融通無碍なる留学生活

~豪に入っては豪に従います~

グレインジャー・カルテット

2007年11月07日 | 音楽
去る11月5日は、弦楽四重奏団グレインジャー・カルテットのコンサートに出かけてきました。日本語のプレスに勤めるお友達に券をいただきました。深謝。

日本人ヴァイオリニスト吉本奈津子さんを1stヴァイオリンに据えたこのカルテットの演奏は、彼女の力強く明るい音楽にぐいぐい引っ張られる元気の良さがありました。

曲目は以下:
ハイドン:弦楽四重奏曲長調 Op.54 no.2
バルトーク:弦楽四重奏曲第2番 Op.17
クルターク:Aus der Ferne III (「遠くから」)
ブラームス:クラリネット五重奏曲ロ短調 Op.115(クラリネットソロ:ポール・ディーン)

クラリネットのディーンさん、始終楽しそうに吹いていて「この人、自由でいいなぁ」なんて思いました。
五重奏までは、かなりキラキラ鳴っていた1stヴァイオリンも、この五重奏では一定して落ち着いた音色に様変わりし、吉本さんのアンサンブル力の高さを感じました。
コンサートでじっくり音楽を聴くのは実に数ヶ月ぶり。こうした室内楽だと、オケなどよりも、耳が各音になんとか付いていかれる範囲内だからでしょうかね、集中しすぎて心地よい疲労を覚えました。楽しい一夜でございました。

音楽について語るということ

2007年10月15日 | 音楽
(蚊の泣くような声で叫ぶ胸の内・・・ですよ。)

若かりし十代、芸大楽理科の受験時代そして学部生の頃など、
「音楽を言葉で語るのに、美しい旋律、素晴らしい音楽とか言ってはいけません。何も語ったことにならないのだから。」という風にまずは叩き込まれたのを覚えています。
そんな風にして、音楽学をやる人はまずは実証主義的訓練のスタートを切るのだけれども、でもめぐりめぐって、最後はまた「美しい音楽」って、言ったっていいんじゃないか、というか、その必要もあるんじゃないか、とセツセツと感じます。

オーストラリアの音楽事情を紹介する機会に恵まれました。ここは日本のピアノの先生やピアノに興味関心のある人たちがターゲット・リーダーです。しかし、ネット上に置かれている以上、あらゆる人々からのアクセスが理論上可能なわけで、できれば私はいろんな人の目に少しでも触れてもらえればと、書き手としてはそう願ってしまいます。

こちらの友人(=音楽とは無関係の人)などが、けっこうハッとすること言ってくれたりします。
「データがどう、形式がどう、年がどうとか言われても、わたしたち普通の人には、ぜんぜん音楽がわかってこない。書いている人が『感動するんです!』とか言ってくれるほうが、よっぼど『どれどれ・・・』と思う。」

この連載では、音も楽譜も出せない分、
もう言葉で強引にいく。
(発表先は出版社ではないので、もし出したいなら著作権がらみの処理、関係者への連絡とかも自分でやらなくちゃいけない。自分の非力さを感じますが今はその余裕がなく残念。)
となると、
ものすごく私の主観から切り込みを入れていかないと、
ほんと、だ~~れも読まなくなるんじゃないかな、と。
教科書的に、こぎれいにまとめたってダメ。

私の書いているものは、読まれなくても「価値」のある「論文」じゃない。
だからやっぱり、「読まれない」のじゃそれはまずい、というか、
そういうものは、できれば私は産出したくない、というか、
面白みを感じていられないのが本音だ。
求める声があって始めたものでないのだし、
チャレンジングなことではあるけれど、
偶然立ち止まって読んでしまった人が、
「へぇ~。けっこう面白いじゃん」って思ってくれなくちゃ、
ダメなんだ。私的には。

今回もまた、客観と主観の間の
(うわっこう書くと、二項対立の古い感じがするっ・・・)
ちょうど気持ちいい接点を模索するいい訓練になりそうです。
そして、そういう作業は私にとってもたまらなく楽しいことみたいです。

