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ろんぶん

2008-11-13 17:19:26 | 言語研究
自分がどうしたいか。

自分はこの論文の中でどうなりたいか。

何を中心に据えるか。

何が大事だと思ってきたか。

・・・行った言語実験を説明するより、自分の言語観というのを強く出したくなる。

バランスが取れればいい。

実験はツールだ。

それで自分の言語観が語れるかどうか。

いちはいち

2008-11-06 13:35:08 | 言語研究
実験結果の表を作っていて、

見直した時に

まちがいをひとつ見つけると

そのたびに

心身が重くなって

作業がとどこおる。


どうしても

ひとつ間違いがあるということは

他にもあるということだな、

と思って、

‘ゴキブリを一匹見たら

三十匹いると思え’的な

精神で

いちいちこころが重くなってしまう。

そうすると、

作業する指も遅くなってしまう。


ひとつの間違いは、ひとつの間違い。

一匹のゴキちゃんは、一匹のゴキちゃん。

それ以上ではない。

たぶん。


すくなくとも

そう思ってなきゃ、

逃げるための理由ばかり作ってしまう。

またも勘違い

2008-10-14 14:02:56 | 言語研究
またしても勘違い、発覚。


「還元主義/reductionism」という言葉の意味だけど、

私が思ってたのと、違った。

Wikipedia - 還元主義

どうして、「還元主義はこわい/よくない」ということが聞かれるのかわかった。


デカルトの『方法序説』は、けっこう愛読書だし、

'reductionism(リダクショニズム)'という言葉のひびきに

勝手に好感を抱いていたんだけど、


どうも、私の思ってたのと、

従来言われている「還元主義」「要素還元主義」というのとは、

ちがうんだ。

あらら。

おかしいなぁ。


イギリス人の哲学者の先生が授業中(脱線ぎみに)言ったことから、

'reductionism、ステキっ’って思ってたけど、

あれ、英語、聞き間違えてたのかなぁ。


それとも、最近、脳科学で言われてる「還元主義」は、

私が'ステキっ'って思ったものに近いんだろうか。


勘違いしては、それを正して、

その正していく中に

それまでだれも言ってなかったような発見があったりする。

そうやって、人類は進んでいくんだろう、と思う。

思い込みとか

2008-09-18 11:37:14 | 言語研究
「思い込む」という言葉には‘本当はそうではないのに(思い込んでしまっている)’っていうニュアンスが込められているけど、人の思うこと・そのものに‘本当’がある、っていうふうに考えた方がいいかもしれない。

だいたい、自分が‘言語研究をする’って、中学生くらいから‘思い込んで’、10年後の今、セミプロ(=大学院生)として言語研究の場にいるのは、現実以外のなにものでもない。

才能は指向性と強度だ、と思っていてそう書いたこともあるけど、もっと言えば、生きること自体、指向性(/志向性)と強度でできていく、みたいだ。

つまり、どの方向に・どれくらいの強さで、向かっているか、ってことなんだけど。


直感と思考について。

これらって、同じものではないけど、対立するというよりは、お互いに補い合うものである、はずだよね。

これも書いたことあると思うけど、大学院の哲学のW先生が'Follow your intuition. See where it leads.'(直感を掘り下げて、どこに行き着くか見てみなさい)っていうようなことを言っていたんだけど(かなり名言だと思う)、「掘り下げ」る、っていうのは言語化による場合が多くて、それを思考と読んだりする。

言語化=思考、ではない、と思うけど、多くの場合、言語化≒思考、の式は成り立つだろう。

ことばっていうのはさぁ、そこにある思いの塊り(e.g.直感)を説明するためにあるものだと思うんだ、最近、つよく。

ことばが先、ではない、というか。

(それは「神はことばなりき」に矛盾した意味でなくて。少なくとも、日常生活において。・・・‘ことばが物事を成らせて行く’というのは、そこに思いがあるからなんだ。思いの結合のひとつ目に言葉がある、ということは言えると思う。つまり、言うことがすでに行動である、というか。)



直感を信じることが思い込みと言われるなら、これからはちゃんと思い込んで生きていこうと思う。

ないがしろにできないものにきづく、くらいの力は、いつもそなえていたい。


そして、それにことばを与えていく。

そんなことが可能だとして。

自分のやってることが

2008-07-28 21:22:40 | 言語研究
自分のやってることをどんなふうに社会に還元していけるだろう。

たぶん、これって真剣に考えるべき問題だなぁ。

わたしの研究で、だれをよろこばせられるか。

どう価値を見出すか。

わたしの場合、「社会」と言うとかなり遠くて、たとえば応用言語学をやってたら外国語教育っていう直接、理論を活かさせそうな場所があるんだけど、わたしのやってる心理言語学の‘人間の言語処理’っていう分野だと、直接的に研究成果を社会に還元するっていうのはむずかしい。

