あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

ふたりの悪魔/悪の息吹

2018-03-26 12:38:52 | 随筆(小説)

殺人も、肉食も、死刑賛成も、堕胎も、すべてが自己憎悪の投影なんじゃないかとわたしは想っています。

幸せそうに想える人(愛されたい存在から愛されているという実感を感じ続けている人)が、何故、肉食という苦痛の連鎖に気付けないのか?死刑という殺人行為に賛成するのか?

それは悲しみ、苦しみ、孤独の浅さなのかもしれない。

愛されていると、その部分では満たされ続けている人も、愛されていないのだと、その部分で満たされ続けられない人も、潜在意識のなかでずっとずっと自分自身を憎み続けているからなのかもしれない。

人間の心理は本当に複雑で、どこかほんのちょびっとでも、自分の至らなさを自分で愛せないのならば、自分が愛されていると満たされている自分にすら、憎悪するのです。

愛されていないと感じるなら、愛されないのは自分が至らないからだと潜在意識のなかで自分を責め続け、自分を憎み続け、自分を罰し続けたいという潜在願望を持ち始めるのです。

そしてその自己憎悪は、容易に”他者”へと投影してしまうのです。

殺されゆく家畜が可哀想だと想いながらも、同時にどこかとてつもなく憎い気持ちを憶えたことがある人は結構多いのではないか?

それは人に愛されない為に殺される家畜たちが、”愛されない惨めで哀れな自分自身”のように想えて来るからです。

自分を家畜に投影しているから、罪なき家畜たちが憎たらしく想えてくるのです。

まず、自分のなかにある憎しみや見下しや差別の想いは”投影”であるのだと気付くことが大事なのです。

自分は”愛されている”のだと、幸せな想いで生きている人も肉食をやめられなかったり、死刑や堕胎に賛成するのは、自分のことを”どこかで”憎み続けているからではないか。

憎い自分は、”苦しめて殺してしまって構わない”のだと、どこかで想い続けているからではないか。

殺される家畜も死刑で処刑される殺人者も中絶手術で堕ろされてしまう胎児も、皆、憎い、受け入れたくない自分自身なのです。

だから心の奥深く、自分でも気付いていない部分で、彼ら(自分自身)を殺し続けていたいのです。

それも、残虐な方法であっても、気にはしません。もし、その方法が残虐かどうかを気にする人が多いならば、家畜の方法も死刑囚の処刑方法も中絶手術の方法も、もっともっと苦痛を減らそうとする人々の関心が高まり、そのような運動に賛成する人々が多くなるはずです。

しかし現実はこの世界でほとんどの人が、どのように殺されるかという方法すら、知りません。

それほど人々の関心が薄いからです。

憎い自分自身がどのように残虐に殺されようとも構わないとどこかで想っているからです。

嫌いで受け容れたくない自分自身は生きる価値にもないと、どこかで感じているからです。

だから肉を残さず感謝して食べようとする人は多いですが、家畜がもっと楽に生きて行けるように、殺すときの苦痛をどうすれば減らせるかと関心を向ける人はとても少ないのです。

死刑も堕胎も同じです。毛皮や動物実験や犬猫の殺処分も同じです。

関心を向ける人が、この世界ではあまりにも少ないのです。

でも自分の家族や、自分のペットだけを愛する人はとても多いです。

肉を食べなければ健康に生きていけないと未だに信じている人はほとんどですが、

もし多くの人にとっては本当にそうであったとしても、家畜の方法に関心を向ける人はほとんどいないのは何故だと想いますか?

わたしは以前の自分がそうであったので、幾つか答えられます。

 

それは肉が美味しいからです。

肉がどれほど身体に悪いかをわたしは知っていましたが、それでも産地や飼育方法を気にしてまで食べ続けてしまったのは、肉が美味しいからという理由のほか、自分はわかりませんでした。