ピアノと脱力

2007年07月19日 | 音楽

長年培ってきたもの、これが「正しい」のだと思って突き詰めてきたものが、「けっこう違うからシフトしましょうね」ということになって、あらまぁどうしましょう、大変、でもシフト先の方が世界が深くて楽しそう・・・ってなってます。


津山にあるピアノ工房アムズの松岡さんから、ドイツ製などの「よく鳴るピアノ」をいかように弾くかというお話を伺った。指を高く上げて、一音一音しっかり弾きましょう、手は卵を包むように・・・とかいう戦後ピアノ教育の「フォーム」の作り方は、ある種の神話に過ぎなくて、それは「よく鳴るピアノ」にとっては甚だ迷惑、壊れちゃうし、第一うるさいのだよ、と教わった。

「よく鳴るピアノ」で、うるさくなく甘い音が出せるようになることは、ものすごい勢いで力を抜かなきゃならないのだと。だって、すぐにスコーンと鳴っちゃって、あっという間に「うるさく」なるから。
とある「よく鳴るピアノ」のオーナーからも、弾くたびに「脱力せよ~」と再三言われてはおったのですけど、どうもピンと来てなかったし、わかるけどわかんない・・・みたいな。5歳から刷り込まれ、二十歳くらいまでの「ピアノ道」的苦難の課程で身につけたフォームは、精神的にも容易に崩れないやっかいなもの、みたいですよ。

「理屈からすると、よく鳴るピアノで脱力することに慣れちゃったら、例えば一般家庭用のアップライトピアノなんかを弾こうとするときに、力が入らなくてそれこそ鳴らせなくなっちゃうのでは?」という質問に、松岡さんはもの凄い勢いで「そんなことないです」と。「いいピアノでいい音を出せるようになることは、個々のピアノに対して柔軟に自分のタッチを合わせられるようなるということ。どんなに鳴らないピアノでも、逆にいい音が出せるようになりますよ。ヨーロッパの一流ピアニストがなぜ一流かといえば、彼らはどのピアノにも自分を調整して合わせることができるから」なのだと。まじっすか??でも力を完全に抜くって、難しいし、なんかちょっと勇気がいる・・・。


とにかく自分の耳本位に弾くということ。
自分がピアノを弾こうとするのでなくて、
ピアノの音そのものに導かれるように・・・。


「だまされたと思ってやってみる」というと、ピアノのオーナー氏は語る。「だまされてないっ。いいピアノは出せる音のレンジが広いんだから、それでppを出す訓練をよ~くしておけば、脱力の仕方わかるよ」だって。

なるほどねぇ。
がんばらないように工夫しないと。
って、ここ十年くらいずっと、
このテーマを掲げて生きてるような気もする(笑)。

指揮者 海老原光さん のこと

2007年07月08日 | 音楽

昼間のアマオケ公演とは思えない、もの凄い熱気の演奏会でした。

練馬交響楽団の定期演奏会(於 練馬文化ホール)、
指揮は海老原光氏。
曲目は
リスト/交響詩「レ・プレリュード」
R.シュトラウス/交響詩「死と変容」
ベートーヴェン/交響曲第5番「運命」
アンコールにヴァグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の前奏曲


とりわけ5番は、熱いけれども決して重くならず、始まりから終わりまで一気に疾走していった。ためらい無く疾駆する響き。個々の音質がどうこうというのでなく、音楽が流れてしまって流れてしまって、どんどん引き込まれてしまう演奏。力強く、素晴らしかった・・・。

演奏後の会場の熱気は圧巻。実際この日は満遍なく二階席まで人が一杯で、明らかに聴衆もオケも、火照ったような空気に包まれていたと私は感じたが、どうだっただろうか。

一体感とか、勢いとか、熱さとか、そうした空気感はもしかしたら、アマチュアオーケストラによって生み出せる、ある種の強みなのかもしれないとも考えられる。でも、この日のそれは、指揮の海老原光氏によってさらに上昇気流に乗った、という印象だ。

