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今、いちばん役立ってるのは

2009-07-03 18:08:35 | 言語研究
今、いちばん役立ってる知識というか、自分の学力の底力みたいになっているものは、院浪していたときに独自の勉強で身につけたものだ。

独学したのは、いまの分野に入るきっかけを作ってくれた分野なんだけど、実は学部のころ、その勉強がいやで仕方なかった。

ひとつの言語理論なんだけど、なんていうか、いちいち反感を覚えるっていうか、直感に反するっていうか。

コンセプトにはすごく共感するんだけど、やり方が、わたしの目から見て、180度おかしい、っていうか。

まぁ、そんな理論を研究する分野だったんですが、院浪した時に、その理論を理解する大きなきっかけを作ってくれた先生に出会って、その先生の授業がブレイクスルーになって、自分でさらに勉強を進めることができました。

そしたら、それまで毛嫌いして、よく読まなかった論文が、はじめはおぼろげに、次第に確信をもって理解できるようになって。

やっぱり納得しない、っていうか、この前提はまちがってると思うな、というのを含めて、その理論の全体像が頭の中ではっきりしてきて。

まぁ、今は、その隣接領域を専門にやらしてもらってるんですが、今の分野はより実践的な立場で、まぁ、証明するにも反証するにも、ひとつの叩き台となる理論が必要で、理論の仕組みがそれなりにけっこう理解できてる、っていうのは予想以上に強みです。

自分で、能動的にやったこと(勉強)って、本当に自分を支えてくれたりします。

びっくりです。

感覚論

2009-02-06 19:44:16 | 言語研究
なんていうか、流れを掴むことだ。

流れを産み出す、というか、つかむこと。

流れに乗ること。

リズムにのること。

それは、ちまちまはやってこない。

それは、だいたい、もう、洪水のように。

そのとき、自分の身をささげやすくしておくことだ。

暇人であれ、というのではないけど。

むしろ、逆だけど。

何もしない自由の身より、いろいろな約束の中にいたほうが時々、本当に自由になれる。

・・・んだと思う。

何もしない自由は、とっても不自由です。

自由の刑としかいいようがない。

あぁ、サルトル・・・。

・・・読んでないけど。



やっぱり、意識的にしようとすると、すぐ限界にあたる。

意識的な創造は、創造でない、というか。

つまり、創造を導くまでの道程は意識が先導してくれるし、そう心がけるべきだけど、創造そのものは潜在意識の放出っていうか。

っていうか、なんていうか。

うん。

なんかね。カルト的になっちゃいけないとは思うの。

でも、ある程度、狂気は必要というか。なんというか。

狂気であっても、実は、それを操っている、いつもの自分がいる。

平常心だけど、ちょっと逸脱。

いや、逸脱を含む平常心?

そうかもしれない。

文献表フェチ

2009-01-30 16:24:17 | 言語研究
何か用語集がほしいんだよなぁ。

これ丸ごと覚えたらいいですよ、っていうやつ。

まぁ、なかったら、後輩のみなさんのためにも、自分が作るっていう手もある。

丸覚えって好きなんですよね。


用語集とか、あと、すきなのが、文献表。

論文を読んでると、引用のたびに、文献表で確認して。

何年の、どこの学術雑誌、あるいはどこの書籍の、掲載論文かとか確認して。

満足する。

特に、それが入手可能だとわかると、すごく満足する。

論文ひとつひとつの内容よりも、論文同士の関係みたいのを把握して、満足しています。

そうしてると、よく引用される文献がわかってきて、だんだん、自分の中でマスト・リードな感じになってくる。

で、勢いにのって、その文献を手に入れると、それで大満足して、中身を読むのは、けっこう後回しになる。

表題とか見て、満足してる感じ。
あ、ここにあるよ、いつでも読めるよ、ウフフ

って。

いつでも、っていうのが、くせものですね

ムムッNow or never!

