「嫌われ松子の一生」などで知られる中島監督の映画「告白」を見て来た。原作本と映画はどこが違うのか知りたくて、まず小説を読んだ。
面白かった。あっという間に読めた。
小説は複数の人物の一人称による語りや日記といった形式で展開される。何が本当か分からないという点は、芥川の「藪の中」を連想する。ただ、「藪の中」と違って状況描写がまるでないので、観念的だ。
中島監督は、原作にかなり忠実に視覚化の作業を行った。観念の世界を、リアルに映像化するとどうなるか、そこは見どころだ。
物語は、ラストに原作と大きな違いがある。
松たか子演じる森口先生が、少年Aの前に姿を現すのだ。
原作では爆発現場である大学の近くにいて、パトカーや救急車のサイレンを電話ごしに聞かせ、大学の研究室がまさしく爆破されたことを少年に暗示させる。
その彼女を、中島監督はなぜわざわざ少年に対峙させたのか?
さらに、CGを駆使した爆発シーンは、なぜあんなにしつこく、(映画の流れの中で違和感をもつほどに)繰り返されたのか?
森口先生のラストの台詞「なんてね」にはどんな意味があるのか?
こうした点を踏まえ、私は、原作と違い、爆弾は実際には仕掛けられなかった、と読んだ。
理由その1
森口先生が体育館にいたら、爆破の有無を確認する方法がない。にも関わらず少年が爆破のスイッチを押した事を知っていたのは不自然だ。そのためには、解除した爆弾を手元に起き、確かに信号が受信されたことを確認した、と見るのが自然である。
理由その2
しつこいまでの爆破シーンは、少年の脳内妄想映像である。母が少年の写真を見て涙を流すところでもそれは分かる。つまり監督は、リアルな爆破シーンを描いたわけではない。
理由その3
先生は少年に「なぜ関係ない他人を巻込むのか?」と非難する。もし本当に爆弾を仕掛けたなら、彼女に非難する権利は微塵もない。彼女の言動に矛盾が生じてしまう。
理由その4
「なんてね」の意味は、復讐だけを最優先に考えてた彼女が、直前に言った「更生うんぬん」のセリフを否定したものだが、「爆弾を仕掛けたのは嘘」という意味にも取れる。
理由その5
本当に爆弾を仕掛けたら、彼女は少年以上の重い罪に問われ、場合によっては死刑となる。頭のいい彼女が、復讐と引き換えに、そんな身の破滅を招くとは思えない。
「殺人はなぜいけないのか?」 子どもたちは真顔で聞く。
バーチャルの世界に生き、実際に殺人を犯しても現実感を持たない不思議な少年たち。
いじめられる側の心を理解できず、また想像しようともしないいじめの荷担者たち。
監督は一人の大人として、また表現者として、それらに回答する必要性を感じたのではないか?
少年Aは、無垢な養女を殺し、自分を愛し理解しようとした少女も殺し、自分もろとも無関係の多数の教師や生徒を殺す事に何の罪悪感も持たなかった。
それが、愛する母親を自らの手で死なせてしまった悲しみに打たれ、戻らない時間に後悔し、感情をあらわに泣き叫ぶ。本来なら、森口先生に怒り、殴りかかっても良さそうなものだがそれをしない。悲しみの感情が勝っているからだ。
人を殺すとなぜいけないのか? その理由を、想像力をもつ事で少年は初めて知った。
想像力こそ、イジメや殺人、テロや戦争を地上からなくす唯一の解決方法だ、と中島監督はいいたいのではないか?
ここに前作「パコ」と共通するテーマが見てとれる。
爆弾は実は、仕掛けられなかったと仮定しよう。森口先生の嘘だったと。
例え一瞬でも地獄を見せられれば、彼女の復讐はかなうのだろうか。答えは否だ。では何故?
その影には、全てを知りながら少年らの罪を許そうとした彼女の伴侶の熱血先生の思想がある。
エイズに蝕まれ、死の床にいる彼は、彼女に血液を牛乳に混ぜることを許さなかった。(原作では彼が牛乳をすり替えるという違いがある)
自分の娘を殺した相手を許す思想。人類がたどり着けない究極の理想だが、彼の死に様に感化された森口先生が、復讐から更生に方向転化した可能性はある。
原作にない森口先生の号泣シーンは、少年への復讐を諦める気になった母としての無念さの発露ではなかったか?
