あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

ѦとСноw Wхите 第8話 〈死〉

2017-01-01 22:18:44 | 物語(小説)
あんまりにひどい初夢を見た。
Ѧ(ユス、ぼく)はとても高級そうな高層マンションに引っ越したんだ。そこで念願の猫を飼いだした。ある方角の窓からは向かいのマンションが近すぎてその隙間からしか空が見えなかった。濁った赤っぽいカーテンがかかっていた。マグリットの絵にでてくるような。暗い色のカーテン。Ѧは可愛がっている猫を追いかける。猫はもうひとつの方角の窓辺へと走っていく。窓が開け放たれている。Ѧはダメだ!って思うんだけど猫は走ってってそのまま窓枠に乗っかって見えなくなってしまうんだ。Ѧが上から下を覗くと、まず目に入ったのは血を吐いている猫だった。でもそれはѦの猫じゃなかった。その近くに身体中から血が飛び散って横たわっているѦの猫を見つける。Ѧは絶望してよく晴れた青い空を見上げるんだ。Сноw Wхите(スノーホワイト)、どうしてѦはこんな夢を見るんだろう。深い孤独の中はやっぱり深い闇に通じてるからだろうか。とても怖い。闇が怖いよ。もう夜の7時だ。起きてセルマソングスを聴きながら白菜を入れたオーサワのベジ玄米ラーメンを作って自然栽培の日本酒「自然舞」でも飲もうかな。お雑煮作るのが億劫だよ。寂しいよСноw Wхите。Ѧを抱きしめてほしい。Мум(マム)。寂しい。どこにいるの?声が聞こえない。



Сноw Wхите「Ѧ、Ѧ、Ѧ、聴こえますか?聴こえたら応答してください。わたしのただひとり愛する子Ѧよ」



Ѧ「さあСноw Wхите、一緒に自然舞を飲みながら自然舞を舞おう、フォーレのレクイエムにあわせて」



Сноw Wхите「これはほんとうに美味しいお酒ですねѦ。わたしは酔っ払ってしまいます。美しい音楽のなかでわたしと踊ってください、Ѧ」



Ѧ「もちろんだよ!その次にはレディオヘッドを聴きながら踊ろうね!」



Сноw Wхите「踊りましょう。悲しい音楽のなかでѦと踊っていたいのです」



Ѧはこの次元では目に見えないСноw Wхитеの手をとり踊りだした。

ふかくあたたかい闇のなかへおちてゆくかんかくがとてもここちよかった。







Сноw Wхите「ありがとうѦ。もう夢の苦しみは癒えましたか?」



Ѧ「すこし癒えたよ、Сноw Wхитеのおかげで。ありがとうСноw Wхите。でもѦはどうしてあんな夢を見てしまったんだろう」



Сноw Wхите「ひとつはѦの罪悪感から来ています。Ѧは今住んでいるおうちを引っ越して、もっと良いおうちに住みたいという願望に深い罪悪感を持って過ごしています。そしてѦはとっても動物が好きなのですが、ちゃんと世話してあげられないことに常に強い自責感を持っています。もうひとつは愛する家族である動物を自らの不注意で死なせてしまうことの悲しみを何度でも知りたい気持ちがあります。そのような人が世界にはたくさんいることを知っているからです。そしてもうひとつには、過去の出来事が関係しています。Ѧのお兄さんが飼っていた猫の赤ちゃんをあげたお兄さんの友達の引越し先が高層マンションで、その子猫が窓から飛び出して転落して死んでしまって、それを聞いたお兄さんが友達の前で涙を溢れさせて悲しんだことがѦの深層意識にずっとあるのです。でも一番大事なのはもうひとつの理由です。Ѧは飛びだして死んでしまったѦの猫をѦ自身にたとえ、Ѧの恐れるѦが辿る未来の一つとして恐れているからです。Ѧは未来に自分がみずから死を選んでしまうことを恐れているのです。Ѧはそして同時にみずから死を選ぶ悲しみを知りたいという気持ちを持っているのです。それはとても深い深い悲しみで苦しみだからです。だからѦの中で恐怖と願望が絶えず争っている状態にあります。でもあんまり深く関心を持ちつづけるとそれがそのとおりに叶ってしまうことをѦはわかっているので、余計に自分の関心ごとに恐怖しているのです。Ѧの大事な大事な猫はѦ自身なのです。Ѧが自ら飛びだして死んでしまったことにѦは絶望を感じることによって、その関心を持つことをもうやめたいという願望を同時に持っています。Ѧはみずから死を選ぶという結末に関心を持ちながら、同時に最期まで生きぬきたいという願望を強く持っているからです。二つの関心ごとが争っている状態にあります。だからあえてѦの死をѦ自身にѦは何度も見せるのです。それでほんとうは自分は何を望んでいるかを確かめたいと願っています。ですからそんな夢を悲観的に捉えることも恐れを持つ必要もありません。Ѧがほんとうに望んでいることをѦは知りたがっているのです。自分でしっかりといちばん望むものを選びとりたいと思っています。それゆえにその夢は憶えている必要があったのです」



