goo blog サービス終了のお知らせ 

一年間

2008-07-11 14:27:43 | 言語研究
今週はずっと、大学で自分の実験をしていた。

ちょうど一年前のこの時期にやった実験の追加なんだけど。

それで、去年と同じラボで、同じ時期で、
去年、となりのブースで実験されてた方と今年もまた隣でさせていただいて。

なんか、すごいデジャブ。

でもね、全然、景色がちがうの。

ラボの匂いとか、置いてあるパソコンとか機器とか、やたら懐かしくて(ラボにはその後も自分の実験以外では何度も来てるんだけど)、
だけど、それらを見て触ってる、自分の気持ちが全然、ちがう。

去年は、すごい思いつめてて、一人ひとりの被験者さんの様子にすごい敏感で、ディテールばかり、やたら鮮明に覚えてる。きもちわるいくらいに。

今年は、追加実験の気楽さも手伝って、いい意味で力が抜けてきた気がする。

そうすると、本当に力を入れるべき所が見えてくる、っていうか。

そうすると、実験装置のミスに気がついたりして、あぁ、よかったな、って思ったり。

なんか、本当に、デジャブと、でも、一年で変わったな、っていう実感と、不思議で、穏やかな感覚に包まれてしまった一週間でした。

言葉を失うとき

2008-07-05 19:11:19 | 言語研究
先日、書いた福島智さんのことばで、言語研究する身として、興味深かったことばがある。

「ヘレン・ケラーにとって、言葉は獲得するものだったけど、多くの(中途失明・中途失聴した)人にとって、言葉は喪失するものんなんです」

あぁ、そうだ。

そして、わたしたち、全員が、いずれ失っていくものなんだ。


言語獲得研究というと、赤ちゃんが対象で、赤ちゃんがことばを身につけていく過程を研究して、人間が持ってる言語能力を知ろうとする試みだ。

それにたいして、言語喪失の研究というのがある。
わたしの知ってる範囲では、脳に損傷を受けた人の言語喪失についての研究がけっこうされてきてると思う。

こういう研究って、言語獲得にしても言語喪失にしても、何が起こっているかをまず記述しようとする所から始まるから、‘こうすれば上手く獲得できますよ’とか‘こうすれば喪失を防げますよ’とか簡単に言えるわけでないし、それが目的でなかったりもする。(人によるだろうけど)

哲学と実学のミゾは深いというか・・・。

あぁ、でも、どうだろう。

ともかく、何ができるとかじゃなくても、まず向き合うこと。
注目すること。
他の人にも注目させること。知らせること。

そういうことが大事なのかもしれない。

For me, it's 'Don't think twice.'

2008-07-01 12:56:47 | 言語研究
For me, it's 'Don't think twice, it's alright' rather than 'Think before you act', if you know what I mean.

最近のテーマは「思いついた時にやる」。

先おくりのクセをやめたいと思って。

ていうかね、AERAを読んでたら、ニュースキャスターの安藤優子さんが「最近、修士号を取ったんだけど、朝5時に起きて、すぐに二時間、勉強するようにしていた。論文もその時間に書いた」というお話をされていて「すぐ行動しないと、できなくなるから」っていうようなことをおっしゃってて、‘あぁ、安藤さんでさえ、そうなんだな。人間って、そうなんだな’って思った。

でも、そこを押し切って、できる人だから、安藤さんはすごい人なんだけどね。

ぼくはすごい人になりたいわけではないけど、あまりにも何もかも‘今はやめとこう’っていうのが多すぎる。

たぶん、ほとんど、全部。
やるべきことのほとんど全部。

生まれつきだと思って、あきらめてたふしもあるけど、さすがにいやになってきた。

多くの人の評価を気にするわけでないけど、家族や先生にはそれなりに、がんばってる姿を見せたいわけで。

I need to act before I think too much.

