『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読 - YouTube - 01
他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、
「この想念は誰に起こったのだろうか?」
と尋ねるべきである。
どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
想念が起こるたびに
「この想念は誰に起こってきたのか?」
と入念に探究すべきである。
それに対して現われる答えは
「私に」だろう。
そこですぐに
「私は誰か?」
と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。
このように修練を繰り返せば、
心は源にとどまることに熟達するだろう。
前の内容:
トータルフリーダム (完全な自由) - 夢から目覚める - 04
(2014-10-24 19:25:44 | 実践 (Practice))
10、どうすれば心は静かになるのでしょうか?
「私は誰か?」
と尋ねることによってである。
「私は誰か?」
という想念は他のすべての想念を破壊するだろう。
そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには
「私は誰か?」
という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。
そのとき真我は実現されるだろう。
11.「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?
他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、
「この想念は誰に起こったのだろうか?」
と尋ねるべきである。
どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
想念が起こるたびに
「この想念は誰に起こってきたのか?」
と入念に探究すべきである。
それに対して現われる答えは
「私に」だろう。
そこですぐに
「私は誰か?」
と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。
このように修練を繰り返せば、
心は源にとどまることに熟達するだろう。
微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると
粗大な名前や形が現われる。
心がハートの中にとどまっていれば
名前と形は消え去る。
心を外に出さずにハートの中にとどめておくことは
「内にあること」(アンタール・ムカ)
と呼ばれる。
心をハートから外へ出させることは
「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)
として知られる。
このように、心がハートの中にとどまっているとき
すべての想念の源である「私」は消え去り
永遠に存在する真我が輝き出す。
人は何をするときにも
「私」という自我性なしにそれをすべきである。
もしそのように行動すれば、
すべてはシヴァ神の本性として現われるだろう。
12.心を静かにする他の方法はないのでしょうか?
探究以外に適切な方法はない。
他の方法で静めても、心は制御されたように見えるだけで
再び勢いを増して現われるだろう。
呼吸の制御によっても心は静められるが、
それは呼吸が制御されている間のことだけであり、
呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、
潜在する印象に駆り立てられて さまよい出すだろう。
心も呼吸も、その源は同じである。
想念とは、実は心の本性である。
「私」という想念が心の最初の想念であり
それが自我性である。
自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。
そのため、
心が静かになれば呼吸も制御され
呼吸が制御されれば心も制御される。
けれども深い眠りの中では、
心は静かでありながら呼吸は止まっていない。
これは、身体が維持されるように
そして死んでしまったと他の人々が思わないようにとの神の意思によるものである。
目覚めの状態とサマーディにあっては
心が静まっていれば呼吸は制御されている。
呼吸は心の粗大な姿である。
死の時までは、心は身体の中に呼吸を保っている。
身体が死ぬと、心は呼吸と共に出て行く。
それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けに過ぎず
心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。
神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も
心を静める助けに過ぎない。
神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通じて
心は一点に集中される。
心は常にさまよい続けるだろう。
鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、
心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。
心が無数の想念へと拡散しているとき、
そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。
だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。
そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。
すべての規則制限の中でも
適度な量の清らかな(サートヴィック)な食事を摂るという方法が
最上のものである。
これを守ることによって、心の清らかさは増し、
真我探究の助けとなるだろう。
13.心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現われてきます。
いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?
真我への瞑想が高まれば高まるほど、
それらの想念は破壊されるだろう。
14.数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?
可能か、可能でないかという疑問に屈することなく
真我への瞑想を続けるべきである。
たとえ、人が大罪人であるとしても、
「ああ、私は大罪人だ。どうすれば救われるのだろう?」
と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。
「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、
真我への瞑想に強烈に集中するべきである。
そうすれば、確実にうまくいくだろう。
ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。
心はただひとつだ。
幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく
心に刻まれる印象である。
心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ
不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人々に関することへさまよい出ぬよう
戒められなければならない。
他の人がどれほど悪くとも、
彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。
欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。
人が他の人々に与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。
もしこれらの真理が理解されるなら、人々に施しをしないでいられようか。
自己が現われると、すべてが立ち現われ
自己が静まれば、すべては静まる。
謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現われるだろう。
心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。
15.探究はどのくらいの期間 修練されるべきでしょうか?