Ѧ「Ѧはいろんな死に方に関心を持ってるよ。死刑に処される苦しみはどれほどの苦しみだろうかとか、人に殺される死に方はどんなに悲しいものだろうか、とか、愛する家族を残して病にじわじわと殺されていくのはどんな悲しみなのかって、Ѧはとにかくあらゆる悲しみや苦しみに関心があって、Ѧはその悲しみ、苦しみを知りたいと思っている。共感できないことよりも共感できることのほうが喜びだからなんだ。共感できないことはまるで空っぽな感覚になる。共感したい人の悲しみ苦しみに共感できないとき、そのときѦは空っぽなんだ。Ѧはお母さんの悲しみもお父さんの悲しみもまだ知らない」



Сноw Wхите「Ѧはどのような死に方を選んでも、それは間違った最期にはなりません。どんな死に方にも同じだけの価値があります。でもわたしは、Ѧにもっと生きることに目を向けてほしいと思います。生きる最後に死があるわけではなく、生きることそのものの中に死というものは存在していることに目を向けてほしいのです。生きることは、死の沼底を踏み歩いているようなものなのです。最後だけが肝心というわけではありません。いかに死を感じて生きていけるか、大きな喜びは死後にではなく、死を感じつづけることによってでしか感じられない生を感じつづけることができる今ここに在ることを感じとってほしいのです」



Ѧ「Ѧは確かに、死という最期に深く関心を持ってるみたいだ。そこにお父さんもお母さんもいる気がするから。でも死はいまでもѦの中に存在しているということにもっと目を向ける必要があるとѦもわかるよ。でもあんまり今の死に目を向けると引きこまれそうだから、それをどこかで恐れて目を逸らしているのかな。最期の死というまやかしの死に目を向けることによって誤魔化そうとしているのかな」



Ѧがそう言ってСноw Wхитеを観るとСноw WхитеもѦを観ていた。

そのEye(アイ、目)は吸いこまれそうな美しい褐色の色をしていた。















ダンサー・イン・ザ・ダーク

2017-01-01 06:11:10 | 映画
ラース・フォン・トリアー監督、ビョーク主演の最高傑作である「ダンサー・イン・ザ・ダーク」をまた観ました。








観たのは三度目だと思う。
自分にとって最愛の今は亡き父と一緒に観た映画なのもあり、特別な映画なので一人きりで大晦日の夜に観ました。
一度目に2003年ころに観たときは観たあともう苦しくて苦しくて一ヶ月ほど引きずって想いだすたんびに泣いていました。
でも何年と時間を置いて二度目、三度目と観てみると、だんだんと受け入れやすくなってきていると感じた。








今回感じたことは、セルマが息子と二人で話すとき変に緊張して接している、気を使いすぎている様子に気づき、セルマは息子に対して深い自責の想いを持っていたのではないかと感じた。
そこには父親のいない不憫さも関係しているだろうし、セルマ自体があまり人と接することが得意な人間ではないことや、息子から愚鈍である母親と思われているだろうことをセルマ自身が感じていることや、家が貧しいことなどの理由から、セルマは自分は息子を幸せにはきっとできないのだと常に自分を責めつづけて生きていたのかもしれないと感じた。











そしてそのうちに失明することを知っているセルマはこの先、これ以上の迷惑を息子にかけることに絶望的な気持ちでいたのではないだろうか。

心のどこかで、自分はいなくなってしまったほうが息子は幸福なのではないかと考えていた可能性がある。
でもそれは、はっきりとしたものではなくて、漠然としたなかにあった気持ちだろう。

できればセルマはそれでも愛する息子と一緒に生きたかったが、いざ判決を受けて、耐え切れないほどの恐怖のなかで息子の本当の幸福に繋がる道がどこにあって、それは自分が戻る道なのか、それとも戻らない道なのかを何度も模索して、最後の結論として、セルマは自分自身に科したように思わずにはいられない。

