摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

美保神社(松江市美保関町)~青柴垣神事や諸田船神事の始まりの伝承~

2020年05月30日 | 出雲

 

文期の頃まではまだ完全な島だったという島根半島の東端、美保湾の奥の方に鎮座する、現在では青柴垣神事や諸田船神事で有名な神社です。「出雲国風土記」には既にその地名は見えていて、”美保浜。広さ一百六十歩。西に神の社あり”と、当社と思しき記載があり、神社列記の条にも在神祀官社の一つとして、”美保社”と記されています。「延喜式」神名帳にも”美保神社と記されていますが、神階を与えられる事はなかったようで、大きな神社ではなかったと考えられています。

 

・神社前の小さな漁港

・一の鳥居

 

【中世以降歴史】

中世になり、後醍醐天皇隠岐配流の経過を記す「太平記」に"見尾”や”三尾”の表記でこの地に留まった事が記載されるほど、停泊必須の地に発展しました。室町時代になると守護大名ないし戦国大名が勘過舟役料を徴収する関となり、美保関となっていきます。近世でもそれは変わらず、松江藩が御番所を置き、遠方からの船舶にのみ帆一反につき銭十五文を徴集していました。

 

・手水舎から階段で上がり、少し左に折れます

 

中世の書物には当社の名は現れませんが、ようやく戦国時代の書物に、”三保明神の社”とか”三保関の明神”などと記されます。ただ、この当時の戦乱で社殿や文書がことごとく焼けてしまうのです。しかし、朝鮮の役に出陣した吉川広家がたまたまこの国の太守となり、戦地における武運長久を祈願する為に社殿を再建、一躍その面目を一新できました。

 

・神門

・その注連縄

 

【恵比須神信仰】

さらに江戸時代、海上交通の要衝として重要視されることと相俟って、藩主の崇敬も高まり、それに伴い一般民衆の信仰も高まります。それは、たまたま祭神の事代主命が恵比須神の名のもとに福神として知られるようになったことから、恵比須神の本宮と認知されていったのです。明治時代になり、最初は郷社に列せられましたが、ほどなく県社に、そして明治18年には国幣中社に昇格。官幣大社の雲大社、国幣大社の熊野神社(現熊野大社)に続く出雲第三の神社となったのです。宮司は代々横山氏が務めている事が知られています。

 

・ギリシャ神殿のような拝殿

 

【二座のご祭神の変遷】

谷川健一編「日本の神々 山陰」で石塚尊俊氏が問題にされているのが、現在の事代主命と美保津姫の二座のご祭神です。「出雲国風土記」には、”天の下造らしし大神の命、(中略)奴奈川比売命を娶りて生みませる神、御穂須々美命、この神います。故、美保と云う”と記されており、現在の事代主命と三保津姫と異なるからです。石塚氏は、風土記の頃は御穂須々美命のみを祀り、それは「延喜式」の時代も同様だったが、中世のいつごろからか、記紀神話の知識が普及して国譲りの話に登場する美保津姫と事代主命に祭神が変わり、やがて事代主命の序列が先になっていったのだろうと考えざるを得ない、と結論付けられています。

 

・本殿を裏側から

 

【青柴垣神事と諸田船神事】

今や出雲の名物イベントとも言いたい神事、4月7日の青柴垣神事と、12月3日の諸田船神事です。それぞれ今は起源が神話によって説明され、青柴垣神事は、主祭神事代主命が国譲りにあたって自ら船を踏み傾け、天の逆手を青柴垣に打ち成して隠れました、というくだりを再現し、また諸田船神事は、その前に大己貴命がこの地へ熊野の諸田船をもって使者を差し向けられたという故事にちなむものとされています。石塚氏は、近世に加わったに違いない外見的な華やかさが有り、複雑な要素が重層しており、おそらく根底には、我が民衆が古来持ち続けた、魂ふり、魂しずめ、生まれ清まりといった信仰があるに違いない、と記されていました。

 

・広々とした拝殿を横から

 

【社殿と奉納品】

本殿は大社造の二殿の間を「装束の間」でつないだ特殊な形式で、美保造または比翼大社造りと呼ばれるもの。1813年の再建で国の重要文化財になっています。一方、拝殿は船庫を模した独特な造りで壁が無く、梁がむき出しの上、天井が無いのが特徴で、優れた音響効果が有るそうです。古来よりご祭神は鳴り物がお好きとされており、数多くの楽器も奉納され、その内846点が重要有形民俗文化財になっています。

(参考文献:美保神社パンフレット、谷川健一氏編「日本の神々山陰」)

 

・美保関

 

 

【伝承】

東出雲王国伝承によると、確かにこの地には御穂須々美命がいて現在の小さな市恵比須社を祀ったそうです。そしてだいぶ時代が後になって、旧東出雲王家の富氏(向氏)が美保神社を創建しました。本殿に二つある妻入の屋根の千木は、縦削ぎと横削ぎで形が変えられています。「出雲と蘇我王国」で斉木雲州氏は、これは男女の別ではなく、それぞれイズモ式と九州式だと云います。旧富王家の神魂の宮殿を戦勝の結果接収した秋上氏が、神魂神社として祀ってくれた事に感する気持ちを表現したそうです。これからは恩讐を超えて協力ていこう、との意思表示だったとの事。そして、事代主命と、御穂須々命の名前を美保津姫に変えて二神を祀った、と書かれています。創建時期について3世紀と4世紀の違う記載が有るのですが、3世紀後半から4世紀前半なんだろうと理解してます。。。

 

・沖の御前島。美保神社の飛地境内地で、ご祭神である事代主神が魚釣りをされたところとされます

 

「出雲と蘇我王国」に、1702年、当時美保神社を管理していた横山内祀から、神主の向(富)氏に送った口上書が掲載されていす。写本の写真も有ります。これは出雲大社や神魂神社の神事が盛んなのを、美保神社の氏子がうらやましく思い、外部行事の参加を許可してほしいと求めたものです。これをきっかけに、美保神社の神事を盛んにする事を考え、青柴垣神事と諸田船神事を儀式化した、との興味深い話が述べられていました

 

・大山


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