融通無碍なる留学生活

~豪に入っては豪に従います~

微妙な時差

2007年01月24日 | 気付いたこと築いたこと
それにしても、日本との時差2時間が侮れない。。。
日本では宵っ張りの生活になりがちで、
2時半とか3時とかに眠ったりしていた。
3時だと「うわ~だいぶ夜更かししちゃった!」という感じだが、
5時だと「うわ~もう朝じゃん!」だ。
朝だって、仕事がなければ11時とかに起きて
「うわ~ずいぶん寝たわぁ~」とか言ってられるが、
目覚めて午後1時となると「ダメ人間」っぽくて死にたくなる。
今朝はそんな感じだった。
ヨーロッパくらい、ほぼ半日とかずれるより、なんだかタチわるい。
日本との連絡をとるタイミングだって、なんだか微妙なのだ。
せめて夏時間が終わって、時差1時間に戻ってほしい。
夜は8時くらいまで明るいし、わけわからん。
今年は3月25日まで待たないとダメらしい。

扇風機

2007年01月24日 | 愛するモノたち

シドニー、曇り空の今日は過ごしやすい気温です。
ならばこんな日こそ!と息勇んで扇風機を買いに出かけた。
2000円弱で購入した小さな扇風機。
昨晩は寝苦しく、こんなものでも買わないと健康上の支障が危ぶまれたのであった。

機内での過ごし方

2007年01月23日 | 気付いたこと築いたこと
今日、シドニーに戻った。

ここ数回の飛行では、
離陸までに眠り込んでしまうことが多い。
出発直前まで慌しいことが多いから、
体力的にも気持ちの上でも、
いっぱいいっぱいのところで搭乗し、
乗り込んだ時点で急激な睡魔に襲われるのだ。
それで、搭乗直後のおしぼりとか飲み物とかを
受け取り損ねる始末。

飛行中は、目が開かない。
乾燥がひどいから、まず機内で読書などは出来ない。
前回日本に帰る際に無理やり読書したら、
成田空港で視力がガッツリ落ちていたのにまいった。
それで、今回は無理に本を開かない。
眠るのに飽きてしまったら、
目を閉じて出来ることといえば音楽を聴くことくらい。

それで、カンタスのCDコレクションで遊んでみた。
ベートーヴェンのトリプル・コンチェルトがアルゲリッチとマイスキーとカプソンであった。シューマンのピアコンがカップリング。そのあと演奏家忘れたけどハチャトリアンのフルート協奏曲で気分高揚、ツィマーマンのラフマニノフのコンチェルト1,2番はトチ狂った感じでかっこよかった。
他にもいろいろ聴いてみたいのはあってけれど、飛行機の「ゴーー・・・」という通奏低音の中、安物のヘッドセットでこれだけ聴くと、もうぐったり。あとは、耐える。とにかく到着まで耐える。カンタスは例のごとくまた隣の席が空いていたから楽といえば楽だった。

到着したらそこは夏。
毎日ネットで見ていた気温よりはるかに高く感じる。少々脱水気味だ。
明日は扇風機を買いに行こう。



金澤攝さんのこと

2007年01月18日 | 音楽
音楽家の金澤攝氏にお会いする機会に恵まれた。

氏の音楽活動についてはこちらでその一端が紹介されているし、著作「失われた音楽~秘曲の封印を解く」(龜鳴屋、2005年)でも知ることができるが、実際お会いすることで一層彼の活動の意味や方向性に対する認識を強めることができたように思う。


19世紀の作曲家たちの星の数ほどある作品を、探し出しては紐解き、次々と音にしていくという果てしない活動。自らの足を運んで行ってきた収集作業とその演奏。そうした数十年にわたる氏の活動はきっと、「見えるべきもの」を最初から恣意的に設定してしまったとしたら、一歩も先へ動けなくなるような、気の遠くなるものだろう。


作曲家の創作の中で、「傑作」としては扱われなかった、
無数の作品をすくい上げることで見えてくるもの。

後世において、時代の顔、巨匠として扱われなかった、
無数の作曲家をすくい上げることで見えてくるもの。


そうした「結果として見えてくるもの」を、真摯に追い求めることによって19世紀の音楽の姿を追求していこうとするその姿勢は、極めて「実践的」とも言えるだろう。実際、15歳で渡仏し、アカデミズムとして音楽を「学ぶ」ことなく、氏は独自にその研究過程や方法を体得されてきた。音楽学の領域においてはすでに、作曲家作品研究に重点的に集中するばかりでなく、ある作品や作曲家が投げ込まれている社会や時代、「文化」としてくくられる枠組み全体を捉える必要性が叫ばれて久しい。しかし、そうした必要性へのアプローチとして、金澤氏はむしろ作品の側から、それも「傑作」として残ってきたものではなく、すでに埋もれつつあり、忘れ去られつつある個々の音楽作品そのものから照射させていく方法を取っているのである。

