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喪失の歌に想うこと

2009-12-07 21:00:40 | 言語研究
Lamb - Zero


いま、毎日、論文執筆のために思考をするどくしてすごしている。

自分なりに。

休憩時間のリラックスに心がけているが、たぶん、総じて神経が高ぶっている状態だと思う。

こういう、気持ちが研ぎ澄まされてくる時期に、こういう曲に出会う。

息を呑む音楽体験。

You were everythingとくり返すボーカル。

I'd have done anything /Just to give you life life lifeと歌う力強いブリッジ。

歌詞は流産のことを歌っているようだ。

YouTubeのコメント欄でも歌詞の解釈について話題になってる。

子供を産むことはまだよくわからないのだが、私が歌詞を聴いて思い出したのは、去年の今頃のこと。

去年も、実は今取り組んでいるのと同じ論文を書こうとしていた。

だけど、うつ状態がひどくて、思考は整理されず、しぼりだして書き綴った言葉は、自分の研究分野外のことを語っていたりして、的を得なかった。

そのとき、自分がやってきた研究成果は、自分の力不足のせいで日の目を見ないかもしれない、と思った。

この研究・実験・実験結果・分析結果、この子たちのことが、しのびない。

そういう考えが浮かんで、泣いた。

うつだから、なんでも泣ける状態だったけど、研究のことに関しては、特にはげしく泣いた。

そして、結局、論文がポシャって、もう研究生活を続けられないかもしれなくなった。

その時、すごくつらくて、無気力な自分に何かしたい欲求が残っていると思わなかったのに、どうしても研究を続けたい、と叫びたくなった。

その時の、かなしさ。

英語のconcept(概念、アイディア)の動詞形conceiveは、「(概念を)思いつく」という意味のほかに、「(子を)孕(はら)む」という意味がある、と学部時代、アメリカ文学の時間に習った。

自分の思考・考え出したもの・創り出したもの・作品は、自分の子ども。

自分の血を分けたものであって、すでに別人格を持っている。

ジャック=デリダの言う、エクリチュール(書かれたもの)の生死というのは、こういう感覚と関係しているのだろうか。


喪失は回復のはじまり。

変化は時に死ぬほどつらい。

でも、その先は、絶対ある。

今ある自分で、いつも新しく始めることはできる。


うつくしくあれ

2009-12-05 15:59:05 | 言語研究
先週の自分の議題としては、‘論文の体裁をうつくしいものにしたい欲求がつよい。でも、自分が“うつくしい!”と思うためだけに、時間と力を使っていいのか。他に必要な部分があるのではないか。’ということでした。

その後、添削をお願いしていて返ってきた原稿に、私が書いた文章の構造と、それらをどう並べ換えれば論理が通るのか、を明示していただいて、その理路整然とした指導内容に、しばし目の前がキラキラ輝くような感覚におそわれたのですが。

‘すごい。うつくしい…!’と思いまして。

で、先週の議題への解決案。

自分がうつくしいと思う感覚に忠実にやっていくことで、論理的に整理され、人にも伝わりやすい論文になるようだ。

たぶん、今の状態は、まだケオス的草稿なので、うつくしくしよう、っていう方向性はただしい。


文章を書くとき(一次的創作)は、おもしろさ重視。

書いたものを編集するとき(二次的創作)は、うつくしさ重視。


これでいこう。

☆☆
おまけ

Feist(ファイスト)のハニー・ハニーという曲です。
PVが人形劇で、おかしくせつないショートストーリーになっています。
すごく気に入ったんだけど、埋め込みができないので、リンク貼ります。

