融通無碍なる留学生活

~豪に入っては豪に従います~

やだ、なにそれ、サマータイムって。

2006年10月28日 | 気付いたこと築いたこと
ええと。明日から時間が変わるらしいんですわ。
「サマータイム」だそうで。
午前0時になったら、
時計の針を1時間すすめなきゃいけないんだそうで。

日本とやりとりするとき時差は、
ヨーロッパにいたりするときなどよりは、
ずっと問題ないのだけれど、
それでも時差1時間って、微妙に大きいのに。
それが、時差2時間になるんだそうで。

日照時間を長く有効に使いたいそうですよ、この国の人は。
インドアな私はあんまり関係ないなぁ。
夕方が長く明るいのは、でも、ちょっとうれしいかな。

シドニー、今夜は寒いくらいに冷え込んでいる。
なにが「サマータイム」だ、
とセーターを着こんで震えている。

というわけで幸せなインドア式金曜の夜。新書のこと。

2006年10月27日 | 気付いたこと築いたこと
それにしても今、自分がいろんな情報に欠けてる気もしてる。
ここで改めて、日本の書店の「新書」ってやつぁスゴイなぁ・・・などと
気付いたりもしている。
だって、あらゆるジャンルの「一応」なものが、
ある程度の質で手軽にささっと読めちゃうわけだから。
その道の門外漢だって、とにかく知りたいと思ったら、
とりあえず新書コーナーにフラリ行けば、何かは見つけられる。
日本のあの、「新書」世界の充実度、小宇宙みたいなの、
こっちの本屋では見かけない。

月曜日はもう一つの翻訳のプレゼン。
よく売れてた新書、高橋哲哉の「靖国問題」(ちくま新書)の一部を翻訳。
英語でYasukuniを考える。

心の余裕と音楽と

2006年10月27日 | 気付いたこと築いたこと
今日一つ、翻訳のプレゼンテーションが終わったら、
そこには幸せな金曜日の午後が広がっていた。
お昼寝を気持ちよくして、おいしいアップルパイを食べた。

そしたらなぜか、シューベルトが聴きたくなったので、
ここから聴いたりした。

そういえばシドニーに来る直前、最後に弾いた曲もシューベルトだった。即興曲のAs dur。シューベルトって、なんか、平和。でも少しどこか、私にとっての郷愁の場所。

こちらに来てから鍵盤に触ったのは、数週間前の一回きり。M大学内の「シアター」となっている一番大きな講堂に忍び込み、こっそりピアノに近づいた。スタンウェィ。なかなかいい音がしてた。ただし、恐ろしいことに、(見たこともないワザだったが)、カバーに錠前がガッチリ掛かっていて、「弾いちゃダメです」といってくる。「こいつめ」と思いながら、カバーの下から手を入れて、むりやりフタをあけて、手探りでちょっとだけ弾いた。カバーのバンドが邪魔するので、音域はほんのニオクターブほど。そこで弾いたのは、いわずもがな、ブルグミュラーの「アベマリア」(ですよ、協会のみなさん!)。イスもないから、右足はペダル、ゆえに左足だけに体重をかけたせいで、もうガクガク。数分で、ピアノの前から去りました。あーあ。

もう少し。もう少しでいいから、
音楽の時間を自分に許したいのになぁ。

珈琲

2006年10月27日 | 気付いたこと築いたこと
こちらに来て助かってることといえば、
ふらりとカフェに入ったとしても
コーヒーの値段がさほど高くないというこだ。
ただし、香しい香りや洒脱なカップを期待はできない。
モカやカプチーノで少し甘いひとときを過ごす程度であれば
まず問題ないので、友人と「ちょっとお茶」という時に疲れが癒される。

案外家で、インスタントでブラックをいただくのが
おいしかったりもする。

そういえば数年前赤坂でフラリと入ってしまった珈琲屋さん、
「え?」という味のブレンドが1500円したときは
どうなのよ、と思ったものだ。

以前の職場でおいしい珈琲を競うように入れていたのは
今となっては、かわいらしく素敵な思い出。

飯田橋の「珈琲エリカ」に入らず終いでこっちに来てしまったことは
今でも小さな心のこり。またすぐ行けるけど。

通訳と翻訳

2006年10月24日 | 気付いたこと築いたこと
ふと思った。
通訳はスポーツに似ていて、翻訳は楽器の演奏に似ているかも、と。

両者に共通項は多い。
基礎となる訓練を地道に積まなくてはならない。
無駄なく洗練された成果が求められる。
そしてどこかやはりセンスが必要。

仕事として通訳・翻訳のどちらをやるにしても
どのジャンルであれ、
クライアントとのコミュニケーションは必須だし、
バックグランドの調査は欠かせないし、
日頃から最前線の情報キャッチ力を鍛えておかなくてはならない。

ただ、最終的に違うところといえば・・・

これは私のごく個人的、
ごくごく感覚的で抽象的な捉え方なのだけれど、
翻訳は、どこか西洋音楽の楽器の演奏のように、
最終的に「美」かどうかが
問われる率が高いように思う。

とくに「この一行が大事!」みたいなところで
それは発揮される。。。
新聞記事のタイトルであれ、
広告のキャッチコピーであれ、
無論、文芸作品の意味深い一行であれ、
原文から翻訳文へ到達するまでに、
わかる/わからないの範囲を超えて出て、
一歩先の地平で、
どこか、満を持したところで「えいっ!」と飛躍する作業が必要で、
その結果、(原文と翻訳文を両方見ることが許された場合には)
「お、やりますな、おぬし」
と思わずうなりたくような成果が現れるのだ。

