摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

備前一宮 吉備津彦神社(岡山市北区一宮)~吉備の中山の東に鎮座する、日本最大の燈籠を誇る一宮

2024年07月13日 | 山陽

[ きびつひこじんじゃ ]

 

吉備津神社と共に吉備の中山を背後にしている神社で、こちらは東麓に鎮座しています。地域では吉備津神社と共に両参りする事が推奨されているようで、当社もしっかりと参拝させていただきました。吉備津神社が全国的に有名な社殿や境内、エピソードに溢れているので、こちらはどうなのかしらと思いましたが、相当に豪壮な社殿群や日本一大きいという燈籠などがゆとりある境内に広がり、多くの参拝者で賑わっていました。

 

向かって左の神池と亀島

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は大吉備津日子命で、基本は吉備津神社と同じです。ご由緒が同じ「吉備津彦命の鬼退治」で、その由緒地が吉備の中山であり、大吉備津彦命の住居跡が神社になったという話も同じなので、かつての備前、備中の国境にあった吉備の中山の西が吉備津神社となり、東が当社となったと考えられます。当社では相殿として、若建吉備津日子命を始め、お父様の孝霊天皇から第10第の崇神天皇までの天皇や、彦刺肩別命や大倭迹々日百襲比賣命ら兄弟などの多くの神々が祀られています。

 

随神門と巨大な燈籠

 

当社も吉備津神社同様、いつ頃、どのようにして創建されたのかは明らかでない、と「日本の神々 山陽」で竹林栄一氏が書かれています。しかし当社の旧記などにより、平安時代には備前一の宮として歴代の国司の崇敬を受けていて、備前国内では第一の神社だったと考えられています。ただ、「延喜式」神名帳にはその名は見えません。

 

拝殿

 

当社は「朝日の宮」とも称され、夏至の日に太陽が正面鳥居の真正面から昇り、社殿の御鏡に入ります。これは古代太陽信仰であり豊穣の発展と幸運を祈る神社として当社が創建された事を象徴しているとされています。

 

拝殿、祭文殿、本殿。渡殿は見えていません

 

【祭祀氏族】

当社の神職は大藤内と呼ばれる大守氏によって世襲されました。大守氏は、田使首から出た備前の豪族である難波氏で、藤原姓を名乗り、藤原隆盛のとき高倉天皇に仕えて大内舎人になったことから、大藤内になったとされます。平安時代末期の源平合戦の際には平氏についた事から、平氏が滅びると捕えられ鎌倉に送られました。しかし、源頼朝の重臣工藤祐経に頼んで頼朝に謝罪し、社領を回復したのです。大藤内はこの帰途、祐経の仮館に立ち寄り、あの「曾我物語」で知られる曾我兄弟の夜討ちに遭遇して祐経とともに殺害されてしまいました。しかし、子孫はその後も社家頭(筆頭の神職)を世襲して明治時代まで続くことになります。

 

祭文殿(左)と渡殿

 

【中世以降歴史】

中世には備前守護の赤松氏の崇敬をうけるなど、その地位は保たれたようです。永禄年間(1558~1570年)には、日蓮宗を信仰した松田氏に逆らって社殿を焼かれたこともあったものの、1601年に備前国主小早川秀秋によって再興されています。小早川氏に代わった池田氏も社領を与えて保護し、特に1677年池田氏の祖先池田信輝の霊(輝武命)と輝政の霊(火星照命)を本殿の相殿に祀り、この二神のために社領を寄進されてからは、当社は池田氏の祖廟としての性格を強めたのです。1697年には備前藩主池田綱政が社殿を改築しています。しかし、昭和5年に本殿、随神門、宝物殿を残して社殿は焼失。現在の拝殿などは昭和11年に建て替えられたものです。

 

本殿

 

【所蔵の古文書に載る「御釜屋」】

当社には池田氏から奉納されたものも含む多くの社宝や古文書類が伝えられますが、なかでも「備前一宮御神事之絵巻物」一巻と、「一宮社法」一巻が注目されると、先の竹林氏が紹介されています。「神事之絵巻物」は文明頃(15世紀後半)の成立と考えられるもので、当時の御田植祭、秋祭などの様子を描いたものです。このうち、御田植祭と秋祭の流鏑馬神事は今も続いています。一方、「一宮社法」は備前一の宮と国内村々の神社の祭の仕方を記したもので、康永元年(1342年)の銘があります。竹林氏はそれらの中に、三間五間の「御釜屋」があり、「炊女(アソメ)二人」が奉仕している記載が有って興味を引くと書かれています。もちろん、備中の吉備津神社の「鳴釜神事」を思い起こさせるからです。

 

子安神社

 

吉備津神社の記事で記載しましたように、吉備津神社の方の鳴釜神事の釜は阿曾の鋳物師が奉納し、奉仕する巫女も「阿曾女(アゾメ)」と呼ばれます。対して「一宮社法」の記述によると、阿曾の鋳物師から備前一宮である吉備津彦神社へ。「たゝら役」「かまやく」などの名目で各種の鋳物が奉納されていて、その代償として備前国内での鋳物の販売が許されていたことが分かるというのです。「一宮社法」にみえる「御釜屋」「炊女」の記事は、吉備津神社の鳴釜神事にみられる神社と阿曾鋳物師との関係が、中世には当社にもあったことを偲ばせて興味深いと、竹林氏はまとめられています。

 

稲荷神社

 

【祭祀・神事】

当社の例祭は10月23日の秋祭大祭で、古式のよる流鏑馬神事があります。そのほか特殊神事として、8月2~3日にかけて行う御田植祭があります。「神事之絵巻物」からも中世には盛大に行われていたとされる神事です。現在は、御斗代神事と御幡神事の二つの神事で構成されています。

 

左から(社家の)祖霊社、牛馬神社、十柱神社(吉備海部直も祀られます)

 

御斗代神事は8月2日夜に、境内前の左右の神池の中にそれぞれ設けられる「御棚」とよばれる斎場で営まれます。まず本殿で神饌を供し、祝詞を奏上、田舞を奉納(昭和5年以降追加された)して神迎えの神事を行ったあと、神前に供えられた六束の「御苗」を二台の御羽車に三束づつ移され、神池の御棚に運ばれます。この苗は氏子のうち、世襲の家で育てられて奉納されたものです。神官は運ばれた御苗のうち三本を、神田にみたてた神池に植え、祝詞を奏して神事は終わります。

 

温羅神社

 

御幡神事は御幡献納祭ともよばれ、8月3日の午後に行われます。御幡は1本の笹竹に二本の横竹を結び、その端をシュロ縄で張って扇子、紙垂をつけ、横竹に木綿布を垂らしたものです。本殿祭ののち、境内の参集所に集合した御幡が行列を整えて正面向かって左の神池を巡り、表参道から随神門、拝殿へと進みます。先頭の御幡が随神門に着くと、参詣者たちは行列の御幡につけられた扇子を奪い合います。これを持ち帰って田に立てると豊作が約束されると信仰されてきたものです。

 

大燈籠。1859年に寄付で建立されたもの

 

(参考文献:吉備津彦神社公式HP、境内説明掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 山陽」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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