あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

わたしの知らない父

2018-09-21 20:32:03 | 想いで

今日は、お父さんの七十七歳の誕生日。

生きてたら…多分いまも一緒にあの家で暮らしていたんじゃないかなと想った。

わたしのお父さんは2003年12月30日に肺の病気でこの世をあっけなく去った。

享年六十二歳だった。

もしお父さんが生きていたら、この十四年と十ヶ月余りの時間を、どんな風にお父さんと過ごしていたのだろう。

わたしはお父さんを独りにすることが考えられなかった。

お父さんは当時から鬱症状のあったわたしを独り残して死ぬことが心配で、「一緒に連れてゆきたい」と言っていた。

いつかの夕食の後、確かわたしの手を取り、お父さんはわたしに訊いた。

「こず恵もお父さんと一緒に行くか?」

わたしは何の躊躇いもなく、「うん」と答えたことを憶えている。

そんな父と娘だった。

最近、またふと想うことがある。

母はわたしが四歳の時に乳がんでこの世を去り、その後わたしは車で一時間ほどの場所にある祖母の家(祖母と叔父夫婦とその息子二人も住む家)に一年ほどか預けられた。

父は大きな会社で営業の仕事をしており、残業を断ることが難しかったからだ。

しかしそこの奥さん(叔父の妻)が、わたしをとても可愛がって、是非養子に引き取りたいと父に言った為、父は慌ててわたしを迎えに来た。

五歳のわたしは、父の仕事に行っている間、幼稚園にも行かず、ずっと家で退屈に独りでお絵かきなどして、近所のともだちが幼稚園から帰ってくると家に遊びに行ったりする毎日だった。

六歳上の兄は小学校から帰っても、すぐに遊びに行ってしまう。その頃、兄と仲良く遊んでいた記憶がない。

色んな近所の知り合いの家に転々と、わたしは少しの時間預けられたりもしていた。

父が保育園や幼稚園にわたしを預けなかったのは、姉から聞いた話では、「変な教育をされたくはない」という理由からだったらしい。

父からの教育はとくに何もなく、放任主義であったからその理由には少し驚いた。

その為か、わたしは世の常識というものがさっぱりと、未だに身にはついていないように想う。まったくこの年になっても、非常識者である。

いや父を恨んでなどいない、むしろその育て方には感謝している。

母親にろくに育てられなかった(母はわたしが二歳のときに乳がんが末期であることがわかった)子供が、まったくの他人に教育をされることはそれは大変なストレスであっただろう。

話を戻すと、最近、ふとよく想うのは、父は本当に母の死んだ後、女性関係はなかったのかということだ。

たった一度だけ、5歳のころに、父に連れられて一人の若い(うろおぼえだが)女性に合わされ、一緒にどこかへ遊びに行ったことがある。

その時にその女性から貰った、手作りの緑の毛糸の女の子の人形をわたしはとても喜んで、大事にしていた。

優しくて、おっとりした女性だったと記憶している。顔などは記憶にない。

それで後になって、父から聴いた話では、その女性から、結婚してこず恵ちゃんを育てたいと言われたのだが、それをお父さんは断ったのだと言っていた。

断った理由は、今でも亡き妻のことを愛しているからだと女性には話したという。

だが、わたしには、こず恵がもし、その女性に虐待とか、良くないしつけ(教育)をされることが嫌なのもあったからだと話してくれた。

それから、「お母さんのように愛せる人はどこにもおらん。」と、お父さんはお母さんを恋しがるように話した。

この言葉に、わたしはどれほど救われてきただろう。

お父さんはあんなに苦労して、営業の仕事も辞めてわたしのために小さな看板会社に転職して看板をせっせと作って設置しに行く仕事をしながら必ず定時には帰って来て、友人と飲みにも行かず遊びもせずにわたしと兄を育てて来てくれた。

仕事帰りに買い物をして、帰ったら夕食を作り、幼いわたしと兄と三人で食べる毎日。

平日はその繰り返し。休みは一緒に三人でよく釣りに出掛けることもあった。

兄もわたしも、まだこどもの時から、できる家事は遣ってきた。

わたしが小学校に入れば兄は中学に上がって、兄のお弁当も毎日父は作っていた。

中学に上がればわたしが夕食を作るときも多かったように想う。

さっき観た松山ケンイチ主演の「うさぎドロップ」という映画で、風吹ジュン演じる母親が、突然小さな女の子を自分独りで育てると言い出した松ケンに向って、子育てがどんなに大変であって、どれだけあんたの子育てに「自分を犠牲にしてきたか」という風な台詞を言っていた。

兄が小さくてわたしがまだ産まれていなかったとき、少し鬱症状のようなものが出てきて医者に視てもらっていた時期がお父さんはあった。

中卒で人付き合いが苦手で頑固者なお父さんが、慣れない営業の仕事をどれほど自分を犠牲にして頑張ってきたのか考えると、自分も同じようにできるとはとても想えない。

当時、四十五歳くらいであった父にとって、あの女性は、どれくらい助けになっていたのかと考える。

うちのお母さんに罪悪感を抱えながらも、あの女性と二人で会っていた時間が、きっとあったのではないかと想像した。

では、お母さんが死ぬ前はどうだったのか。

お母さんが、兄が幼い頃にクリスチャンとなったのは、どういった苦しみからだったのか。

宗教にしか、当時の母の助けはなかったのだと感じる。

わたしは、本当に何も知ることはできない。

何もなかったのだと想いたい。

しかしあの女性は、本当に透明な感じの人だった気がする。

自分を無くしてでも、わたしの母となろうとしていたのだろうか。

わたしを養子に引き取りたいと言った義理の叔母さんも、やんちゃ盛りの男の子二人抱えながらもわたしの母となろうとしてくれた。

それでも父は、どうしても独りで育てると言って、それを断り、いつでもわたしの傍にいてくれた。

その為か、わたしはどうしてもお父さんが必要な娘となり、お父さんは、どうしてもわたしという娘が必要な父親となってしまった。

そして未だに、わたしという人間は、お父さんと、お母さんを求めている。

お父さんと、お母さんを、この腹を痛めて産みたいと願っている。