心の中にものごとの印象がある限り、
「私は誰か?」
と尋ねなければならない。
想念が起こったなら、
そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって
破壊されるべきである。
もし真我に到達されるまで、不断の真我の黙想に打ち込めば
それだけで想念は消滅するだろう。
要塞の中に敵がいる限り、敵は反撃を続けるだろう。
もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば
要塞は我々の手中に落ちるだろう。
1936年1月26日の対話より
▶ ラマナ・マハルシ:「私は誰か」直接法。心・自我は存在しない - YouTube
ラマナ・マハルシ:「私は誰か」直接法。心・自我は存在しない
2013/08/16 に公開
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読。以下、私からメモと注意。
dialogs with Sri Ramana Maharshi from "Talks"
artmnet0によるメモ:
1936年5月19日の対話より
▶ ラマナ・マハルシ:どのヨーガが最高に浄化できる?あなたも私も存在したことはなかったの意味 - YouTube
ラマナ・マハルシ:どのヨーガが最高に浄化できる?あなたも私も存在したことはなかったの意味
2013/08/16 に公開
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読。以下、私からメモと注意。
dialogs with Sri Ramana Maharshi from "Talks"
artmnet0によるメモ:
1936年6月9日の対話より
▶ ラマナ・マハルシ:想念の根源 - YouTube
ラマナ・マハルシ:想念の根源
2013/08/16 に公開
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読。以下、私からメモと注意。
dialogs with Sri Ramana Maharshi from "Talks"
artmnet0によるメモ:
-----
01:57
「私」という想念が、すべての想念の根源なのです。
もしこの根を抜き取れば、他のすべての想念も根こそぎにされるでしょう。
だからこそ、根である「私」を見いだしなさい。
「私は誰か?」と、問いなさい。その源を見つけなさい。
そうすれが、他のすべての想念は消滅し、純粋な神我だけが残るでしょう。
-----
03:24
いつわりの私を消しさる必要などないのです。
どうして、私がそれ自身を消去できるというのでしょう。
あなたがするべきすべてとは、その源を見いだして、
そこに、留まることだけです。
あなたが、努力によって到達できるのは、そこまでです。
その後は、彼方なるものに身を任せるだけです。
-----
04:30
いつわりの私が、障害です。
真実の私が、隠されないように、
いつわりの私は、取り除かれなければなりません。
私は実現していない。という思いが、実現への障害なのです。
実際は、それはすでに、実現されています。
それ以上、実現されるべきものなど何もないのです。
-----
1936年6月17日の対話より
▶ ラマナ・マハルシ:自我を滅ぼせ、真の愛とは - YouTube
ラマナ・マハルシ:自我を滅ぼせ、真の愛とは
2013/08/16 に公開
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読。以下、私からメモと注意。
dialogs with Sri Ramana Maharshi from "Talks"
artmnet0によるメモ:
1936年11月30日の対話より
▶ ラマナ・マハルシ:なぜ真理を聞いても悟らないのか - YouTube
ラマナ・マハルシ:なぜ真理を聞いても悟らないのか
2013/08/30 に公開
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読。以下、私からメモと注意。
dialogs with Sri Ramana Maharshi from "Talks"
artmnet0によるメモ:
1937年1月13日の対話より
▶ ラマナ・マハルシ:心は存在しない。静め方 - YouTube
ラマナ・マハルシ:心は存在しない。静め方
2013/09/06 に公開
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読。以下、私からメモと注意。
dialogs with Sri Ramana Maharshi from "Talks"
artmnet0によるメモ:
ホワイト・イーグル White Eagle の霊示 - アセンションへの道程 ~ある外科医のスピリチュアル~