肉が美味しくて、肉食をやめたい気持ちと肉食をやめたくない気持ちが自分のなかで争い続けている状態でした。でもわたしは、はっきりと、上の兄に言ったことがあります。

「肉を食べるのをやめたい」のだと。

この時点で、かなりわたしの「肉を食べたい」気持ちより「肉を食べたくない」気持ちのほうが若干、上回っていたのかもしれません。

それは言い換えれば、「肉が美味しい」欲望の快楽より、「肉を食べてしまう」ことの苦痛が上回っていたと言えます。

しかしその理由も、家畜を殺すことの罪悪感と、身体に悪いものを食べることの恐怖感、どちらに傾いていたのか?想いだそうとしても、憶えていません。

理由をはっきり憶えていないのですが、以前から肉の代替として売られている大豆肉を買って、ラーメンなどに入れて食べていたことを憶えています。

もしかして肉を食べるのが嫌になる、ある決定的なものを知ってしまったが、あまりに苦しいものだったので記憶の奥に封印してしまったのだろうか。

肉を食べる量を減らし、その代わりに大豆肉を食べていても、家畜がどのように扱われているかを、調べることもありませんでした。

もし調べてしまったなら、美味しい肉はもう食べられなくなるのは間違いないと感じていたからだと想います。

当時の自分にインタビューすることができるなら、当時の自分はこう答えると想います。

「肉の栄養が絶対的に必要だなんて、実は想っていない。昨今では肉がどれほど身体に悪いか、そんな記事ばかり目に付く。ただ”美味しい”から食べてしまうんだ」と。

当時の自分は、今の自分より苦しい状態に在ったと想います。

ただ”味覚の快楽”の為だけに、牛や豚や鶏たちを無残に(間接的であれども)殺していたのですから。

しかし30年生きて、わたしはようやく解放されたのです。

彼らを殺し続ける苦しみから。

一つ、譬え(たとえ)話をします。

悪魔崇拝者の話です。

ある町に、一人の悪魔崇拝者のイブキという者が住んでおり、或る晩の夢の中で、イブキは悪魔に囁かれます。

おまえはこれまで、俺を悦ばせ、おまえの内なる悪魔を悦ばせる紅い実を、数え切れないほど採って味わってきてくれたことだ。
しかし俺もおまえも、まだ味わったことのない最高の果実が在るのだよ。
その実は、何にも替えがたい何にも例えようのないほど美味しい実だと言われている。
おまえはきっと、その実が、気になって気になって居ても立っても、いられなくなるだろう。
何故ならその実は、何よりも甘美で恍惚な香りでおまえを誘い始めるからだ。
そう、今夜から、おまえはその香りを嗅ぎ始める。
嗅いだ途端、うっとりとして、おまえは欲情し、その果実が食べたくて食べたくて仕方無くなる。
おまえを止められるものは在るか?
その紅き果実は、おまえの舌を何日も、何ヵ月も、何年も、何十年も、味わわせることのできる実だ。
さあ俺を悦ばせ続けるだけでなく、おまえの内なる悪魔を悦ばせ続けるその紅き果実が、おまえに食べられたがって、熟れて今にも枝から墜ちそうだ。
今夜、目が覚めたら、早速あの丘へ向かうがよい。
場所はおまえがいつも俺を悦ばせ、おまえの内なる悪魔を悦ばせる紅い果実の生る樹の生える丘だ。

イブキは目を覚まし、歓喜に叫び声をあげた。
おお、我が愛するサタン!!
あなたを悦ばせ、また我が内なるサタンも悦ばせる紅きその実を!是非とも味わいたいで御座います!
イブキは早速、まだ夜明け前であったが、夢の中で悪魔の告げたいつもの丘に、ただただ、最高の快楽を求めんとして駆け付ける。
丘の頂上までやってきて、イブキは真ん中に生えた一番の太くて長い樹を見上げました。
やあこれは、なんと立派な樹であろう!
さぞかし美味い果実を生らせていそうだ。
イブキは涎を垂らして生い茂る葉の奥の、その隠れた艶やかなる紅き実を想像し、目を耀かせて樹を登り始める。
しかしどんなに登っても、果実が見当たらない。
あまりの疲労に、イブキは腕も足も痺れ、ついに樹を掴む力もなくし、樹から落下します。
その瞬間、恐怖のあまりにイブキは気絶し、夢を見ました。
夢の中で悪魔は、こう言います。
おまえはなんて愚かなのだろう?
相手が偽者か本者かもおまえにはわからないのか。
先程のおまえの夢の中でおまえが見たのは、俺の偽者だ。
よく考えてみるがいい。おまえも知る通り、おまえが食べて味わってきたのは、生きた者の犠牲の果実だ。
紅き実は、緑の実より俺とおまえの内なる悪魔が悦ぶからおまえは食べてきたんじゃないか。
悪魔はそこに存在しているものが、苦しく、グロテスクで暴力的で残虐な拷問であればあるほど、悦ぶことのできる存在だということを忘れたのか。
美味い果実ほど、犠牲も大きいということを俺は最初に、おまえに伝えたはずだ。
そしてその犠牲がおまえの内なる悪魔と俺を恍惚にさせるのだと俺はおまえに言った。
だが、その犠牲も、おまえに払えないものはおまえも食べることはできない。おまえに払える犠牲だけが、おまえに味わえる果実だと言っただろう。
最高に美味い果実を、何故おまえは容易に味わえると思ったのか。
最高に美味い果実とは、今までにない犠牲を、おまえが払うということである。
おまえは下手すれば、一秒後に、頭打って死ぬかもしれない。
おまえが死ねば、俺も死ぬと、言ったはずだ。
なんて馬鹿なことをしてくれたんだ。
俺がそんな馬鹿なことをおまえに言うはずがないだろう。
何故なら、最高の紅き果実とは、おまえ自身の紅き内臓と死肉の身のほか、ないからだよ。
おまえの割れた紅き柘榴の実が、鮮明に見えるよ。
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは…と悪魔は夢の中で笑いながら、つと、笑わなくなった。

