あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

愛と悪 第三十章

2020-02-24 00:20:40 | 随筆(小説)
愛する家族を皆殺しにし、手を触れるだけで時間を巻き戻せる御方であられ、また自由という名の真っ白な壁画の上に、と殺(屠畜)されたばかりの若い雌牛の性器から流れる経血で描いた聖家族、エホバ。
今日は、パトリス・シェロー監督の『ガブリエル』とミヒャエル・ハネケ監督の『ファニーゲーム U.S.A.』を鑑賞しました。
テーマで表すならば、前者は『支配』、後者は『暴力』を表現していると感じました。
そしてこの二つのテーマが、繋がっているのだとわたしは確信できるのです。
”支配”とは、”暴力”であり、”暴力”とは、”支配”しようとする行為であるのです。
よって潜在意識でも支配を望む者は暴力からも逃れることはできず、誰かを支配しようと潜在意識でも望む者は、暴力を相手に行なうことからも、また相手から暴力を受けることからも逃れられないのです。
それは聖書でも明らかにされています。
『暴力』とは、『優しさ』から最もかけ離れたものではないでしょうか?
人間の行なう暴力は、あなたの行なう暴力と良く似ています。
たとえあなたがどれほど怒りに遅い御方であっても、最後にはあなたの怒りによって人は滅ぼされてしまうのです。
あなたがわたしの夫であるならば、あなたの静かな静かな暴力の生活のなかであなたと共に暮らすことに堪え切れなくなり、ガブリエルのように、家を飛び出してしまうかもしれません。
でもあなたがわたしの父と母であることを想起し、あなたの家に戻ってガブリエルと同じ言葉を呟くかもしれません。
「求めるものが少なければ(浅ければ)容易に優しくできる」のだと。
言ったあとに、その”優しさ”に、何の価値(喜び)もないと知るのです。
そしてわたしは世のすべての仲睦まじき虚構の幸福な夫婦(家族)たちに対して、寒々しい厭悪を感じずにはいられなくなり、『ファニーゲーム』を観て、確かにわたしのなかのその感情がすっきりと浄化されるものを感じるのです。
確かに、彼ら、幸福な家族を愉しんで殺してゆく殺人鬼たちは、前世で幸福な家族たちに快楽の内に食べられた家畜であったと感じると、大変アイロニックで、この法則に神を感じない人は恐ろしく愚鈍で、人間が無関心に殺して食べ続ける家畜たちそっくりです。
そう言えば、昨日の集会で「エホバの創造物である”牛”を観ても何とも想わない」と発言した兄弟は、クリスチャンでありながら、多くの人間と同じに牛が屠殺される映像を観ても同じく何とも想わないのでしょうか。
あなたに、わたしたちを暴力(支配)の内に滅ぼしてしまうことに価値があるのであれば、あなたの被造物であるわたしたちもまた、他者への暴力(支配)に価値があるということです。
ですが最早、わたしは自分と同等の者をしか支配したいとは感じられません。
わたしよりずっと弱き存在である動物たちを支配したところで、何の価値もありません。
わたしは、自分と同等の存在の肉と血を欲します。
即ち、あなたである。
あなたに支配され、あなたを支配する者、それがわたしである。






メタフィクションゲーム『Love and Evil』のプレイヤーは主人公に執筆させ、今日の彼女の仕事を終えさせた。
このゲームの創造者であるエホバがプレイヤーに指示を出さなくなった今、すべて自分の想像によって彼女を操作させなくてはならない。
でも幾度と、彼女が自分の想い通りに動いてくれないと感じる時がある。
その都度、プレイヤーは想いだすのだった。
映画『ファニーゲーム』のなかで、登場人物が視聴者に向かって、どのような展開になるか賭けようと言う。
この言葉は、この映画である監督が視聴者に向かって投げ掛ける言葉であるはずだ。
監督はこのゲームのエホバの存在であり、登場人物とはこのゲームの主人公であり、視聴者とは、プレイヤーであるわたしになるのではないか。
プレイヤー(視聴者)の想像によって、作品は180度変わってしまう。
このゲームの主人公が、プレイヤーであるわたしに向かって意見を投げ掛けるなど、まさか在るとは想えなかった。
エホバは、主人公を直接、操作することはできないとわたしに言ったが、主人公とエホバを、切り離すことが何故できるのだろうか。
でも、二人が、全く同じ存在で在るとするならば、何故わたしの存在が必要なのだろうか…?
そしてわたしは…何故、彼女を支配したいという気持ちにさせられてしまうのか。
わたしは主人公である彼女を全支配する為にこのゲームを遣り始めたつもりはないのに…。
でも同時に、プレイヤー(視聴者)は、主人公(登場人物)を支配することはできないのだと考えるべきではないと感じる。
何故ならば、わたし(プレイヤー、視聴者)の存在がないのであれば、その作品(ゲーム、映画)は、わたしの世界の何処にも存在しないからである。