放棄とは何か ~ その本当の意味
苦痛、そして災厄――それはしばしば訪れます。それは明らかに魂がしてはいけないことに執着するからです。しかし、この教訓を学び終えると、つまりすっぱり棄てる気になると、そこに新しいチャンスが来ます。大きな祝福が現れます。
みなさんはこう尋ねられる。「世間や人間関係を棄てよとおっしゃっても、どちらも人生には必要なものです。どうすればいいのですか」と。
兄弟・姉妹、息子・娘、父と母、 この人間関係が不要なら、神は創造なさらなかったでしょう。だから人間関係は必要なのです。これがあるがゆえに、人は人間感情を通しての経験から学び、身につけます。しかし、大事なことは、人はパーソナリティ(地上生活の個我――小我)にとらわれてはいけないのです。個人的な人間関係、俗世間的な所有、立場、欲求などの奴隷になってはいけないのです。
「世を捨てる」とは、世間から引っ込んでしまうことではなく、人はすべてを放棄しても、ちゃんと人間関係を続けていきます。しかし、その内部は自由となります。なぜなら、もはや心の奥底では何も望まないからです。ただ聖なる光に近づきたい、その聖なる光と一体になりたいという願望以外に何もなくなります。俗世間的な低級我、願望、野望、それらの放棄です。
神の国を開く鍵は心臓にある
それでは次の段階に目を向けることにしましょう。それはキリスト(神霊)の愛で燃える心臓で象徴されます。皆さんが瞑想を続けていると、次第に光線を出している光として、心臓を意識するようになるでしょう。心臓チャクラは太陽のようなものです。それはまさに「あなた」という太陽系の太陽です。
未来の人類は心臓でものを考えるようになるでしょう。現在では、人々は脳の心で考えております。この頭脳の心が非常に発達したので、心臓の中の光をほとんど消しています。しかし、新時代の人々は心臓の中に住む神の心からものを考えるようになるでしょう。
すでに直覚で対応している人たちにはそれが始まっています。彼らは頭脳の心を制御できるので、それが静止状態になっているのです。もしあなたが静止状態で心臓にしゃべらせるようにすれば、自分の欲する結果が得られることがおわかりになります。ただし、それは〈感じ〉という形で、直観でやってきます。
古代の聖同胞団で問題とされた秘密の一つは、神の王国を開く鍵の所在でした。その鍵はどこにあるのか? その回答はこうです。「その鍵は心臓にあり」。
本当の愛とは?
愛のこの道には、なお幾多の落とし穴や惑わしがあります。感情というものは、しばしば愛で迷うものです。感情には感情の居場所があります。感情は愛ではありません。居場所を間違えた愛――それが人への奉仕の目をふさいでしまいます。すなわち、他者に愚かな与え方をして、その欲望を満たさせ、それが間接的に自己の欲を満足させるのです。
その実例を盲愛の母親に見ます。
彼女は子供が要求するものを何でも与えます。それが愛だと思って――。その結果はどうでしょう。子供は幸福になり、成長する機会から全く縁遠い者となります。母親が子供からすべての自己表現と発展のチャンスを奪い取るのです。
賢い母親は何でも気前よく買い与えません。それは冷たいとか、つれない母親というのではありません。むしろ、母親の愛が大きくて、母親は子供が経験を積むのに必要なものをハッキリ見ているのです。子供が自分で物事を決めるようにしつけがなされるのです。
子供を喜ばせよ、慰めよ。それはその通りです。しかし、強くしてあげなさい。自分で物事を決めるようにさせなさい。経験を身につけるようにしてあげなさい。甘い物の与えすぎが子供を病気にします。むやみに人の欲望を満足させ、それが愛だと思って望む物を何でも与えれば、意地悪の攻撃をしているのと同じことです。人を傷つけています。
続きます。
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読 - YouTube - 02
他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、
「この想念は誰に起こったのだろうか?」
と尋ねるべきである。
どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
想念が起こるたびに
「この想念は誰に起こってきたのか?」
と入念に探究すべきである。
それに対して現われる答えは
「私に」だろう。
そこですぐに
「私は誰か?」
と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。
このように修練を繰り返せば、
心は源にとどまることに熟達するだろう。
前の内容:
トータルフリーダム (完全な自由) - 夢から目覚める - 04
(2014-10-24 19:25:44 | 実践 (Practice))
10、どうすれば心は静かになるのでしょうか?