未完成がすき

2008-12-16 16:05:11 | 言語研究
修論を書いていて(もう数日で提出なんだけど)、やっと気がついたのが、

自分ひとりで完璧になる必要ない、ということだ。

たしかに、自分の世界というのは、それひとつで完結している。

それには、長所も短所もあるんだ。

自分には長所も短所もあるから、その自分が出すもの、作り出す作品にも、長所と短所があるだろう。

そういうのが、いっぱい集まって、つまり、一人ひとりがそういう、自分らしいものを生み出して、そういうものの集合が、学問を形成している。

だから、自分の欠点ばかり気にしてるより(それはあって当然なんだから)、自分の中の‘これはすき!’っていう点を、できるだけ出すことに専念するのがいいんだ。

あたりまえすぎるけど、気づくまでは大変。

実行するのは、大変。

だけど、やってみると、すごくたのしい。

そう、わたしは、たのしいのがすき。

学問は、おもしろいからやってるんだ。

そうやって、おもしろがってやってると、わたしの言うことをおもしろがってくれる人たちにもたまに会えたりして、そうやって人におもしろさを提供できたら(その面白さの正体は‘気づき’とか‘理解へのヒント’とかなんだけど)わたしのやってることに、何かしらの社会的な意味も生まれるんだ。

あ、出身大学の、ある先生も‘すべての公的な研究は社会的行為だ’ということをおっしゃってたし。(何年も前の資料を最近になって、部屋で、見つけた。)

今、タイトルを「未完成がすき」ってしたんだけど、それって、つねに発展途上っていうことなんだ。つねに動きがある、ということ。ダイナミックってこと。

で、ずっとそうは思ってたから、考えを形にすること=論文を書くこと、に抵抗があって‘I'm not ready....'っていつも思ってた。

けど、

形にしてもなお、それは、進化過程にあって、形をのこせば、時間とともに実は形あるものも変化していくかもしれない、ってこと。

を、やっと、納得している。

っていうのは、論文が、なんとか、それなりに形になってきた今思うことだけど。

あぁ、でも、9合目を半ばとせよ、なんで、あまりえらそうなことは言いません。

しつれいしました。

(すみません、メモです)

2008-12-09 14:19:25 | 言語研究
よしもとばななさんの、10月27日の日記。
(いちばん下の方です)

「人は実は肉体ではなく頭の中で寄り集まっている抽象的存在であるという考え方は、近年少し理解されてきたように思う。」

うぅmm。そう思ってたけど、そうじゃないと思ってるのがこの頃の自分です。(もちろん、これ[上のセリフ]は、ばななさんの要約だし、わたしが感じうるよりもっと深い意味があるかもしれないんだけど。)

つまり、最近(?)の一部の、ヴァーサス・チョムスキーな態度を、わたしも取っている、というか。いや、そういう人たちに乗じて、ということでなくて、わたしが取ってる態度がヴァーサス・チョムスキーで、周囲を見まわせば、そういう人たちがけっこういる、ってことで。

(注:チョムスキーは、言語を脳内言語と、表面に出ている言語に分けて、前者を重要視し、研究対象としました。で、わたしがやってる分野は、その時点で切り捨てられた[!?]表面に出ている部分=言語運用に焦点を当てています。で、文法というのは、そっち=表面に出ている部分なんじゃないか、と思ってるわけですが、たぶん、この感覚は、ソシュールが言った‘共時言語学’が大事だ、っていう感覚と似ているだろう、と思うわけです。まぁ、こう書いてみると、経験主義に振れたり、一方、脳内主義[?]に振れたりすることは、どっちも必要で、バランスが大事だってことなんだろうなぁ、とか思ったりするわけです。で、バランスを重要視するならば、どっちもよくわかってないといけないだろうなぁ。。脳のマップとか、好きくないんだよなぁ。。アハ

なんていうか、肉体は頭の中と直接つながっている、っていうか。

まぁ、脳の中に肉体の感覚器をマッピングできることを考えれば、当然なんですが。

で、頭を働かせていればなんとかなる、と思ってたのが、すこし前までの自分なんですが、それだけじゃ、どうも、どうも、うまくいかない・・・!