そのような氏の活動は、ある作曲家や時代に対し我々が抱く「像」を、つねに更新可能性に晒し続ける。そしてまた更新可能性は、絶えず「作曲家の『個性』とは何か」という問いを我々に差し向ける。
お話を伺う中で氏の口から「個性の粉砕」という言葉が現れた。私はその言葉を聞いた瞬間、「ああ、これこそがこの人の創造性に他ならないのだろうな」と感じた。

連載や著作、そして伝え聞いていたところからの私の氏のイメージは、「直向(ひたむき)で厳しい孤高の人」といったものであったが、実際お会いしてみると随分と私の印象は変わった。もの静かだけれどどこかお優しく、お話の内容からはそこはかとない明さとしなやかさが漂い、芯のしっかりした声でよく笑い、話の受け手であるこちらの興奮具合を感覚的に受け取って下さる方だった。

話が次第に盛り上がり、ご自身の自作のスコアを次々と見せて下さった。チェレスタ・ピアノ・オーボエといった独特な編成の小品、19世紀イタリアの作曲家の作風を徹底的に用いて作曲されたもの、十二音技法によるもの、メシアンの鳥の声を彷彿とさせるもの、かといえば古神道秘説に寄せた合唱曲や、稲葉之白兎の物語を題材にした歌曲(編成におもちゃのピアノやウサギの太鼓が入っていたりする!)(いくつかはすでに初演され、録音も聴かせていただいた)。
一方で、棚の奥から出してきてくだった中には、完璧に浄書された十代の頃の複雑なオーケストラ作品や二十歳のころの実験的な作品もある。これらは混沌かつ静謐なテクスチュアが多く見られたが、不意に長三和音へと収斂される音運びなどはきっと美しく響くだろうと想像されるものも多かった。

これらのスコアを手にし、私はすっかり興奮してしまった。これらの作品どれ一つをとっても、「作曲家金澤氏らしい」とくくってしまえるようなものはすぐには見当たらない。どの一曲もそれぞれにあまりに個性的。それにゆえにこそ、一人の作曲家としての「個性」が「粉砕」されてしまう。やはり、これこそこの人の創造性。しかしあえて言うならば、どの作品にも、「不必要な深刻さ」みたいなものは見えない。これはこの人の根の明るさに起因するのだろうと思う。
作品に漂う迫力はしかし、いつの日か作曲者の手を離れ(今はご自宅から持ち出すことはお考えになっていないとのこと)、いつか恣意的に深刻に読み込まれてしまう危険性を、私は憂慮してしまう。


上記著作に見られる丹精な日本語は、一見して格調高いものだが、ポストリュードに著者自身が「何よりもまず、楽しい本であってほしい」と書いている。氏の音楽活動そのものもまた、いかに「世の中の人々が、いい音楽を楽しんでくれるだろうか」ということが根底にある。つまらない「こだわり」からは程遠い姿勢。反権威主義的。著作の最終ページにある言葉こそは、この人の明るさだ。

「独善に陥らず
 練習を怠らず
 自らの天命を信じ
 不安の機微を制し
 損得を考えず
 楽観主義を標榜し
 自然体に徹すれば
 どうにかなるであろう

 OSAM N. KANAZAWA」

ドイチュ料理で新境地

2007年01月15日 | 気付いたこと築いたこと
予想外の展開だった。

新宿5丁目にあるドイツ料理KEITELに食事に出かけた。

以前バイエルンにあるピアノ工房を訪れた際、「いかにも」という感じのウィンナーやザウワークラウトや赤黒いビールをご馳走になったときの美味体験が蘇った。いや、それ以上のおいしさだったかもしれない。シェフのカイテルさんは、マイスターを2回も取ったらしいよ。店内にメダルがたくさん。オリジナルビールや珈琲焼酎なんかが出てきてしまうのだ。なんせじゃがいもが、甘くておいしいの。

ドイツ料理の印象はあまりよろしくなかったという寡黙なプリモお父上。日本のとあるレストランでの経験が誤解を生んだらしい。今夜で印象が一転してしまったらしく、あの饒舌な楽しいモードに入られた。