Feist - Honey Honey

創造的批判

2009-11-26 01:11:57 | 言語研究
私の勘違いによるのかもしれないが、

人様の論文を読んでいて「・・・えっ、もうちょっと考えた方が」と思う場合が

時々ある。


人の作品の問題点を指摘するのはニガテなんだけど、

どうしても気になる、と思って自分の論文で書いてみる。


そうすると、最初は批判でしかなかったものが、

新しい見解の提示になってくる。


「この論文の、この点は、もうすこし考えた方がいい」

ということを書いていると、

「じゃあ、私が」という感じで、

気がついたら、自分が考えていて

批判っていうのは、

非生産的な活動でないことがわかる。


問題点を指摘すると、

自分も指摘されるんじゃないか、とか、

不穏な空気にならないか、とか、

そういうアカデミックでない心配をしていたけど、

(実際、学部生の頃は、授業中、紹介された理論にたいする疑問点を、発表したところ、先生に「あなたはわかっていない」と感情的に言われてしまったことがある。でも、こういう経験は、先生側でなく、こちら側が一般的に擁護されてしかるべき事例ならしいです。)

ぜんぜん違っていた。

批判は、前進のきっかけですね。

ほんとうに。

で、みんなで進んでいくんだし、って思います。

だれがただしいとかまちがってるとかじゃなくて。


まぁ、でも、ことば選びには、気を使いますが。

「えらい人」の取り乱すところを見るのは、好きではありません。

リブ?

2009-11-23 19:43:26 | 言語研究
私の研究させてもらってる分野は、伝統的に女性が多い。

なぜか、なんだけど。

このあいだ、1980年の論文を見てたときに、有名な、名字しか知らなかった学者の名前がメリルで、女の人だったんだ~、と思ってびっくりした。

今日さらにびっくりしたのが、1971年の論文で、さらに有名な言語学者の論文なんだけど、名前がビクトリアで、こんな時代から、女性研究者が活躍していたんだなぁ、と思って、感慨さえ覚えた。

今でも、ピンポイントで、研究室に女性の多い分野です。

隣接分野の言語獲得にかんして、「赤ちゃんの言語獲得研究に、女性が多いのは、母性との関係ですかね~」と言った男性教授がいたが、言語獲得にかぎらず、言語研究には多いんだ。

女性の方が言語脳が大きいという話に関係づけたくならないこともない。

To the extent which.... (・・・である範囲において)

2009-11-16 18:53:07 | 言語研究
ある範囲に限っての話をすることの、逃げと誠実さ。

やってることは同じでも、逃げの気持ちでやってるのと、誠意をもってやってるのでは、ちがうはずだ。

まぁ、それらの気持ちは、共存可能かもしれないけど。


なにかひとつのテーマを研究して論じるとき、自分ひとりで証明できることの少なさに気づく。

どこまで、一貫した話をするか。

主張を首尾一貫できる範囲っていうのは、限られてくるらしい。

でも、本当の真実を語っている場合は、議論の範囲はどこまでも拡張されていくような気がするんだ。

という理想主義の発想。

なかなか、割り切れない性格です。

自分の実験範囲で証明されたことを一般化する道筋をやっぱりちゃんと作りたいわけで。

若さゆえのごうまんか?

100年の引用

2009-11-03 12:26:39 | 言語研究
最近の論文ではあまりないことだけど、20年前くらいの論文を読んでると、かなりクラシカルな文献が引用されていて、今日読んでる1990年の論文には1915年発行の本からの引用があった。

こういう古い引用を読んで気づくことは、人の発想って100年たってもあんまかわんないな~ってことである。

いまは確立されてる理論が100年前よりはずいぶん増えてるので、「こうかも」って思ったらすぐに大体、その直観を肯定なり否定なりしてくれる文献に出会ったりするんだけど、その分、ひとつのこと言うにも先人の意見を、調べて読んで理解・解釈して、ってことが科学論文を書くにはかならず必要(たぶん)。

100年前の人はけっこう好き勝手に言えていいねぇ、と思うのと、でも自分にまとわりついてるもろもろの知識を一旦わすれてみたら、自分も100年前の人も思いつくことってかわんないな~、たぶん、人間の感覚的な直観(直感?)ってなかなかかわることないんじゃないかな~、って思う。

