隣には立派な体育館兼講堂が建設中である。道路の向こうの山の上には健康特講の会場が建設中である。村全体が槌音高く建設途上にあることを感じさせる。
余儀なく畑を崩して作った駐車場には、ヤマギシのマークの入った真新しい観光バスが幾台も並んでいる。学生のための学育菜園には菊菜が植えられ、馥郁園では老蘇さんらの作った薔薇や菊、盆栽などが並んでいる。発酵した堆肥を実際に手にとって眺め、匂いを嗅いだ。
馥郁園の右手には「太陽の家」があり、そこでは子供たちが遊んでいた。小高い丘の上に立っている、太陽の家に通じる門には、「子放れの門」と「宇宙ステーション」の二つの大きな分厚い表札が掲げられ、ここでは親は子放れの練習をし、子供たちは無重力圏へと駆け出してゆくのだという。村人の衣服を洗濯し管理する黎明館、結婚式のある豊里会館、飼料センター、精乳部など、工場や倉庫などを抱えながら、ここに七百名ほどの村人が暮らしている。
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