人によって、必要なアドバイスは違ってくるんだ。

急いでやったことにミスが見つかったら、フォローすればいいんだ。

何事も、最初から完璧、というのは、ない。

意志のチカラ

2008-06-14 13:48:21 | 言語研究
‘だれかの記憶って、どういうふうに覚えているの?’

哲学系の先生が、認知革命を扱った授業で、問われた質問。
‘だれか、大切な人のイメージ’
顔なのか、声なのか、たたずまいか、エピソードか。
映像なの?においなの?その全部?

その時は、よくわからなかったけど、最近、人のイメージって‘その人の意志’なんじゃないかと思ってる。

人の存在の尊さって、そこに意志が存在するってところにあるんじゃないか、と思う。

思考とか本能とか、そういうのひっくるめたもの。
(あっ、それって、人格ってことだよね。)
たとえば‘世界から貧困をなくそう、そのために活動をしよう’っていう高邁なものから、‘今日のお昼は、うどんでも食べようかな’っていう日常的なものまで、さまざまな意志の総体。
(総体、ってことば、好きなんですよね。すぐ使っちゃう。)

意志は、はじめは人の頭/心の中だけにあるんだけど、それは次第に現実世界の中に形を求めていく。
あっ、つまり、意志は実現していくことで、なんていうか、存在意義を果たしていく、っていうか、報われていくんだと思う。

それでさ、実現のために便利なツールのひとつが!
「ことば」なのですねぇ。

場合によっては、言葉にするだけで、意志が成就することさえある。
(言語学の語用論でいう、Speech Act[発話行為]って、これだと思う。)

うまく話せないのをなやむのは、うまく意志が伝えられなくて、思いが行き場を失って、自分の中に溜まっていって、自家中毒みたいになっていくからだと思う。

だから、みんな、さかんにコミュニケーションのことを一生懸命、考えてるんだと思うのね。
言語コミュニケーションでも、言語によらないコミュニケーションでも。
あ、ほら、「抱きしめるという会話」とかね。

人は、それぞれ、意志の発動体なんだ。
それぞれに別々の意志を持ってる。
そこをコミュニケーションで、うまく擦り合わせていって、協力したり、ときには決裂したりしながら、自分の考えを実現させたり他人の考えを実現させたりして、社会を動かしていってるんだと思う。

できれば、そこに参加したいし、できれば、大きく貢献したいって思うようにもなるけど、いろんな事情があって、すぐに社会に参加したり貢献したりできる人って限られてる。

でも、ちゃんと時間をかければ、思いもしない形で、自分の思いが実現していったりするんじゃないか、って最近、かなり確信に近い気持ちを抱いてる。
生きている限り、だれでも、あきらめさえしなければ、自分を生かせる場所にたどりつくんじゃないか、って、たぶん、50年後には、‘そうなんじゃないか’っていう言い方じゃなくて、‘そうなんだよ’って言えるようになってると思う。

まだ、言い切るには、見てきたもの・やってきたことが少ないから、これから増やしていこうと思う。

人を安心させるような人間になりたいんだ。

言葉の奥にあるもの

2008-05-23 17:40:02 | 言語研究
文字づらばかりが気になって、言葉の奥にあるものを見損なっていたのは、自分だった。
気づくのに四半世紀かかった。
びっくりした。
多くの人が物事の表面ばかりに惑わされて生きているように見えてもどかしい思いでいたつもりだったけど、自分こそ‘迷える羊’状態だった。
うすうす気づいていた節もあった。
でも、表面に瞬間的に反応して、喜怒哀楽してしまう心を変えることは、自分にはできないと思ってた。
だけど、本当に本当に、表面は表面にすぎないということがわかると、徐々に瞬間的な反応も変わってくるんだ。ふしぎなことに。
いろいろと、むりすることはない。
時とともに、変化は必ずやって来る。

話をしていておもしろい人

2008-05-13 04:35:34 | 言語研究
『ほぼ毎日イトイ新聞』の連載コラム、山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室」。2000年から連載されていたそうですが、最近になって、はまっています。