「私は誰か?」
と尋ねることによってである。
「私は誰か?」
という想念は他のすべての想念を破壊するだろう。
そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには
「私は誰か?」
という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。
そのとき真我は実現されるだろう。
11.「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?
他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、
「この想念は誰に起こったのだろうか?」
と尋ねるべきである。
どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
想念が起こるたびに
「この想念は誰に起こってきたのか?」
と入念に探究すべきである。
それに対して現われる答えは
「私に」だろう。
そこですぐに
「私は誰か?」
と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。
このように修練を繰り返せば、
心は源にとどまることに熟達するだろう。
微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると
粗大な名前や形が現われる。
心がハートの中にとどまっていれば
名前と形は消え去る。
心を外に出さずにハートの中にとどめておくことは
「内にあること」(アンタール・ムカ)
と呼ばれる。
心をハートから外へ出させることは
「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)
として知られる。
このように、心がハートの中にとどまっているとき
すべての想念の源である「私」は消え去り
永遠に存在する真我が輝き出す。
人は何をするときにも
「私」という自我性なしにそれをすべきである。
もしそのように行動すれば、
すべてはシヴァ神の本性として現われるだろう。
12.心を静かにする他の方法はないのでしょうか?
探究以外に適切な方法はない。
他の方法で静めても、心は制御されたように見えるだけで
再び勢いを増して現われるだろう。
呼吸の制御によっても心は静められるが、
それは呼吸が制御されている間のことだけであり、
呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、
潜在する印象に駆り立てられて さまよい出すだろう。
心も呼吸も、その源は同じである。
想念とは、実は心の本性である。
「私」という想念が心の最初の想念であり
それが自我性である。
自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。
そのため、
心が静かになれば呼吸も制御され
呼吸が制御されれば心も制御される。
けれども深い眠りの中では、
心は静かでありながら呼吸は止まっていない。
これは、身体が維持されるように
そして死んでしまったと他の人々が思わないようにとの神の意思によるものである。
目覚めの状態とサマーディにあっては
心が静まっていれば呼吸は制御されている。
呼吸は心の粗大な姿である。
死の時までは、心は身体の中に呼吸を保っている。
身体が死ぬと、心は呼吸と共に出て行く。
それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けに過ぎず
心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。
神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も
心を静める助けに過ぎない。
神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通じて
心は一点に集中される。
心は常にさまよい続けるだろう。
鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、
心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。
心が無数の想念へと拡散しているとき、
そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。
だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。
そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。
すべての規則制限の中でも
適度な量の清らかな(サートヴィック)な食事を摂るという方法が
最上のものである。
これを守ることによって、心の清らかさは増し、
真我探究の助けとなるだろう。
13.心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現われてきます。
いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?
真我への瞑想が高まれば高まるほど、
それらの想念は破壊されるだろう。
14.数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?
可能か、可能でないかという疑問に屈することなく
真我への瞑想を続けるべきである。
たとえ、人が大罪人であるとしても、
「ああ、私は大罪人だ。どうすれば救われるのだろう?」
と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。
「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、
真我への瞑想に強烈に集中するべきである。
そうすれば、確実にうまくいくだろう。
ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。
心はただひとつだ。
幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく
心に刻まれる印象である。
心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ
不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人々に関することへさまよい出ぬよう
戒められなければならない。
他の人がどれほど悪くとも、
彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。
欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。
人が他の人々に与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。
もしこれらの真理が理解されるなら、人々に施しをしないでいられようか。
自己が現われると、すべてが立ち現われ
自己が静まれば、すべては静まる。
謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現われるだろう。
心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。
15.探究はどのくらいの期間 修練されるべきでしょうか?
