融通無碍なる留学生活

~豪に入っては豪に従います~

「オーストラリア的」ということについて

2007年01月27日 | オーストラリア社会科見学

昨日のオーストラリア・デイ Australia Day を通常「建国記念日」と翻訳しているようだが、それには違和感を感じる。連邦国家が樹立したその日ではないからだ。とはいっても、ダーリング・ハーバーで国旗を振りながら国歌を歌い幸せそうな人々を見るにつけても、やはり国家としてのまとまり、繋がり感を意識させずにはいないイべントになっている。
私の知るアジアからの若い留学生諸君、ナイーヴにもお祭り気分で国旗を1ドルで購入して風になびかせていた。近い将来に彼女たちだって移民としてこの国の"diversity"(人種や宗教などの「多様性」:オーストラリアという国を語る上でのキーワードの一つだ)を形作る一員になるかもしれないのだから、あながちナイーヴでもないのか、なんて思ったりもした。

にこやかに国旗を振っている群集を目にすれば、浮かぶ言葉はかの「愛国心」。だがこの言葉には容易に軍事的な色も付加されかねないから注意が必要だ。

「オーストラリア・デイにおいて、我々が本当に祝っているのものとは何なのか?」

このような問いで始まる本日の新聞記事(Sydney Morning Herald)は、写真のような挿絵のとなりにある。オーストラリア領土における日本侵略を「忘れてはならぬ」と伝えている記事の隣だ。

挿絵記事では、1942年1月23日に日本がオーストラリア領ラバウルRabaulを侵略し、それがオーストラリアが外国からの受けた初めての侵略であること、そしてオーストラリア本土に対し第二次大戦を急速に近づけた侵略であったことを伝えている。近年ではオーストラリアでもこの事実は風化寸前であるという。この事例については、少なくとも私が受けた義務教育、高校教育での「世界史」の授業に登場した記憶はない。昨今では取り上げられることはあるのだろうか。

この侵略により、一般市民も含む1050人の捕虜を乗せた船が日本へ向かった。1942年7月1日、この船が南シナ海を航行中、捕虜が乗っているという情報を得ていなかった連合国軍が、この日本船を撃沈させるという惨事となる。「もっとも非道なことは、この事実は日本がその後降伏するまで(3年半)明らかにされなかったことだ」とこの記事は主張する。さらに記事は、生き残ったオーストラリア兵が日本兵から受けた残虐行為の描写へと続く・・・。


上述の「本当に祝っているのものとは何なのか?」という問いで始まる記事では、1996年の国会演説の中でポリーヌ・ハンソン氏が行った演説を取り上げている。そこでは、国内における対立機軸について触れられる。オーストラリアにおける「主流派」つまり上層階級で「本当のオーストラリア人 real Australians」と、「マイノリティ」つまり下層階級で「オーストラリア人でない人々 un-Australians」だ。
約10年前から、"diversity"の国オーストラリアにおいても、オーストラリア的/非オーストラリア的という二項対立が憂慮されていたというわけだ。

演説部はこう結ばれている。
「『主流派』という考え方こそが、『オーストラリアの常態』という概念を形成してきたのでしょうが、これは別の人々にとっては『非オーストラリア的』なものであり、それが問題となるのです。」

記事は続いて、二次対戦中のプロパガンダの話に及ぶ。1941年カーティン政権は「戦争の道具としての憎しみ」キャンペーンと展開する。1942年、その対象は日本に向けられた。「我々は常に日本軍を恨んできた。今こそ彼らを打ち砕くとき。」

フレーザー元首相は今日、このプロパガンダに対し厳しい批判を寄せている。「オーストラリア市民が、自らの使命に目覚め立ち上がる前に、人為的に憎しみでに満たされるのを必要するだろうか?それほど市民であるということの精神を欠いていると思われるだろうか?」

市民としての精神、愛国心、オーストラリア的であること、これらを強く意識しようとすればするほど、それらが実は実態のない幻想、虚構でしかないという思考に行き着く恐れがある。それを避けるために国家の戦略として、または主流派の戦略として、必要となるのは対立軸である。保身はかならず敵対と対となる。実態のないものを追い求めることは、絶えずそうした危険性に晒されている。

生きた空気感として、肌身に感じるは「フレンドリー」な人々。オーストラリアでのこの日々が、きっとまだまだ奥深いものを見せてくれたらいい。

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2 コメント

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Unknown (ちゃが)
2007-01-28 00:31:00
ラバウル海戦のことって知らなかったんだ。。。
世界史ではやらないんだっけ?
今日の日記は、東南アジア史をやる人には、
かなり身近な問題です。
もし読んだことがなかったら、
ベネディクト・アンダーソン著
『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』
を読んでみてね。
書いてあるのは随分昔の事例だけど、
今、世界で起こっている問題の根底にあるのは
当時と同じ問題だということがわかるから。
そしてオーストラリアもまた
多分にもれず、その一種だということがわかるから。
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Unknown (ajskrim)
2007-01-28 15:16:26
ちゃがネーさん、コメントありがとう!
アンダーソンは院生のころ基本文献として読みましたよ。思考回路を随分と強化してもらった記憶がありますね。当時あれとサイード「オリエンタリズム」などは必読書みたいな感じだったのを思い出します。

いずれにせよ、こうした事例を今もなお、驚くほどの大きなスペースを割いた挿絵とともに語られるという現実に、私たちは敏感である必要を感じています。

一般に観光や留学市場として平和イメージばかりが強いオーストラリアですが、そのあたりと「問題」とのギャップが非常に強いあたりもまた、興味深いことです。
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