で、現象としてうまくいく・いかない、ってことは、すべての答えだと思ってるので(一見、うまくいっていない風でも、自分が心の中でこの先、うまくいくと信じられている時は、うまくいってるうちに入る)、やっぱり肉体を大事にしましょう、っていうこと、といいますか。

吉本さんも、自分のやってること(職業)が体に影響を与える、っていうようなことをおっしゃってたので、それで、ばななさんによると、吉本さんの足が快方に向かっているそうなので、たぶん、肉体の重要性には当然、気づいてらっしゃると思うんですが。

あぁ、ろんびゅん(=論文)を書いてる勢いで、ちょっとしたメモのつもりが、1000字をこえてしまった・・・。この1000字が、そのまま、論文に使えたらいいのになぁ

しんらい

2008-12-07 21:44:34 | 言語研究
今これを

言ってしまっては

自分の中身はなくなってしまうんではないか

という、おそれ。

こんな大事なこと

書いてしまっていいのだろうか

という、ためらい。

必要なのは

自信というより

勇気。

中に残るものがなくなるように思えるけど

実際、ことばにしてみれば

問題は

いくつもいくつも

あとからあとから

明らかになってくる。

奥はまだまだ底で

ほりすすんでも

ほりすすんでも

つきない。

信じるのは自分というか

世界だ。

発信と受信の差アゲイン

2008-12-07 18:56:27 | 言語研究
言われることと、自分のできることをうまく繋げない。

できないと思っていたら、‘ちゃんとできていた’と言われることがあるから、できないわけでもなさそうだ。(‘できない子だ’と思われてたら、注文をつけられることもないだろう。できないことを言ってくる・・・、と思うのは、十中八九、わたしのひがみ根性だ。)

頭の中と、目の前をもうすこし、なにかで、つなぐことができたら。

うちがわと、そとがわを、もうすこし、行き来しやすくすれば。


たぶん、以前よりは、だいぶ、通路ができてきてるとおもうのさ。

回路、って言ったほうが、通りがいいだろうか。


発信は、手で。

声で。視線で。

受信は、目かな、耳かな。

肌かな。

同時に、どちらもおこなう、はずの、感覚器/運動器たち。


どこで、往来が実現されているのだろう。


それがわかれば、どこで往来が停滞しているか、もわかる、はず。

あるいは、滞りを見つけることで、往来の実現メカニズムに近づいて(=アプローチして)みるか。


方法は、いくらでも、ある。

すくなくとも、複数では、ある。

聞き手にゆだねる

2008-12-05 21:13:43 | 言語研究
知識体系の形成過程というものを考える。

いや、常に過程にあるという前提で。

かつ、完成に向かっているという意志のもと。

知性というのは、動きにやどっていて、もちろん座っていろいろ考えるのも知ではあるけど、よりダイナミックに役立つ知、ひらたく言えば日常の知こそ知性だ、みたいな。

なんだろう、ひらたく言った途端に、自分の思ってることと違うものに理解される気がする。まぁ、それは受け入れなければ。

そもそも、言葉を与えられた概念は、概念そのものではありえないんだから。

その言葉をそれぞれに解釈されるのは、むしろいいことだと思う。

クリプケンシュタイン、的な。

いや、よく知らないけど。

いしいひさいちさんの漫画で知ったんだけど。

お兄ちゃんに借りたやつ。

クリプキがヴィトゲンシュタインを誤解して批判した内容が、誤解から生まれたんだけど、なかなか面白い思索だった、っていう。

あ、つまり、創造的誤解というか。

解釈は、つねに創造的、なはず。

あぁ、そう、ことばを理解する時に、そこに独自の解釈が加わらないはずはないんだ。

そういう聞き手の独自の解釈を狭めよう、狭めようとする話し手/書き手が(特に、アカデミックな場で)時々いるけど、それは、回避しようがない。

むしろ、そこにゆだねてみないか、っていうのが今の気持ち。

わたしもかなり創造的解釈の度合いが大きい方だから、そういうのってけっこうみんなにとっても面白いんじゃないか、と思って。

狭義にしようとすればするほど、魅力を削っていくような感じになる。

研究作業

2008-11-16 00:50:31 | 言語研究
急に、

いろんなことが報われない気がして、泣きたくなる。

報いなんて、何を求めていたんだろう?


現実世界は、明確な報いを得られるものの方が、よっぽど少ない。

(考え方を変えなくては。)



人のやさしさが身にしみる。