ロシア人のピアニスト
ドミトリー・チェチェーリン氏の録音に立ち会い、通訳的なことをさせてもらう機会を得ました。
通訳とはいってもカッチリしたものではなくて、録音の際に技術サイドの人とチェチェーリンとの間のコミュニケーションを取り持つのが基本。「キューが出たら弾いてね」とか言う、簡単なお手伝いだと思っていたんです。相手も英語は第二言語だし、楽しくキラクに臨めばいいわ、と思っていたのですが、、、思いのほか、ホテルにお迎えに行く道中、キンチョーしている自分に気が付きました。
なんでこんなにナーヴァスになっているのか、どこにも緊張する要素なんてないのにおかしい!と自分を戒めれば戒めるほど、ますます緊張してオバカさんでした。でも。。。考えてみたら、これが授業のお外で「通訳」っぽいことをする初めての経験。会議通訳や商談などといった現場ではないにしろ、やっぱりとても緊張します。
でも、ご本人にお会いして、まずはお食事から・・・と時間を共にするうちに調子が良くなりました。トータル6時間半くらいにわたるアテンドでしたが、概ね、まぁなんとかなったかな、というところ。いろいろと予想外なこともありましたが。
しかし、こうした形でのデビュー戦(?)、面白くも「難しいな」と感じたところは多々。自分の立ち位置というか、自分がどう効果的に機能できるかということに瞬時に柔軟に対処していく能力みたいなのを、もっと養いたいと実感いたしました。。。
留学先のマッコーリー大学大学院通訳翻訳コースでは、オーストラリア国家資格認定のための試験対策をさせられるため、通訳の際に最も重要視すべきものとして中立性、正確性、客観性、守秘義務、、、といった「コード・オブ・エシックス」と呼ばれる国家通訳者の掟を暗記させられます。通訳者は透明人間になればなるほど、黒子になればなるほど優れた仕事をできるというわけで、英語を発するところの「私」が、なんらかの形で前に出ることなんざぁ、とんでもない。通訳者の発する" I "とは、クライアントが「私は」と言った場合の訳なのであって、通訳者はどこまでもその存在を消し続ける。それがプロってものなんだそうな。そうしたプログラムの中で環境、経済、医療、法律関係の逐語通訳を勉強するのは何かこうスリリングだし、また来学期そのさらに続きのクラスを取ってやれ、とたくらんでいます。
でも、今回私が得た機会というのは、こうした性質の「通訳」とは程遠いもの。お食事の際には「ギョーザ」が何かを説明をしたり、天真爛漫な芸術家さんが少しでも気分よく演奏してくれるような工夫もできるだけしたかった。実際チェチェーリンは、1テイク録音する毎に振り返って人の顔を見るので、微笑んだり、「今の演奏はちょっとアレだね」とかいうのを表情で会話したりすることも、機能のうちに含まれていたと思う。それが、帰国後日本で、私が生きて関わっていく世界での現実だと思ったし、こうした経験におけるひとつひとつの「気付き」こそ、なんかわからないけど、なんかの肥やしになっていくんだろうと感じた次第。
よきコミュニケーターでありたいとか、よきブースターでありたいとかを「目標です!」みたいに掲げてしまうと、その瞬間からちょっと胡散臭くなる。ただ、人と人と人と共にあって、巻き込み巻き込まれながら、「なんかいいものできました」的アウトカムが得られたら、それでなんかもうサイコーだなと思う。
なので、私の昨日の体験はマッコーリーのシホ先生的には「通訳じゃありません」ということでしょうが、私はあえて今回の体験を自分の通訳ドはじめの一歩と捉えたいと思っています。