そう思うと、なんとなく人間存在がかわいらしく思えて、きもちがほっこりする。

100年前の学者も、いまの研究者のたまごも、ひとしくかわいらしい存在。


おまけ:
最近、人ってチョーかわいいね、と思ったのは、小林聡美さんのホームページ、小林聡美.jpに、「タイの人は一生に一度でいいから雪を見てみたいって思ってる」って書いてあったこと。

それは小林さんとフィンランドにすむ日本人のかたの文通メールのコーナーなんだけど、いっぽう「フィンランドの人はバカンスに南国に行くと、日光がうれしくて、紫外線対策せずに真っ赤に日焼けして、見てると痛そうなんだけど、本人たちはいたって日焼けがうれしそう」っていうのも書いてあった。

光るものがある。

2009-07-11 00:46:34 | 言語研究
ほとんどが言われてきたことのくり返し。

あたり前のことを毎回なぞる。

あたり前のことでも、けっこう忘れたり忘れられたりしてるから。

たぶん、よい研究って、なにかひとつ輝くエッセンスが入ってるものだと思う。

わたしはそう感じる。

目新しいのがいいってわけじゃないんだ。


むかし、母が「美人って、顔の造作っていうより、美のエッセンスがかかってる人よねぇ」みたいなことを言っていた。

研究もそうなんじゃないかと思って。

叡智のエッセンスをふりかけて☆

稚拙さとの闘い、は止めにして。

2009-07-09 19:28:53 | 言語研究
稚拙さとは闘いたくなるものだ。

いつも、自分が子供じみてるんじゃないか、とか、こんなこと言ったらアホに聞こえるんじゃないか、とか心配してきた。

最近は、腹括って、だいぶ言うようになったけど。

勘違いかもしれないし、場違いかもしれないけど、そうであっても気がついたことは大事だと思って。

大事にしようと思って。

考えてみれば、人のことってみんなそんなに気にしてないわけで。

場違いな発言をしたら、救ってくれる人こそいても、そこにつけいって傷つけようとするような人はいなくて。

まぁ、それは環境に恵まれてるってことみたいだけど。

(いやぁ、ほんとに、先生も先輩も善意の塊みたいな人ばっかなんですね。それで逆に、そういう善意に十分に応えられてない自分が情けなくなってつらかった日々もあったんですけど。)

まぁ、気がついたことのひとつに‘テクニックだけ磨いてもどうしようもない’というのがありまして。

形より先にくるものって絶対あって。

それはなにかアイディアだったり、発見だったり、信念だったり、熱意だったりすると思うんだけど。

それがなかったら、いくら話上手でもプレゼン上手でも仕方ない。

自分のことはよくわかんないけど、人見てたらけっこうわかりますね。

まぁ、熱意のある人はプレゼンも上手かったりするんですけど(笑)。

まぁ、そんなことで、こんな口下手で緊張しぃのわたしに一定の評価をくださってる先生方は、なにか別の部分を見てくださってると信じて、自分の興味を貫いていこうと思ってます。

最近は、決意めいた内容が多くなってますね。

ここ2、3日は夏バテ気味なんですが(あぁ、残念っ)、気持ちを盛り立てていこうと思ってます。

自分が何をやっているのか知る。

2009-07-07 20:05:40 | 言語研究
自分が何をやっているのか知ることが、大事だなぁと思う。

もちろん、子供の頃はそんなことわからずに生きてたんだけど。

なんだろ、意識を持つ、っていう常套句の意味を知る感じ。

そういうのって、人から言われて、わかるようになることでもなくて。

どうやってわかるようになったかと言ったら、失敗を重ねて、わかるようになった気がしてる。

まぁ、どこまでわかってるのか、自分でもはなはだ心許ないものだけど。

まぁ、なんにしても、勉強にしても日々の生活でも、自分の行動と結果をそれなりに納得して生きていられれば、不安も減るしたのしくなりますねぇ。

最近はそう思ってます。