どの記事も、今のわたしのツボを的確に突いてきて、声を上げて泣くこともしばしば。
今回は、アーカイブで見つけてきたものをひとつ、ご紹介します。

Lesson254 話をしていておもしろい人

かいつまんで説明すると、
ズーニーさんが‘話がおもしろい’と思う人は、こちらが質問を投げかけると、そのための答えをその場で時間をかけながら考えて話してくれる人。
‘つまらない’と思う人は、返答は早くて正確で、よく勉強してるんだなって感じるけど、すでに用意された答えを言っている感じがして、どこかで聞いたようなフレーズだったりして、胸に染み入ることばにはならない人。

おもしろい人は、自分のおなかの底の「経験の湖」に飛び込んで、そこから得られる感覚や感情に、話している中で言葉を与えていくようで、
一方、つまらない人は、胸の上に「返答用のファイルボックス」があって、そこから自動的に用意されている言葉を選んでくるようで。

この表現、すっごい、ピンと来た。
わたしは「返答用のファイルボックス」が欲しかった。

ちょっとした質問に、時間をかけて、自分の感覚とか経験とかを総動員して答えを探す自分がいやだった。
日常、だいたいの場合は、その場を上手に切り抜けること、ウンウンってうなずきあって、しばしの安心感とか、やわな共感とかを感じることを、たぶん、多くの人は求めていて、わたしみたいに、いちいちウーンと考え出す人間は、空気読めてないってことになる。

えっと、前段落↑の書き方だと、わたしはズーニーさんの言うところの「話のおもしろい人」だと自分で言ってるみたいで、なんか、ちょっと居心地わるいけど、このコラムを読んで励まされた気持ちになったのは事実だ。
積極的にわたしを受け入れてくれる人が時々いることがとても不思議で、こんな、スロー・ガールを待ってくださることにかたじけない思いを抱いていたのだけど、その、時間を掛けるという態度に信頼を置いてくださっていたのか、と思った。

あぁ、だとしたら、最近の私、ちょっとしょうもなくなってたかも。
それまでの自分の態度を否定する気持ちが強かったので、ちがうふうになりたくて、もっと軽やかになりたくて、即答できる人になりたくて、ここしばらくは‘即時性’ということをテーマにしてコミュニケーションの場に臨んでいた。
(まぁ、それだって、コミュニケーションに必要な要素ではあるんだけど。
自分の偏りを正す意味でも。)

それと、もうひとつ、納得したことがある。
わる口にならないように注意したいが、知り合いで、頭がよくて気が利いて親切で見た目も魅力的な人がいる。
話してて、ユーモアのセンスもあるんだけど、いつも、その人と話していると、わたしの心には微かな空虚感が入り込む。
その人の話す言葉が、その人自身のことばでないような気がして、‘心からそう思うんですか?’と問い返したくなるようなことがよくあった。

その人は胸のあたりに「返答用のファイルボックス」を持ってたんじゃないか、って思って。
(まぁ、わたしに心を開いていなかっただけかもしれないけど。)

そんなに頭の回転が早くなくても、今どきのことばを使わなくても、話している中で、真剣に考えて、自分の言葉で話してくれているな、と感じられる人の方が、わたしはすきだ。
(流行語は、アクセントになるけど、中核にはならない。)
言い方を変えれば、今、この瞬間、わたしのために考えて話してくれてるんだ、と感じられることが、本当にうれしい、というか。

カリスマ性のある先生とかと話しててもそうだ。
その瞬間、質問者であるわたしのために時間と頭を使ってくださる。
多分、ご本人は無意識の、迫力がそこにある。

わたしもそうなろうと思った。
気もそぞろに返答していては申し訳ない。
その瞬間、相手と向き合う。
相手が人じゃなくても、ものごとでもそうだと思う。
その瞬間、やっていることに集中する。

