融通無碍なる留学生活

~豪に入っては豪に従います~

国境の越え方

2007年04月26日 | 気付いたこと築いたこと
日本に置いてきてしまって手元にないのだが、西川長夫の「国境の越え方―国民国家論序説」という本はずいぶん昔に読んで感銘を受けた一冊だ。
酒井直樹など国民国家論を述べる多くの人が外国で教鞭をとったり、長く日本国外で活動するなかで、「日本」を鉤括弧に入れ相対的に捕らえ、「ネーション・ステート」と自己との間に距離を意識しつづる。「日本人である私」という自己同一性を本質的に追求することを避け、あくまで国民でありながらも国家というものを監視する態度をとると言ってもいいだろうか、住み慣れた故郷への意識と政治体制への姿勢は同一視しないということ・・・。そして政治体制ばかりでなく、文化も歴史も、そして言語ですらも・・・。

こうした人たちの著作を読むと、「日本人だから~」とか「日本人的な感覚でいくと~」とかそういう言説を形作る一員になることは避けたいかなぁ…と考えるようになるわけです。
ですが、実際自分が外国で暮らしてみて、これでもかというほど「日本だったらあり得ないよね」みたいなことで凹んだりすると、容易に「やっぱ日本がいいよね~!」みたいなセリフが私の心の中で頭をもたげるんであります。

私は思わず自問する。

このときの「日本」ってなんだろう??

「故郷」でもあり、で、やっぱり政治体制としての「国家」でもあるんだろうよ。はっきりくっきりとは割り切ることのできないひとつの総体的な感覚として、やってくるものはやってくる。ここで、もう一回「愛国心」とかいうキーワードについてものを考えてみたりしたら、面白いだろうなとも思う。それでもはやり、本質主義的な感覚一辺倒に陥いることには抗いながら…。


今日、「国境なんて越えられないのか」と思うような話を聞いた。

友人の彼女はオーストラリアでの学生生活を終えたあと、日本に戻らず直接ヨーロッパのとある国で、彼女のパートナーとの新しい生活に踏み出そうとしている。シドニーにある同国の大使館で、もろもろの手続きを進めようとする中、その国がどう論理的に考えても「外国人受け入れ拒否」を政策として取っているという事態に直面する。そしてついでに、心に傷を負ってしまうような冷笑や、「言葉の暴力」とでも呼びたくなる一言も浴びせられた。

数々の制約にしばられながら、網目を縫うようにして進み切って、ようやく「この人」と思える相手のそばに行くことができる。友人の場合は、パートナーが「一緒に戦う」と言ってくれて、数々の不安を抱えながらも、なんとか生活を始めることができそうだ。しかし場合によっては不可能な条件も突きつけられる。その国の国家から「来るな」と言われるということだ。自国民以外の人間はその国家の経済事情を揺るがす危険分子であるからして、国境なんてそう簡単にまたがせないのだ。対形象的に、自分はものすご~く「日本国民」であることを意識せざるを得ないよね。望もうと望まざると。
私は友人に幸せになってもらいたい。彼と共にがんばってほしい。

ここオーストラリアで勉強していると、一日に一回は聞くんじゃないかというくらい、「永住権」、「パーマネント・ビザ」、「PR」(全部同じ意味)という言葉が飛び交っている。移民受け入れの国だけに、そしてこの南の国への憧れなのか、なんなのか、その豊かさなのか、なんなのか、とにかく移住を希望する学生は後を絶たない。
しかし、連邦政府は今年の9月より永住ビザ取得条件を引き上げる方針を発表した。しがみつくようにして、永住権獲得のための策を高ずる海外留学生の姿は、反論を恐れずに言えば、正直言って痛々しい。オーストラリアに残る確固たる目的意識、その国へかかわろうとする自らの存在意義として、説得力ある理由を聞いた試しがない。

まぁ、そんなのいらないのかもしれない。「太陽があるから」「ビーチが素敵だから」っていうので立派な理由なるのかもしれない。でもそうした理由を「国家」は阻む仕組みになっている。
やっぱり「国境」なんて、そう簡単には越えられない。

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