インドネシアの田舎に行くと、必ず「日本軍」の話を聞く。
中でも、「日本軍の洞窟」のことをよく聞く。
太平洋戦争中、日本軍がねぐらにしていた洞窟のことである。
最初に聞いたのは、スラウェシ島のタナ・トラジャという山岳地帯。
(というか、ここが私が最初に訪れたインドネシアだった)
ガイドが「日本軍の洞窟が近くにあるよ」と言う。
私は驚いて、どこどこ? 行きたい、と言ったのだけど
彼もあまりよく知らないようだった。さほど重要だとも思っていない様子で
調べてくれさえしなかった。
あとで分かったけれど、日本軍の洞窟はそんなに珍しいものではないので
私が思うほどには気にされていないようなのだ。
けれどそのときの私にとっては、ものすごく重要な場所だった。
翌日、たまたま通りがかった家で、そこの人が招き入れてくれたので、中でコーヒーをいただいていたら、そこのおじいさんが、昔日本軍の食事係として働いていた、と言う。実際日本語も少し覚えておられた。
もちろん、洞窟が基地だった。そんな洞窟が何カ所かにあるという。
その人は、日本人はそう悪くなかった、いい仕事をさせてもらってた、という意味のことを言われた。本心かどうかは分からない。
が、隊によってすごく違いがあるらしいから、一概に日本軍は良かった悪かったと単純化することもできない。
次に聞いたのは、フローレス島。
この島では、田舎の家のあちこちで、ほんとうに判でおしたように日本軍の話を聞かされた。
島のおじいさんたちがみんな口にするのは「ジョートー」という言葉だった。
上等兵のことだろう。上等兵が何なんだろう?
そしてみんな、日本軍に過酷な労働をさせられた話をする。フローレスの道路の多くを、日本軍がインドネシア人を使って造ったという。日本軍にはとても悪い思いを持っておられた。一方で、いい道路ができた、なんてことも言っておられた。
洞窟もあった。急傾斜地の畑の間の草いっぱいの道をくぐり抜けて行くところ。要は、人のあまり寄り付かない斜面の洞窟ということ。雨季でもあり、道がどろどろにぬかるんで、しかも粘土質で滑る。転がり落ちそうなので、諦めた。私は良くても、人に迷惑がかかる。かつて日本軍が迷惑をかけ、70年後それを見に来た日本人のオバサンが迷惑をかけていては、みっともなさすぎる。
地元の40代の人は、ちゃんと整備すれば観光客にも来てもらえるんだけど、と残念そうだった。
フローレス島のバジャワの街の中には、日本兵の生き残りだという人がいた。
家の玄関の横のベンチに座って、涼んでいた。
息子さんやお嫁さん?や家族の人たちが私にうれしそうに声をかけてきたのだ。
日本語で「こんにちは」と話しかけてみたが、全く返事ができなかった。日本語は全部忘れたのだという。
日本軍で働いていたインドネシア人が日本語を覚えているのに、20代まで日本語をしゃべっていたはずの人が、すべて忘れているということは何を意味しているのだろう。
本当に日本人だったとすれば、忘れたかったのだろうか。
20年以上前、バリ島でも、日本兵の生き残りという人に会ったことがある。
その人は日本語が上手で、明るい感じだった。
1945年の今日、日本は敗戦し、インドネシアは日本の支配から解放された。
長くなってしまったので、続きは、後日。写真はジャワ島。
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