そういうことを積み重ねることでしか、人生は深まっていかないのではないかと思っている。

やっぱりすごい

2008-05-05 16:11:03 | 言語研究
吉本隆明さんは、やっぱりすごい。↓

日本の子ども<ふつうがわからないときは?>

わたし世代だと、‘よしもとばななさんのお父さん’っていう認識だったりするんだけど、母に言わせれば「吉本隆明ありき」だそうで。

簡潔な言葉にすべての要素が詰まってるような対談で、

ぼくのような若輩者がどうこうコメントするのはおこがましいんですが、

敢えて感想を述べれば、

年を重ねることの意味を、
それってすごく人間にとって大事なことなんだよってことを
教えていただいてる感じがして、

大きな安心をもらいました。


せめてこのひとときだけでも。
おちついた気持ちでいられる。

この間のプレゼン

2008-05-04 22:14:35 | 言語研究
そういえば、こないだのプレゼン、その後、先生に「すごくわかりやすくて、よかったよ」って褒めていただいた。

それはかなりうれしかったんだけど、思ったこと。
‘褒められているうちは、半人前’

担当教官だけじゃなくて、他の先生にも、発表がよかったって言っていただくことはあるけど、それって、普段のわたしがぼーっとしてるから、ギャップで‘alamedaも意外とできるんじゃん’って思ってびっくりしてくださる、っていう側面が、少なからず、あると思うのね。

・・・って、すなおじゃないかなぁ。
こうは言いながらも、もし人から「あぁ、それはギャップのせいだね」とか言われたら、ちょっとやなんだけどね。ダメ出しは、自分でしなきゃ、気がすまない。

とりあえず、プレゼンをどうにかしなきゃ、って思い始めて最初の発表で、いきなり周囲の反応がよかったもんだから、とまどってる。

自分の最終的な評価者は、自分自身である必要がある。

プレゼン

2008-05-01 08:55:43 | 言語研究
最近、プレゼンのへたさがどうにかならないか、とそのことばかり考えたり言ったりしてた。

昨日、それで、問題の(?)ゼミでの発表をしてきました。
たぶん、今までに比べれば、だいぶ、ましな出来だったんじゃないかな。
友だちに相談したり、プレゼンに関するハウツー的なサイトを見たり、週末は学会行って人の発表を聞いたりして、問題意識をはっきりさせることができたと思う。

あと、思ったのは、声量のなさでした。
いつのまに、わたし、こんなに声小さくなったんだろう、ってはじめて思った。
前、ゼミの先輩が「部屋で、ひとりで、発声練習してるんですよ」とか言ってて、おもしろいなぁ、と思ってウケてたけど、それって必要だわ。発声練習。

なんか、カラオケで、たとえばオアシスとか歌ったりすると、やたら野太い声が出て、友達には「alamedaちゃんが男の子だったら、ほれる」って言ってもらったりして(男の子じゃないけど、ほれてくれたらうれしい 笑)、‘声、出そうと思えば、出せるもん’って思ってて、そんな理由で自分に声量がないなんて思っていなかった。

まぁ、歌としゃべりは違うんだろうけど。
たぶん、意識っていうのが、大事だな。
声出す、聞かせる、聞いてもらう、伝える、伝えたい、伝わらない、工夫する、とか、いろいろ、そういうこと。

Well, be not nobody.
だれにだって、表現する手段はあるんだ。

すきま

2008-04-28 17:19:40 | 言語研究
隙のない議論は、魅力がない。

よい論文というのは、読者に問題意識を持たせるものだ。
よい発表のあとには、活発な意見交換が行われるものだ。

あたりまえじゃないことを言ってみる。
でも、ありえなくはないことを言ってみる。

そういうラインを探してみる。
そういう点を突いてみる。

むかし、お兄ちゃんの持ってたマンガで、格闘技の使い手が「風の傷をよめ」って言ってた。
なんか、そんな感じ。
「風の傷をよめ」って、まさにそんな感じ。

風通しのよい議論を。
吹いてる中の、一瞬のすきを突く。そんな感じ。