この人は席巻力のある指揮者。見せる/魅せる人。
引っ張る、鳴らす、見せる/魅せる、驚かす、作りこむ・・・
音楽の作り方や指揮そのもののみならず、ステージ上でのこの指揮者の立ち居振る舞い(曲入りのタイミング、観客の拍手への応え方や、アンコール曲紹介時の発声まで)全てが、おそらくオケの演奏者だけでなく聴衆の身体性をも喚起させ、演奏会全体を指揮していた。言ってしまえば、最高のエンターテイナーだ。本当に楽しかった。

聴衆の「楽しい」は、拍手のタイミングや「ブラボー」という叫び声ばかりでなく、例えば私の後ろに座っていた女子中学生3人組みたいなのが、「きゃあ素敵」モードに入ってはしゃいでいた様子などからもわかって面白い。

海老原氏も、今後音楽の作り方や、演奏者・聴衆への「魅せ方」はどんどん変わっていくかもしれない。でも、どの時点でもきっとこの人は、本当に「多くの」人を席巻する力を発揮されていくのだと思う。
つまり、「スター」性みたいなのを持ち、「ファン」層みたいなのを獲得できる人。これは侮れない才能、そしてそうそういないと思うんですよ。一方でまた、この指揮者の「根のマジメさ」みたいなものは、信頼できる勤勉さを示してくれるので、聴き手の側には誠意のようなものとして伝わってくるように思う。

クラシック音楽だって、どこの業界だって、その当事者が、音楽などの彼/彼女の向かう対象に真摯に対峙したその結果、そうした供給と需要の大きなうねりを作れるのであれば、誰も無視することは出来なくなるんだろう。私個人が過剰にこの指揮者を応援したいと感じているのだとしても、それを差し引いたとしても、そんな構図が思い浮かんで、わくわくしてしまう。

あんな演奏会は初めてですよ。心から楽しく、本当に感動しました。演奏会にはまた足を運びますよ。今後の更なるご活躍を心から応援しています。

共鳴すること

2007年05月27日 | 音楽

課題をこなすばかりで、完全に、煮詰まった。
そこで、アパートの大学管理スタッフに電話をして、
彼らの部屋にあるかわいいピアノを貸してくれと頼んでみた。
快く迎えてくれて、小さくてかわいいKAWAIのピアノに触れた。

これだけ小さなピアノだと、
少し大曲を弾くと鳴らないし、揺れてしまうしで、
「もう食べられないよぉ」と言われているよう。かわいそくなった。
これこそブルグ向きのピアノ。実際小品だとしっくりして、
寂れ感ありつつ、いい味の音楽が作れる。
そのピアノにはそのピアノに合った音楽を。。。

一時間ほどサクッと弾かせてもらった今、
気分はまったく違っている。


うたうこと。

自分の波動を
どこか大きなところに向かって
放射していくこと。

演奏というものを、
波動を投げ込むツールとして考える。

その波動が誰かに伝わって、
一緒に共鳴できればなお良い。

管理人の一人(中国人の女の子)が共に揺れてくれた。
それは今の私の気分を作ってくれた。
心地よいこと。ありがとう。

貯金で弾けそうな曲

2007年05月16日 | 音楽
翻訳の授業が終わって夜9時近くにABC Classic FMをつけて見たら、なにやら素敵なピアノ曲が。どことなくポップなのに、要所要所でちゃんと「20世紀」っぽい音がしてる。バカテクがなくても弾けそうだし、でもちゃんと弾いた気分にさせてくれそうだなぁ、誰なんだ?この曲・・・と思って早速ABCのウェブサイトで検索(やっぱネットがあると便利だなぁ~♪心潤う)。正体はチェコの作曲家コルトのピアノソナタ(1954)でございました。これはいい。楽しく弾けそう。日本で楽譜とか買えんのかなぁ。買えないだろうなぁ。。。(上のリンクから一部聴けますが第1楽章のところであまりパッとしない。ラジオで聞いた終楽章がカッコ良かった)