だから、当たり前のことだけど、分野の中でこれまでの研究とか理論にたいして何が言えるか、ってことが大事なんだけど。

やっぱり、よく考えてみると、自分のやってることが直接、どう人に役立つか見えないことをやり続けるって、けっこう根性のいることだ。

それでもわたしの分野は、まだ「科学」に貢献してる、っていう自負があるからやってられるけど、純粋に自分の興味だけで、大義名分を持たずに何かの研究してる人がいたら、その人はすごいなぁ。

ぼくらには理由が必要だし、信念が必要だ。すくなくとも自分には。

理由が見えないときは、自分で理由を作る必要もあるだろう。

前提をくつがえす

2008-07-24 13:34:28 | 言語研究
答えはひとつだと思ってる人たちとわたしには、距離があると思う。


むかしから、漢字の読みを“正確に”覚えていなかったり、自分語が多かったりするんだ。

たとえば「平易」は、「へいい」が一般的だってわかってるんだけど「へいえき」って自分の中では読んでるし、最近、身内に指摘されたのは「狭量」を「きょうりょう」でなく「ぜいりょう」って言ったときだった。

指摘されたときは、人間ができてないもんだから
“ふんだ。そんなこと言ってるから凡人なのよ”と言い返したくなった。
もちろん、そんなこと言わずに「あぁ、ごめん」って、いちおう大人だから言うけど。

むこうは‘普通であること’をちゃんと生きているんだ。そういう言い方はない。

なので、考えたんだけど、この場合、反論としては
「そんな細かいこと言ってたら、わたしはわたしの目指すクリエイティブな人間になれない」というのが、比較的、正しいだろう。本当にそのせいでなれなくなるかどうかは別として(笑)

でも、最初の言い返し文句を思いついてしまうのは、こういったファジーさがわたしのコンプレックスであるからだ。

しかも、それを指摘するのは母で、子どもの頃を思い出してしまう。

母と兄は、漢字とか好きな人なんだ。彼らは本がすきで、わたしに比べ、知識が広範なので、子どもの頃わたしは時々言い間違いをからかわれていた。
(その頃は、本気で腹を立てたり傷ついたりしてたけど、今思えば、あれは‘アホっぽくてかわいい’っていう小さいものにたいする慈しみだったのだろう。)

できないのが先かポリシーが先かわからないけど、わたしはどうも知識を一対一対応で覚えることに納得が行かない。

そもそも、同じ言葉を口にしたからと言って、その意味内容がどの人もいっしょ、っていうことは期待できないんだ。

なんとなく共通っていう部分はあるけど、特に、抽象概念になってくると、たとえば、その言葉にポジティブな意味を付与するかネガティブな意味を付与するか、それはその人の経験とか性格とかと深く関わっているので、同じ言葉を言ったからといって、そこで既に共通認識が成り立っていると思っていると齟齬が生じてくる。

山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く』の最後の方に、「‘自立’という言葉をめぐって友人と議論になった」っていう話があって、「自立はいい」っていうズーニーさんと「自立はよくない」っていう友人とで議論するんだけど、よくよく話し込んでみると‘自立’という言葉そのものの捉え方が違っていた、ズーニーさんは「人と関わりながらの自立」っていうものを思い浮かべていて、友人は「まったく自己完結=自立」っていうふうに考えていた。
本当の二人の意見は、実はそんなに違っていないんだ。

だいたい話が通じない時って、言葉づらの問題でなくて、おたがいの前提が違うっていうことが多い。
一段階、戻って考えることが大事なんじゃないかと思う。

むずかしい言葉を知っていれば賢い、と素朴に信じてる人たちと、わたしの間にはけっこうな距離がある。

吉本隆明さん~それからそれから

2008-07-19 22:25:09 | 言語研究
それからね、「表現っていうのは、人間と自然の間の相互作用で、人間が自然に変化を与えると同時に、そうすることで人間も自然から変化を受けていることを忘れてはならない」とおっしゃっていた。

たとえば、科学をやっていたら科学的人間になっていくし、文化に関わってたら文化的な人間になっていく、って。

そういえば、わたしは今の大学院に入って一年くらいしてから、母から「だんだん、その大学の人っていう雰囲気とか、顔つきになってきてる」って言われたな、って思い出した。