カイテルさんはプリモお父上より少し年上の同年代(60代)。今や厨房に立つ息子さんは私やプリモ氏よりも4つ年上のほぼ同年代(30代)。同世代というだけで、まるで古くからの同級生のように語り始められたお父上を見て、「年齢を重ねることの素敵さ」の一つを見た気がした。初めての来店にも関わらず意気投合してしまい、カイテルさんが「ちょっと飲もうよ」と持ち出してきたのは、なんと日本酒。おちょこはかわいらしいガラス工芸品で、お父上のものには「きさま」、プリモ氏のには「おまえ」、そしてなぜか私のには「すき」と平仮名デザインが入っていた。
ドイツ料理を食しに来たのに、ここで恐ろしくうまい日本酒を指南されてしまうなんて。ちなみにうなってしまったのは新潟の「越乃白梅」。いや、これ、ほんとすごい。予想外の展開に、うれし涙がちょちょぎれた。

告白すると。
私は元来料理に関心がうす~~~い。有機野菜とか、お漬物とか、緑茶とか、そういうものには興奮を覚えるけれど、夜会巻きヘアーがよく似合う「なになになんたらの、なになに風うにゃうにゃ焼きでございます」とか耳元でささやかれるお店に入ったところで、ほとんどなーんも反応しない。
だけれども。少なくとも今日のお店はとってもとっても暖かみがあったし、料理を通じて、それが一期一会であれ、細く長く続くものであれ、人と出会い語らえるなら・・・むー、これは「関心が薄い」とか、言ってられないな。

ピール、ワイン、焼酎、日本酒といただいてしまったお父上とプリモ氏は今、すでに爆睡している。

シドニーに戻る前に素敵な晩餐会を開いて頂いて感謝この上ない。

ウワサの「のだめ」

2007年01月14日 | 気付いたこと築いたこと
シドニー滞在中にオンエアされていた「のだめカンタービレ」。
心やさしい姉夫婦が全部をDVDに焼いてくれたので、とりあえず一気見している。今日は第6話まで。

はからずも大笑いしたり感涙したりしながら見ている。学園祭のムードとかは、あのドラマほどではないにしても、けっこう自分の学生時代を思い出せて楽しい。私は楽理科だったから、オケにのったことは学園祭なんかのイヴェントで過去2回だけだったけど。でもあの大学全体のお祭りムードはよかったよなぁ・・・

とりあえず、これまではクラシックはお好みではなかった姉の夫もドラマで聴いて今や「ベト7がさぁ~・・・」と熱く語ってしまうくらいかっこいい、ベートーヴェンの交響曲第7番イ長調。これをば今日は私も聴きたい衝動にかられて、クライバー指揮、ウィーン・フィルの演奏で堪能いたしました。テンポが速めでものすごい高揚感。ついでに彼の5番も全楽章聴いた。古典に興味うすく、あまりベートーヴェンで興奮することのなかった私であるが、かなり今日は楽しかった。私もどうやら、「のだめ」効果にやられてしまったか??

いまだに「あら、高尚ですこと」とか美しい誤解をうけやすい「クラシック音楽」受容。ここに元気が出ることは、とにかくいいことだ。うん、いいことだ。

ネットワーク感

2007年01月13日 | 気付いたこと築いたこと
一時帰国をしてよかったと思えたことは、
日本を離れてこそ実感した「すごい」友人たちに
今ここで会えたこと。

新しい仕事を始めた友人と飲んだ。
キラキラしていたよ。まぶしいぜ。

春から新たな組織に入ろうとする友人にも会えた。

研究の世界に再び帰ろうとする人の熱さも再確認できた。

生産力のある人たちというは、やはり輝いているし、
決して成長を止めない。
自分のアタマ、フットワーク、コストをかけて
きちんと動けるというのはすごいことだ。


どの友人ともかれこれ長い付き合いになるけれど、
音楽や出版に携わる人々が増えていく。
この、ネットワーク感がたまりません。

とくに、なにを、いっしょにする、とかでなくとも。
あの人はあそこで、その人はそこで、
今がんばっておる。
というのが、わけなくうれしく感じること。
なんかちょっと、わくわくすること。
これぞ、ネットワーク感。

中野でうなぎ

2007年01月12日 | 気付いたこと築いたこと


中野。昭和の香りただよう小さなうなぎ屋さんで食事をしました。
焼き鳥のようなスタイルでいただくうなぎ。



カウンターで、丸イスのスペースを譲り合いながら、
仕事帰りのおっちゃんたちに混じって、
香ばしい串焼きうなぎと、おいしい御新香をいただいた。
ゴボウに、うなぎをくるくる巻いた焼きが最高。
うなぎの燻製はビールとよく合う。
なんか、面白かった。