翻訳の授業などで、うまいタイトルを付けた人になんかは
「おおぉ、やりますな」とうなってしまう。
それは正解・不正解の領域では、すでにない。
その「やりますな」の許容範囲が広く高く許され求められるのが
どうも翻訳のような気がしてならない。というわけで、面白い。

通訳はいかに正確にクイックにやるか!みないな感じが否めないんだな。
明日は4時間通訳の授業だ。。。。
秒単位でも、のろのろしてると、
「あなたが迷っているその時間はクライアントの時間だと思いなさい!」
とか叱られてしまうので、
「とにかくいっちゃえ~!!!」みたいな感じになる、、、どうもね。
ま、その緊張感が、面白いし、それもまた、たまらないところなんだけど。

翻訳のこと

2006年10月20日 | 気付いたこと築いたこと
こちらに留学する以前までは、通訳と翻訳の違いは、単にオーラルかドキュメントか、くらいにしか思っていなかったし、興味が湧くのは通訳かとも思っていた。最近では、日本でのこれまでのバックグラウンドも反映しているらしく、どうにも翻訳が面白く思えてきている。Source Langage(SL)とよばれる元言語とTarget Language(TL)とよばれる翻訳言語、この両者によるテクスト間のバランス感覚を、どこでどう判断・調節していくか。出典、読み手、時代性、レジスター、そういった全てを考慮するという技術を知り、SLとTLの間を自分がどう揺れ動いていくか。どこまで“Reader friendly”であることを選択するか。

私の所属する大学は、通訳翻訳コースの中でも割と「理論重視派」の大学という噂はあったが、実際入ってみてその傾向に気付く。しかし、もともと音楽を演奏ではなく研究でというスタンスに慣れていたからか、やはり上記のような理論のところは本当はかなり気になるし、じっくりゆっくり考えてみたいところでもある。

多文化主義を国家の生成過程において選択し実践せざるを得なかったこの国だけに、各国からの移民受け入れ態勢の一環としてNAATIと呼ばれる通訳・翻訳のための国家による認定がある。大学側はそうした人材育成に一役かっている訳だが、実際のところはこの認定資格は非常に限られた性格のものであるようだ。

翻訳の教師の口癖(?)に「NAATI的には減点の対象」というのがあって、いわゆる意訳というものや、翻訳する側の創造性のようなものが加味されると、「正確性」に問題ありとされ、Ethics(倫理体系)とやらに反するそうで、お咎めの対象になるそうだ。こうした資格の圏内では、SLとTL間の往復運動を楽しんでいる場合ではないのだろう。お国のものというのは、どこに行っても同じだね。

私はこの教師の口から出た“Reader Friendly”というもの、つまりどこまでTLを目にする読者思いの文章を構築できるかどうかに、ギリギリ挑戦するというものの方が俄然面白い気がしている。所詮はSLの著者も、そしてTLの読者も、この「わたくし」にとっての「他者」ではある。この圧倒的な大前提と絶望感のなかで、それでも揺らぎながら、「さて、どこまでいける?私。」と自問自答しながら、うじうじ日本語を操るのだ。

あ、ちなみに、SLが英語、TLが日本語が、やっぱり断然面白い。その逆を楽しみきれるのなんて、バイリンガルの人にしかありえなかろう。

質のいい言語の訓練を、どこまで積んでいかれるか。読書量と記述量が圧倒的に足りていないのは否めない。実際日本語の訓練に関しては、さくっと新書レベルを買って読める現状にないのが悔しいところだ。でもこの悔しさは帰国してからのバネにすべし、だ。

というわけで、翻訳業、やってみたい。

「『待った』がきかない」こと。

2006年10月19日 | 気付いたこと築いたこと
私を産んだ人の教育論的アフォリズム(?)に、
「こういうことは、『待った』がきかないことだ」
というのがあった。

その言葉を矛や盾にして彼女は、
ふつう、ありえないでしょ、
という状況の中で、いろんなものをくぐりぬけ、
私にいろんな盾や矛を身に付けさせてくれた。
ありえない苦境の中で、ピアノを買ってくれたり、とか。

結局その言葉にあるような、
そこはかとなく切迫した、かつ異様に肯定的な精神のおかげで、
私のなかにもどこか、
思い切ったプライオリティ付けをして、
つじつまを後から合わせるという、
強引な方法がまかりとおってきた。なんとか今日まで。

自分にとって、これははずせない、
という仕事がある。
生き方の問題として。
迷う余地がどこにもないもの。
迷うこと自体が選択肢としてすでに与えられていないもの。

そうしてまた、幸せなムリをする。これぞ「ぶるぐ愛」。

暑い。でもいい。

2006年10月14日 | 気付いたこと築いたこと
非常に暑い。暑くなった。
シドニーもいよいよ夏だ。
昼下がりに外にでようものなら、
太陽がものすごい勢いで肌を突き刺してくる。
くわばらくわばら。

といっても、
日陰に入れば涼しいし、日が落ちればここちよい。
こちらの夏は、いいかもしんない。

自室にはクーラーがない。
なくても「耐えろ」くらいの気候だ。
大学の教室の中も、クーラーない部屋はけっこうある。
冷房からくるダルさはキライ。
だからこちらの夏、いいかもしんない。

我がハウスメイト、現在4名。
みな勉強家。多分みなインドア派。
土日でも、家にいたりする。
家にいるのって、幸せ。

日中は「あついね~」とか言いながら
みんなちょっとウダっとしてるけど、
涼しげでラフな格好でキッチンに集合したりするの、
なんかちょっと楽しい。
夕方あたり、めいめい夕食を作ったりして、
ちょっとした交換会するのも、
なんかちょっと楽しい。

ハウスメイトに恵まれたのは
この生活にとって、とても大きいな。
そう感じる土曜の午後8時。
さ、翻訳翻訳。アボリジニー。