で、そんな、ポップかつ「ちゃんとした」感のある音のするコルトの曲を聴いていたら、なんとなくグリーグのことが頭に浮かんだのであります。

グリーグのピアノ・ソナタは弾いていると、なんかとっても「ちゃんと弾いてます」的な気持ちになれるからスキだ。でも、実はそんなにテクニックがいらない。彼の抒情小品集もしかり。いや、もちろん、どんな曲でもきちんと弾こうと思えばブルグミュラーだって難曲であります。でも少なくとも、仕事が終わって「お楽しみ」で弾こうと思うアマチュアならば、もうそんなに鍛錬とか積みたくないし、できればこれまでの貯金で暮らしたい、みたいな感覚で、ちょっとやったら「お、いいぞ」と乗れるレベル、それがグリーグ作品・・・っていう感じです。

で、そこまで考えてみると、例えば「高校生くらいまでは、ガツガツとピアノがんばりましたけど、今はたまにぃ~くらいな人が貯金だけで十分食べられておいし~~いピアノ作品集」みたいな曲集が売ってたら即買いなんだけどな。しかも現代曲とかも含んだやつ。・・・なんていうのはやっぱり、たまに自分で探して見つかったりするんだろうな。

そういう意味ではNHK-FMなんかよりは、こちらのABC-Classic FMのヒット率は結構いい。オーストラリアでカンガルーの次に評価してもいいとこだな。

KAWAIのピアノ、三台目と出会う。

2007年03月12日 | 音楽
昨日また、はからずもピアノを弾くことができた。

同じアパートの別棟に、大学のスタッフが暮らしている。
そこに行けば、あったかい毛布が支給されるというので行ってみると
そこには小さな小さなKAWAIのアップライトがあった。

これで、私がシドニーで出会ったピアノは3台ともKAWAIということになる。
YAMAHAじゃなくて。KAWAI。
(シドニー産のピアノというのがあれば、
それも弾いてみたいのだけど・・・。)

毛布をもらって、立ち去る直前に、
「だれかピアノ弾くんですか?」と聞いてみたら、
「君は弾けるのかい?ぜひ弾いてみてよ」という。
というわけで、
バッハ、ショパン、ドビュッシーの小さな曲を少し弾かせてもらった。
そこに暮らすスタッフ2名は大喜びで、若干興奮すらしてくれた。

「弾きたくなったら、いつでも来て。
 ここの鍵をあげたいくらいだよ。」
と言ってくれた。

終戦直後の武満徹じゃないけれど、
ピアノの音が漏れ出ている場所があれば、
ついノックをして「弾かせてください・・・」とか言いたくなる。
ピンチの時(?)は彼らに頼ることにしよう。

実際、少しだけだけど弾いたあと、
なんか、とても、元気になれた。

青空の下で歌う。

2007年02月27日 | 音楽

新学期が始まったばかりの大学の雰囲気というのは独特だ。
あちらこちらでサークル等の勧誘で華やいでいる。

今日は私が1ヶ月前から所属している合唱団Macquarie University Singersもそうした宣伝活動を行った。若者が極めて少ないこの合唱団・・・メンバーは大学職員やOBの年配者が多く、キャンパス内では微妙な雰囲気を漂わせる団体だったに違いない(笑)

通常は100名くらいの大所帯だが、今日は平日とあって、出てこられたメンバーは20名くらい。中世のヨーロッパ世俗歌曲や謎のアフリカ(と思われる)歌曲など、たくさんのレパートリー。昨晩のリハーサルで初めて見た楽譜もあったけれど、下記の作品を楽しく歌うことができた。

Thoinot Arbeau :Belle qui tiens ma vie
John Dowland: Come again, sweet love
Anonym: Dona Nobis Pacem
Anonym: Gaudeamus Igitur
attr.Henry VII: Pastime
Thomas Ford: Since first I saw your face
?アフリカ?: Singabahambayo
Anonym: Pase el agoa

