「思い込む」という言葉には‘本当はそうではないのに(思い込んでしまっている)’っていうニュアンスが込められているけど、人の思うこと・そのものに‘本当’がある、っていうふうに考えた方がいいかもしれない。
だいたい、自分が‘言語研究をする’って、中学生くらいから‘思い込んで’、10年後の今、セミプロ(=大学院生)として言語研究の場にいるのは、現実以外のなにものでもない。
才能は指向性と強度だ、と思っていてそう書いたこともあるけど、もっと言えば、生きること自体、指向性(/志向性)と強度でできていく、みたいだ。
つまり、どの方向に・どれくらいの強さで、向かっているか、ってことなんだけど。


直感と思考について。
これらって、同じものではないけど、対立するというよりは、お互いに補い合うものである、はずだよね。
これも書いたことあると思うけど、大学院の哲学のW先生が'Follow your intuition. See where it leads.'(直感を掘り下げて、どこに行き着くか見てみなさい)っていうようなことを言っていたんだけど(かなり名言だと思う)、「掘り下げ」る、っていうのは言語化による場合が多くて、それを思考と読んだりする。
言語化=思考、ではない、と思うけど、多くの場合、言語化≒思考、の式は成り立つだろう。
ことばっていうのはさぁ、そこにある思いの塊り(e.g.直感)を説明するためにあるものだと思うんだ、最近、つよく。
ことばが先、ではない、というか。
(それは「神はことばなりき」に矛盾した意味でなくて。少なくとも、日常生活において。・・・‘ことばが物事を成らせて行く’というのは、そこに思いがあるからなんだ。思いの結合のひとつ目に言葉がある、ということは言えると思う。つまり、言うことがすでに行動である、というか。)

直感を信じることが思い込みと言われるなら、これからはちゃんと思い込んで生きていこうと思う。
ないがしろにできないものにきづく、くらいの力は、いつもそなえていたい。
そして、それにことばを与えていく。
そんなことが可能だとして。