心の中にものごとの印象がある限り、
「私は誰か?」
と尋ねなければならない。
想念が起こったなら、
そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって
破壊されるべきである。
もし真我に到達されるまで、不断の真我の黙想に打ち込めば
それだけで想念は消滅するだろう。
要塞の中に敵がいる限り、敵は反撃を続けるだろう。
もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば
要塞は我々の手中に落ちるだろう。
1936年1月26日の対話より
▶ ラマナ・マハルシ:「私は誰か」直接法。心・自我は存在しない - YouTube
ラマナ・マハルシ:「私は誰か」直接法。心・自我は存在しない
2013/08/16 に公開
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読。以下、私からメモと注意。
dialogs with Sri Ramana Maharshi from "Talks"
artmnet0によるメモ:
1936年5月19日の対話より
▶ ラマナ・マハルシ:どのヨーガが最高に浄化できる?あなたも私も存在したことはなかったの意味 - YouTube
ラマナ・マハルシ:どのヨーガが最高に浄化できる?あなたも私も存在したことはなかったの意味
2013/08/16 に公開
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読。以下、私からメモと注意。
dialogs with Sri Ramana Maharshi from "Talks"
artmnet0によるメモ:
1936年6月9日の対話より
▶ ラマナ・マハルシ:想念の根源 - YouTube
ラマナ・マハルシ:想念の根源
2013/08/16 に公開
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読。以下、私からメモと注意。
dialogs with Sri Ramana Maharshi from "Talks"
artmnet0によるメモ:
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01:57
「私」という想念が、すべての想念の根源なのです。
もしこの根を抜き取れば、他のすべての想念も根こそぎにされるでしょう。
だからこそ、根である「私」を見いだしなさい。
「私は誰か?」と、問いなさい。その源を見つけなさい。
そうすれが、他のすべての想念は消滅し、純粋な神我だけが残るでしょう。
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03:24
いつわりの私を消しさる必要などないのです。
どうして、私がそれ自身を消去できるというのでしょう。
あなたがするべきすべてとは、その源を見いだして、
そこに、留まることだけです。
あなたが、努力によって到達できるのは、そこまでです。
その後は、彼方なるものに身を任せるだけです。
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04:30
いつわりの私が、障害です。
真実の私が、隠されないように、
いつわりの私は、取り除かれなければなりません。
私は実現していない。という思いが、実現への障害なのです。
実際は、それはすでに、実現されています。
それ以上、実現されるべきものなど何もないのです。
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1936年6月17日の対話より
▶ ラマナ・マハルシ:自我を滅ぼせ、真の愛とは - YouTube
ラマナ・マハルシ:自我を滅ぼせ、真の愛とは
2013/08/16 に公開
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読。以下、私からメモと注意。
dialogs with Sri Ramana Maharshi from "Talks"
artmnet0によるメモ:
1936年11月30日の対話より
▶ ラマナ・マハルシ:なぜ真理を聞いても悟らないのか - YouTube
ラマナ・マハルシ:なぜ真理を聞いても悟らないのか
2013/08/30 に公開
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読。以下、私からメモと注意。