モーツァルトのAve Verum Corpusもレパートリーにあったのに、周りが騒がしすぎてかき消されてしまうということで、突如廃止に。いつも歌うたびに泣きそうになるくらい好きなので残念だ。かつて楽理科受験塾の故中内詢子先生が「あれ以上美しい音楽はない」と珍しく熱く強調していたのも思い出される曲だけに。。。

ところで。こちらに来てから英語力の悩みは尽きないのだけれど、特に最近、この合唱団のおじちゃん、おばちゃんたちが、何やら親切に話しかけてきてくれるときに、これぞオーストラリアの英語ですか?!?!という感じで、何がなんだかさっぱりわからなくて困る。とりあえず、自分の息子が日本にいる、とか、日本にいたことがある、とか、日本日本とうれしそうに言ってきてくれることが多いので、「そうですか~」とニコニコしてごまかしている。笑うだけで、寡黙なメンバー。でも、音とりなら、まかしてくれ。

ピアノへのアクセス

2007年02月16日 | 音楽
翻訳を勉強している学生の身、今、ピアノは持っていない。
合唱団アルト仲間のおばちゃんが前回の練習時に「あなたピアノ弾けないんじゃ、さぞお辛いでしょう。ここの部屋のピアノが借りられないかどうか、交渉してあげるわ!」と言って下さって、おかげで管理係の電話番号を入手でき、本日予約を入れることができた。

ちなみにこういう手はずの電話をかけるときだって、私はいちいちキンチョーする。「留学生です、合唱団員です、ピアノ弾きたいです、こんな私ですけど○○号室予約できますか」という説明だって、ちゃんと練習してから電話。とくに電話だと、相手が何言ってるかわからなくなることが多いので、なにしろキンチョーするのだ。

キンチョーを経てのピアノ室ゲット!そんな具合ですから心踊り具合もヒトシオだ。



というわけで、心踊らせてピアノを弾く図。

ちなみに、ピアノはカワイでした。カワイといえば、前に翻訳のオーストラリア人の先生がご自宅のピアノを貸してくださったときも、カワイのアップライトだった。シドニーではカワイの受容が多いのかな?

ともあれカワイのピアノは私にとって、国内外のメーカー問わず、最も相性のいいピアノだ。ヨーロッパメーカーのピアノの音はキラキラしすぎちゃって、ちょっと照れくさくなる。でもカワイの音は、縦にポローンと優しく伸びる感じで、とくにpp、ppp、つまり弱い音が本当に温かい音が出せるの。大好きだ。



聴衆つき。ジムに行く前に「演奏ききたい」と来てくれたメリケンちゃん(スポーツ・バージョン)
(写真撮影:香港ガール)

今年没後100年のグリーグのソナタ、ショパンのノクターン、それからオーストラリアの作曲家ロス・エドワーズの「5つの小さなピアノ曲」(大変にジャポニスムな音のする曲です)、同じくオーストラリアの作曲家ピーター・スカルソープの「ジリール Djilile」(発音がよくわからない。アボリジニの民謡をテーマにしたという曲)、そしてブルグミュラー「なぐさめ」、武満徹「雨の樹素描」、末吉保雄「土の歌・風の声」などなど・・・を弾きました。

久しぶりに脳みその別の回路を使った感じがする、演奏はやっぱりいい。何しろ音を聴く。聴いて判断して指先に指令を送る。楽譜を読む。読んで受け取ったメッセージもまた、指先に指令として送る。この回路が、なんとも気持ちのいい疲労感へのつながる。

「いつでもひける」という状況はもちろんいいが、ストイックにこらえて一気に引きまくる、というのもいい。何しろこうして今後もシドニーでのピアノへのアクセスを得ることができそうなのはうれしい。もっとこちらの作曲家の作品を入手してこよう。