セルマは自信を持って息子と愛し合えていることを感じられていた親ではない。だからこの話を普通の親子の話として観ると不自然さを人は感じるだろう。

セルマは障害を持つことをわかって産んだ息子を幸福にできないことにずっと苦しんできた母親であったからこそ、あの展開はセルマ自身が望んだ展開でもあったのだと感じられる。

それを独りよがりの愛であると感じる人は多いかもしれない。
でも自分はそうは思わない。
実際、何が息子の幸福であるかなど、誰もわからない以上。

自分も一度目、二度目と観てもそこまで考えられなかった。
だからどうかこの映画を一度観ただけで判断はせずに何年と経った後に何度も人に観てもらいたい。

この映画にある悲しみはとても深い悲しみです。
それはこの映画を撮ったラース・フォン・トリアー監督自身がほんとうに深い悲しみを知っている人だからだと思います。

深い悲しみとは、私はこの世界でもっとも意味の深いものであると感じています。
そしてそれを感じられること、共感することや同情心、それは慈悲であるし、ものすごい価値で、人を最も喜ばせることのできることだと思っています。

だからこの映画のようなほんとうに深い悲しみの入っている映画こそ私は人々に観てもらいたい。
ほんとうに悲しい人間の生きざまこそ、観てほしい。

それはいつか必ずあなたの深い喜びに繋がるはずだからです。


この映画のレビューで「不幸」とか、「無力」という言葉をよく見かけましたが、この映画は「New World(新しい世界)」という曲で幕が閉じられます。
私は22歳のときで親の二人目も喪って親なし子になったのですが、私は親が生きていたなら生きられなかった世界に生きていると深く実感できます。
それはとてつもない悲しみと孤独の世界です。
でもけっして不幸だと感じたことは一度もありません。
むしろこの苦しみがなければ、感じられることはきっとなかったと思える深い喜びを感じられているのだと、そう信じることができてきています。

セルマがあの最期を遂げなければ、始まることがなかったNew World(新しい世界)。
それはセルマの新しい世界だけでなく、もちろん息子にとっての新しい世界の幕開けを意味しています。

新たに始まる世界は、不幸な世界ではけっしてないと私は思います。
わたしも親を喪ったときは、絶望的なあまり、本気で後を追って死のうと思い立ちました。
当時は光がどこにも見えず、世界は闇でした。
13年経っても私が父の死を悲しみつづけていることに、人々は私を今でも不幸と感じるかもしれません。
でもわたしは不幸ではないのです。
むしろ、このかけがえのない悲しみがありつづけることでしか見えない光を感じて生きることができているのです。
この世界は、わたしにとって最愛の、父を悲しい最期で亡くさなければ始まらない世界でした。
私は母の記憶がなくて父子家庭で育ちました。
セルマの息子ジーンがこれからどのような人生を歩むか、途方もない悲しみの世界だと思います。
でもその人生が不幸か幸福かは、誰も決めつけることはできません。本人でさえもです。
何故なら、人生というもの自体が与えられたものでもあるからです。
自分が自分の人生を不幸と決めつけたところで、自分の人生そのものが、与えられている人生なのです。
では「不幸」か「幸福」かを決めるのは自分自身ではなく、その与えている存在です。
それは「もう一人の自分自身」と言えると思います。
セルマはその存在を感じとっていた人だったかもしれません。
だからあんなに苦しい中にも光を手放そうとはしなかった。
いや、苦しくてたまらないからこそ、光を手放すことはできるはずがなかったのです。

ほんとうに深い闇を生きるほど、大きな光が見えてくる。
セルマが見た光は、かならずや息子のところに届くとわたしは思います。
それは十年後かもしれないし、十五年後かもしれません。
三十年後にやっと届いたとしても、息子ジーンのそれまでの人生はその光に届くまでの必要なプロセスであり、その光は、セルマが生きて息子の傍で生きる光よりも大きな光かもしれないのです。
大きな光、セルマがあの選択をしなければ息子に与えることができなかった大きな喜びかもしれないわけです。
セルマはそれを信じることができた人だったからこそ、最後に「New World」という曲で映画は終わるのです。

だからセルマはほんとうにすごい「力」を持った人です。
どんなに苦しくても光を信じて死んでいくことができる力は、人を闇から救いだせる力です。
その力は息子を深い闇からかならず救いだせる光である。

だからこの映画がほんとうにたくさんの人を感動させるんだとわたしは思います。