言われた時はピンと来なかったんだけど、数ヶ月前、勉強会の人たちと行った食事会のときの写真を見たら、みんないかにも研究者風で、いや、しゃべってる時にはそう思わないんだけど、客観的に見たらそうなんだな、ってわかって、どうやらわたしもそういうふうに見えるみたいで(メガネかけてるからかもしれないけど)、なんか、単純にびっくりしたというか、軽くショックだったというか。

だから吉本さんの「その人が日頃やっていることが、その人をその職業の人らしく変化させることに気づいていなさい」という言葉に、かなり納得がいった。

たぶん、自分も自然のいちぶなんだよ、ってことだろう、って思った。

ああ、そうだ、そうだ。
自分を客観視するのはむずかしいけど、そうやって気づくこと―たとえば、わたしが写真を見て‘ゲッ’って思ったこととかって、自然の一部としての自分を思い出させてくれることで、たぶん、わたしには必要なことだったんだ。

いいじゃないか。どうせ、何かしらの色に染まって人は生きていくことになるんだ。
だったら、好きな色にちゃんと染まっていこう。

吉本隆明さん講演会

2008-07-19 22:03:17 | 言語研究
「ほぼ日刊イトイ新聞」の10周年企画『吉本隆明講演会』に今日、行って来ました。[@三軒茶屋]

予定の1時間半の倍の三時間の講演でした(!)

はじめて講演をお聞きして、予備知識も少なかったんだけど、なんかすごかった。“83歳の吉本隆明さん”っていう存在感を感じてきました。

わたしは前から二列目の席で、直接、顔の表情とか手の表情とか見れる距離だったのでラッキーでした。

印象的だったのは、まず、戦争が終わった時に「世界を掴まなくてはならない」と思った、ということ。
「世界を掴む方法を知って、それをそれまでの自分の文学的素養と‘つなぐ’ことで、自分ははじめて、生きていけると思った」「それができるまでは(戦後を)生きていけるかどうかわからなかった」

世界をつかむ、とは具体的には、アダム・スミスからマルクスまでの経済学を勉強されたそうで、「つなげた」と思うまで5、6年かかったそう。

それが冒頭のお話だったんだけど、感動した。
なんていうか、時間の流れ―自分が知ってるよりもっとずっと長くて大きな時間の波を、そこにいる吉本さんの中に垣間見た、というか。
(最近、考えてたんだけど、わたし、うまれてからまだ一万日も生きてないんだよね。)

長く生きてらっしゃる方からいただける勇気というか、大きな安心というか。

やっぱり自分の信じてることを信じ抜くこととか、あるいは自分の感じたことに敏感になってうやむやにせずに整理しながら進んでいくこととか、そういうことがその人の、その人らしさを揺るぎないものにしていって、その人らしい人生っていうのがつくられていくんだなぁ、って思った。だから、そうしよう、っていうか。

あとね、ぼんやりとなんだけど、思ったのが、吉本隆明さんって、きっとちょっとチョムスキーと似てるんだろうな、って思ったの。

いや、チョムスキーの講演はドキュメンタリー映画で観ただけなんだけど。

講演会の最初に、糸井重里さんが「吉本さんには敵も味方もすごくたくさんいて」っていうことをおっしゃってたけど、それだけ、人の心に直接、働きかける言葉を発する人なんだなぁ、っていうか。

賛成にしろ、反対にしろ、人の中に強い感情を呼び起こす言葉を出せる人。

運命論的だけど、そういう人って、ごくたまにいて、そういう人はそういう運命を背負ってるんだと思う。いや、吉本さんとかチョムスキーとかのことだけど。

意見が正しいとか正しくないとかじゃなくて、考える姿勢を提示することがすごくすごく重要だ、というか。

具体的な意見とか方法に、絶対的なものはないと思う。
状況の変化によって、答えはどんどん変化していくんだ。
その変化していく状況に対応できるのは、一貫した、考え続ける姿勢、というか。

ぼくら一人ひとりが考える人・行動する人になっていくことが、いつも望まれているんだと思った。

気が済むように

2008-07-17 17:16:08 | 言語研究
今日は、おぼろげながら、自分が「完璧主義だね」と言われる理由がわかった気がしている。[@修論の中間発表]

あぁ、これからは毎日、自分の研究のことを考え続けていたい。
本当に。本当に。本当に。

気の済むまで向かい続けたい。