日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2015-11-09 18:33:36 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(335)

4.近代の教会の夜明け―宗教改革とその後―

 しかもそのような変革は個人の信仰の生活だけでなく、広く社会全体にも新しい社会形態を生み出さずにはすまなくなってくる。広く社会倫理道徳にも変化が現れて、その結果がともなった。祝福のある生活が人間の功績ある生活

によらないで、信仰によるとなると、たとえば、修道院の生活行為そのもの、聖職者の独身制、特定の寺院への巡礼の制度、その中でも贖宥券(免罪符)の販売などはすべてその論拠を失うことになる。ほど得ずしてチュリッヒ市内の修

道院は閉鎖され、寺院巡礼の廃止、聖職者達も結婚に踏み切り、ツヴィングリ自身もその一人であった。

  このような衝撃波の表れが、翌年(ここまで前回)1524年早々には、旧信仰に固執する者たちは市参事会員の職から追われ、チュリッヒは共同体全体としても福音主義支持の姿勢を明らかにした。同じ年の六月には聖画像が、市

内のすべての教会から撤去された。中世壱千数百年にわたって、文字を解することの出来ない一般信徒のために、信仰の手引きの役割を果たしてきた聖母マリアをはじめ、諸聖人の画像、聖遺物、またそれらを主題とするステンドグ

ラスなどはすべて姿を消した。今日的には考え難いことであるが、その当時の豪勢で派手なものとして見らながらも、ごく一般的であったオルガン演奏も禁じられた。音声での詩編歌を歌うのが主流となった。さらに諸聖人の祝祭日など

何百年にも渡ってカトリックの信徒の日常生活の習慣も一切停止された。~(つづく)


聖書研究

2015-11-09 18:30:19 | 大分中央ウィークリー

創世記21章33節である。「アブラハムは、ベエル・シェバに一本のきょうりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ。」という。ここにわざわざ「一本のきょうりゅうの木を植え」とある。何か意味があったのであろう。しかし今日までそれに関する他に資料がない。残念ながら、正確な意味が不明である。しかしここ状況から判断して、契約のための主への信仰の証として自分の家の者達がいつまでも覚えるための記念の植樹かもしれない。つまりベエル・シェバの名と意識的に関連させて植樹をもう一つの証としたようである。

 「永遠の神、主の名を呼んだ。」という「永遠の神」の呼び名は初めて登場する。ヘブライ語における「永遠(オーラーム)」は、「時間がない」という概念であり、限りない時間の長さをいう。われわれの時間感覚と平行も対立もしない。従って永遠の「今」である。この場合は、今、契約の保証をするという力強い神の働きをいう。 

34節である。「アブラハムは、長い間、ペリシテの国に寄留した。」という。ここの「長い間」はどれぐらいの期間であったのかは不明である。つづくイサク奉献の物語では、19節に、「アブラハムはベエル・シェバに住んだ」とあるのと、そのときのイサクは嬰児ではなく、少年であり、立派に成長した様子がうかがえるところから、それ相当に長く住んでいたことが伺える。しかしそれはあくまでも「寄留」であって、永住ではない。 

それにしても歴史は冷酷である。アブラハムがこのとき親しくしていた「ペリシテの国」は、やがて、イスラエルのダビデに頑強に敵対して苦しめることになった。この時を紀元前18世紀とすると、ダビデの時代まで800年経過したことになる。


牧 会 通 信

2015-11-09 18:21:25 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第11歌(カッコ内は筆子、その8)

◯「おお、濁つたあらゆる視力を癒す太陽よ、あなたが解決するときわたしは実に嬉しいので、知ることに劣らず疑ふことがわたしには喜ばしいのです。

すこし前に話を戻していただきますと、」とわたしは言つた、「高利は神の真意に叛くと言はれましたが、この縺(もつ)れを解いて下さい。」

「息子よ、」と師は答へた、「哲学はそれを理解するものに、いくつもの箇所で示してゐる、自然は神の英知と技術から

 (ここまで前回)

◯学び模(ま)ねてゐることを。 そなたの物理学によく注意するならば、あまり後でない頁に見出すだらう、生徒が師に従ふやうに、

そなたたちの技術は出来るかぎり自然に従ふといふ言葉を、だからそなたたちの技術はいはば神にたいする孫なのだ。

創世記を最初から思ひ返してほしいが、この自然と自身の技術によつて、そなたたちは命の糧を得、前進しなければならぬ。(つづく)

 

◯2015年11月8日は、今年の第四十五主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「主への感謝」という主題である。聖書は詩編52編1~11節、その11節「あなたが計らってくださいますから、とこしえに、感謝をささげます。」という。

この世界の出来事はみな神の御心によっている。わたしたちの方からは、ただこのお方に感謝あるのみ。しかし感謝をささげるべきこのお方を、ほとんどの人々は知らない。それでよいのか。

 

◯写真は11月4日(水) 4時45分に平野智恵子さんが逝去され、5日午後1時に四恩の杜(もり)挟間斎場において葬儀が執行された。(写真は、納棺後)。