地に打ち付けられて頭はパックリ割れ、中から紅き実が、零れ落ちましたが、イブキはまだ息がありました。
ちょうどそこを通り掛かったふたりのレプテリアンに、生きたまま八つ裂きにされ、生きたまま解体されて地獄の後悔のなか、死んで、逝きました。

レプテリアンは、美味しかったね♪と言い合い、無邪気な顔で微笑み合いました。
豚カツを食べたあとの、幸せそうな人間の恋人たちのように。
レプテリアンは、おうちに帰って、「今度は人間の子供が食べたいね♪」と言い合ってまた微笑み合いました。
隣のおうちでは、人間の恋人たちが、「からあげくん美味しかったね。でも今年こそ、子牛のソテーが食べたいね」と切なそうに微笑み合いました。
ふたりのレプテリアンは、三年後、隣のおうちの夫婦の間に産まれた赤ん坊が、二歳を過ぎた頃、家に連れ帰って屠ろうとした瞬間、隣の夫婦が土足で上がり込んできて、泣き喚きました。
「御願いですから殺さないでください。わたしたち夫婦が、一体あなたたちに何をしたというのですか?わたしたちは愛する我が子をあなたたちに殺されて食べられるために産んだわけではございません。どうか後生ですから、殺さないでください。」
レプテリアンは言われている言葉の、あまりの滑稽さに、人間を軽蔑し、そのような都合のよい言い分は聞かずにスルーして夫婦の目の前で子供の首元を縦に肉切り包丁で切り裂き、屠って生きたまま解体し、ソテーにして食べました。
解体されてゆくなか、子供は夫婦を睨みながら、「おまえら俺を前に堕ろしたやんけ」とまるでおっさんのような太い声で言いました。
隣の夫婦は、最後まで見終わると、互いにそこのキッチンで生きたまま解体し合って自害しました。
ふたりのレプテリアンは、夫婦の死肉と内臓を三日かけて食べ尽くしました。
一日目の献立は、豚カツ風人カツにして、サラダの代わりに、生の目玉を二つ添えました。
二日目の献立は、ビーフカレー風人肉カレーを作りますた。
サラダスティックの代わりに、手の指を五本ずつ、生でかじりました。
三日目の献立は、朝は人肉散らし寿司、昼は人肉餃子、夜は夫婦の子供の目玉と内臓をミキサーにかけたものを冷凍しておいたので、それを片栗粉を入れてもう少しとろみをつけ、親の死体と合わせて親子丼を作りました。
ふたりのレプテリアンたちは、密かに、人類家畜化計画を練っているところです。
悪意は、皆無です。
人間のしていることと全く代わりありませんから。
悪では、ないのです。
因果律は、悪の法則ではございません。
そう、ふたりのレプテリアンのなかでひそひそと、イブキは今日も囁いています。


紅き血の丘の水面に、今日も慈悲成る神の息吹きが、吹き渡っております。



悪夢小説「ふたりの悪魔/悪の息吹」 完











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