dialogs with Sri Ramana Maharshi from "Talks"
artmnet0によるメモ:
1937年1月13日の対話より
▶ ラマナ・マハルシ:心は存在しない。静め方 - YouTube
ラマナ・マハルシ:心は存在しない。静め方
2013/09/06 に公開
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読。以下、私からメモと注意。
dialogs with Sri Ramana Maharshi from "Talks"
artmnet0によるメモ:
ホワイト・イーグル White Eagle の霊示 - アセンションへの道程 ~ある外科医のスピリチュアル~
放棄とは何か ~ その本当の意味
苦痛、そして災厄――それはしばしば訪れます。それは明らかに魂がしてはいけないことに執着するからです。しかし、この教訓を学び終えると、つまりすっぱり棄てる気になると、そこに新しいチャンスが来ます。大きな祝福が現れます。
みなさんはこう尋ねられる。「世間や人間関係を棄てよとおっしゃっても、どちらも人生には必要なものです。どうすればいいのですか」と。
兄弟・姉妹、息子・娘、父と母、 この人間関係が不要なら、神は創造なさらなかったでしょう。だから人間関係は必要なのです。これがあるがゆえに、人は人間感情を通しての経験から学び、身につけます。しかし、大事なことは、人はパーソナリティ(地上生活の個我――小我)にとらわれてはいけないのです。個人的な人間関係、俗世間的な所有、立場、欲求などの奴隷になってはいけないのです。
「世を捨てる」とは、世間から引っ込んでしまうことではなく、人はすべてを放棄しても、ちゃんと人間関係を続けていきます。しかし、その内部は自由となります。なぜなら、もはや心の奥底では何も望まないからです。ただ聖なる光に近づきたい、その聖なる光と一体になりたいという願望以外に何もなくなります。俗世間的な低級我、願望、野望、それらの放棄です。
神の国を開く鍵は心臓にある
それでは次の段階に目を向けることにしましょう。それはキリスト(神霊)の愛で燃える心臓で象徴されます。皆さんが瞑想を続けていると、次第に光線を出している光として、心臓を意識するようになるでしょう。心臓チャクラは太陽のようなものです。それはまさに「あなた」という太陽系の太陽です。
未来の人類は心臓でものを考えるようになるでしょう。現在では、人々は脳の心で考えております。この頭脳の心が非常に発達したので、心臓の中の光をほとんど消しています。しかし、新時代の人々は心臓の中に住む神の心からものを考えるようになるでしょう。
すでに直覚で対応している人たちにはそれが始まっています。彼らは頭脳の心を制御できるので、それが静止状態になっているのです。もしあなたが静止状態で心臓にしゃべらせるようにすれば、自分の欲する結果が得られることがおわかりになります。ただし、それは〈感じ〉という形で、直観でやってきます。
古代の聖同胞団で問題とされた秘密の一つは、神の王国を開く鍵の所在でした。その鍵はどこにあるのか? その回答はこうです。「その鍵は心臓にあり」。
本当の愛とは?
愛のこの道には、なお幾多の落とし穴や惑わしがあります。感情というものは、しばしば愛で迷うものです。感情には感情の居場所があります。感情は愛ではありません。居場所を間違えた愛――それが人への奉仕の目をふさいでしまいます。すなわち、他者に愚かな与え方をして、その欲望を満たさせ、それが間接的に自己の欲を満足させるのです。
その実例を盲愛の母親に見ます。
彼女は子供が要求するものを何でも与えます。それが愛だと思って――。その結果はどうでしょう。子供は幸福になり、成長する機会から全く縁遠い者となります。母親が子供からすべての自己表現と発展のチャンスを奪い取るのです。
賢い母親は何でも気前よく買い与えません。それは冷たいとか、つれない母親というのではありません。むしろ、母親の愛が大きくて、母親は子供が経験を積むのに必要なものをハッキリ見ているのです。子供が自分で物事を決めるようにしつけがなされるのです。
子供を喜ばせよ、慰めよ。それはその通りです。しかし、強くしてあげなさい。自分で物事を決めるようにさせなさい。経験を身につけるようにしてあげなさい。甘い物の与えすぎが子供を病気にします。むやみに人の欲望を満足させ、それが愛だと思って望む物を何でも与えれば、意地悪の攻撃をしているのと同じことです。人を傷つけています。
続きます。
『ラマナ・マハルシとの対話』より抜粋朗読 - YouTube - 02