夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

畑の上を舞うツバメ

2011年09月07日 | 日記・紀行


畑の上を舞うツバメ――夏の終わりに思う

長く居座った激しい豪雨で各地に被害をもたらした台風が去っていった。翌日の今日、久しぶりに空に青空が広がった。台風一過とともに夏の終わりを感じる。

田圃はまだ青いが、すでに稲穂は立っている。畑では、南の国に帰る準備をしているのか、ツバメが低い空に円を幾度も描いている。手に取ることさえできそうな高さに繰り返し自分の頭上を巡り来るツバメたちは、まるで別れの挨拶を交わしているようにも感じる。
こうしたツバメの営みにも暑かった夏も今過ぎ去ろうとしているのがわかる。

久しぶりにすがすがしい青空と青い田圃を見ながら、自然を感じる一瞬がある。「自然」は言うまでもなく、哲学においても根本的に重要な基本的な概念である。自然は精神の前提であり、その発展の帰結が人間の意識である。しかし、自然においてはまだ「概念」は内面的なものに過ぎない。(§247)

途中に第二外環工事の現場に出会う。まぎれもなく、この環状道路工事は大原野の歴史的な景観地区を破壊している。国土交通省、京都府当局の一連の行政にわが国の民主主義の愚劣と水準を思う。いまだ行政当局の歴史認識や環境意識には経済的利得優先の論理が貫かれていて、それを克服できるまでに至っていない。

道路をどうしても必要なら、どうして核シェルターと雇用対策を兼ねた地下トンネルを掘らないのか。日本版二十一世紀ニューディールとして雇用対策、経済活性化にもなる。大胆な発想と行動力を持ち合わせた政治家が出てこない日本政治の永年の「貧困」と人材の枯渇。その帰結として失われた二十年はさらに三十年に、さらには亡国へと至ろうとしている。現在の民主党政治もまた自民党政治と同様に「戦後民主主義」世代の哀れむべき能力の実態を明らかにしている。

             
                               
先月の西尾幹二氏のブログにWiLL8月号「平和主義ではない脱原発」の論文の掲載があった。雑誌で論文を読むことができなったので貴重な機会だった。

西尾氏がそこでえぐり出そうとしていることは、原子力発電の原料となるウランを諸外国から手に入れるために、日本がどれほどの桎梏と制約を、とくに欧米各国の資源メジャーから受けているかということである。それくらいなら、むしろインドやイスラエルとの闇取引で、核ミサイルを直接手に入れた方が、どれほど確実に、安価と安全に日本の自由と独立と環境に貢献することになるかもしれない。

原子力発電のためのウラン原料を手に入れるために、日本がこれほどの屈辱的な条件を呑み込まされていることも、西尾氏の論文ではじめて知った。これでは現代の日米安保条約下の日本国民に幕末の不平等条約を笑う資格はない。


すでに信用を無くした原発で、技術者も減少しているという。今度の津波による福島第一発電所の事故でさらに輪をかけてそうした事態が進むだろう。西尾幹二氏の論考を読むかぎりでは、氏の主張にも一理はあると思う。ただ、その議論の前提が正しいかどうか、さらに調査し確認する必要はあるだろう。

いずれにせよ、国防のための核技術は、東電や原子力委員会などの俗人世人や官僚オタクに曖昧に任せるのではなく、むしろ自衛隊の――これも一刻も早く憲法改正とともに国防軍に改組すべきだが――軍人たちに法的根拠を与えて、彼らにしっかりと責任をもって担当させた方がいい。

八月が去って「戦争の季節」も終わる。あれだけの大戦争だったから、その古傷はやはり深く今なお癒しがたいのか、あるいは、それ正しく克服できないのも民族の資質か。

在任中菅首相は千鳥が淵には参ったが靖国神社には行かなかった。それも伸子夫人の差し金か。野田新首相も靖国神社に行かないと言明している。自由な独立した主権国家の指導者として、それは果たして正しい選択だったろうか。

要するに、戦後民主主義の申し子としての市民運動家菅直人氏や民主党の指導者たちは、いまだ先の太平洋戦争を完全に相対化できてはいないのだ。戦勝国のアメリカが、敵国である大日本帝国軍隊の権威を失墜させるために、どれだけの「策謀」を巡らすものであるかは反省されも自覚もされていない。軍事力のみならず情報戦においても完膚無きまでに旧敵国アメリカに敗北したままだ。そのために日本は主体的に民主化すべきなのに、それができないのである。

たとえ凡才であろうとなかろうと、国民が自ら選んだ自分たちの首相を、あれほど口汚く罵るのは、国民自らの愚かさと品位のなさを証明するようなものだ。能力がなければ交替させればいいだけの話なのに。菅首相の引きずり降ろしは、現代日本の政治家連中と国民の無情と非見識と明らかにしただけだった。

NHK・BSでも、先月は終戦記念として五味川純平原作の「人間の条件」なども全編放映されていた。たまたま見たが、社会主義者監督の視点から、旧日本軍の悪弊と社会主義的人間の「個人主義」とエゴ「平和主義」の夢想があくどく強調されていた。

アメリカ合衆国軍と比較しても、確かに旧日本帝国軍隊に陰惨と抑圧の性格のあったことは事実だろう。それは正しく総括されなければならない。しかし、マルクス主義の国家観と同じく、その否定的な部分的な現象だけをもって、旧帝国軍隊の本質を、あるいは国家の概念そのものさえも否定しさろうとするのは誤りである。現代日本国民はいまだこの認識の延長線上にある。この映画もやはりアメリカによる「戦後民主主義」の視点から制作されている。

チュニジアのジャスミン革命に端を発した中東イスラム諸国では政変も今なお著しい。リビアのカダフィ大佐の命運も尽きたかのようだ。ただ、イスラム諸国の民衆がなぜアメリカを憎むのか、正しく客観的に認識しておくことは、今日の中東の政治状況を知る上での必須の前提ではある。戦前の日本もまた、そこに自らの能力を過信する愚かさが加わったとしても、アメリカの傲慢と抑圧を憎み反抗し戦ったのである。

                   

 

 


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