雑談56
2023-09-19 | 雑談
九月十九日は糸瓜忌。
『子規 活動する精神』(玉城徹 2002年刊)にしばしば
登場する「別に一体」の周辺を掘ったり拾ったりしていた。
「別に一体」は子規が虚子に宛てた手紙のなかの一言。
──若シ永久のものを求めなバ別に一体を創するにあり。
(1891年12月2日 高濱清(虚子)宛。書簡)
詩歌に於いて永久のものを求めるのなら「別に一体を」、ということ。
「そうではない何か」なのか「なにか別のもの」なのか、
窓は二箇所開けないと風が通らないのに通じることなのか、
未知への希求なのか祖型への遡及なのか。
ともかく別の一体が永久のものへの手がかりになるようだ。
著者は次のようにも考える。
──「別に一体」という欲求は、その後も、ほとんど固定観念のように、
日本の詩歌作者の心に生れかわり、死にかわって、しかも、解決の
道がつかないのである。
語義を突き詰めてまとめて約めて壜に入れてラベルを貼って棚に並べると
別物になってしまいそうなのでここでとどめておく。
ただ『玉城徹訳詩集』の訳の在り方に「別に一体」に近い気配を感じるので、
ちょっと引用。
江南野水碧於天
中有狎鴎閑似我
黄庭堅「演雅」部分
詩の末尾にあたる箇所はこのように訳されている。
さて、この俺は、青空の下 水の上、
のんびりと羽のして飛ぶ一羽の鴎。
杜甫の「飄飄何の似る所ぞ 天地一沙鴎」を連想する。
牧水の「白鳥はかなしからずや」も連想される。
著者による(注)は、も少し踏み込んでいる。
──悠々と江南の野と水の上を飛ぶ鴎を出して、詩人たる自分の在り方
を示したのである。
とあり、さらに、
──こういう詩があるということを知っておくのも、わたしたちが短歌
を作ってゆく上に、非常に役立つのである。
と、とてもありがたいことを説いておられる。