ところで、小説には様々な矛盾がある。恐らく作者は、理系の知識がかなり欠けている。そこは映画の中でだいぶ改善されている。
ただし最大の矛盾。少年がネットで爆破予告をあそこまであからさまにしたら、森口先生が爆弾を解除する以前に警察が介入し、また生徒らが見つけて大騒ぎになり、間違っても大量殺人が成功することはない、という問題は、さすがにそのままだった。
少年が自分の死と同時に自動的に公開する予定の映像を、森口先生がハッキングして盗み見た、とした方が自然ではなかったかと、老婆心ながら考えてしまう。
ともあれ、映画はよくできている。小説と映画の両方を見ることをおすすめしたい。
あなたはどんな感想を持ちますか?
面白かった。あっという間に読めた。
小説は複数の人物の一人称による語りや日記といった形式で展開される。何が本当か分からないという点は、芥川の「藪の中」を連想する。ただ、「藪の中」と違って状況描写がまるでないので、観念的だ。
中島監督は、原作にかなり忠実に視覚化の作業を行った。観念の世界を、リアルに映像化するとどうなるか、そこは見どころだ。
物語は、ラストに原作と大きな違いがある。
松たか子演じる森口先生が、少年Aの前に姿を現すのだ。
原作では爆発現場である大学の近くにいて、パトカーや救急車のサイレンを電話ごしに聞かせ、大学の研究室がまさしく爆破されたことを少年に暗示させる。
その彼女を、中島監督はなぜわざわざ少年に対峙させたのか?
さらに、CGを駆使した爆発シーンは、なぜあんなにしつこく、(映画の流れの中で違和感をもつほどに)繰り返されたのか?
森口先生のラストの台詞「なんてね」にはどんな意味があるのか?
こうした点を踏まえ、私は、原作と違い、爆弾は実際には仕掛けられなかった、と読んだ。
理由その1
森口先生が体育館にいたら、爆破の有無を確認する方法がない。にも関わらず少年が爆破のスイッチを押した事を知っていたのは不自然だ。そのためには、解除した爆弾を手元に起き、確かに信号が受信されたことを確認した、と見るのが自然である。
理由その2
しつこいまでの爆破シーンは、少年の脳内妄想映像である。母が少年の写真を見て涙を流すところでもそれは分かる。つまり監督は、リアルな爆破シーンを描いたわけではない。
理由その3
先生は少年に「なぜ関係ない他人を巻込むのか?」と非難する。もし本当に爆弾を仕掛けたなら、彼女に非難する権利は微塵もない。彼女の言動に矛盾が生じてしまう。
理由その4
「なんてね」の意味は、復讐だけを最優先に考えてた彼女が、直前に言った「更生うんぬん」のセリフを否定したものだが、「爆弾を仕掛けたのは嘘」という意味にも取れる。
理由その5
本当に爆弾を仕掛けたら、彼女は少年以上の重い罪に問われ、場合によっては死刑となる。頭のいい彼女が、復讐と引き換えに、そんな身の破滅を招くとは思えない。
「殺人はなぜいけないのか?」 子どもたちは真顔で聞く。
バーチャルの世界に生き、実際に殺人を犯しても現実感を持たない不思議な少年たち。
いじめられる側の心を理解できず、また想像しようともしないいじめの荷担者たち。
監督は一人の大人として、また表現者として、それらに回答する必要性を感じたのではないか?
少年Aは、無垢な養女を殺し、自分を愛し理解しようとした少女も殺し、自分もろとも無関係の多数の教師や生徒を殺す事に何の罪悪感も持たなかった。
それが、愛する母親を自らの手で死なせてしまった悲しみに打たれ、戻らない時間に後悔し、感情をあらわに泣き叫ぶ。本来なら、森口先生に怒り、殴りかかっても良さそうなものだがそれをしない。悲しみの感情が勝っているからだ。
人を殺すとなぜいけないのか? その理由を、想像力をもつ事で少年は初めて知った。
想像力こそ、イジメや殺人、テロや戦争を地上からなくす唯一の解決方法だ、と中島監督はいいたいのではないか?
ここに前作「パコ」と共通するテーマが見てとれる。
爆弾は実は、仕掛けられなかったと仮定しよう。森口先生の嘘だったと。
例え一瞬でも地獄を見せられれば、彼女の復讐はかなうのだろうか。答えは否だ。では何故?
その影には、全てを知りながら少年らの罪を許そうとした彼女の伴侶の熱血先生の思想がある。
エイズに蝕まれ、死の床にいる彼は、彼女に血液を牛乳に混ぜることを許さなかった。(原作では彼が牛乳をすり替えるという違いがある)
自分の娘を殺した相手を許す思想。人類がたどり着けない究極の理想だが、彼の死に様に感化された森口先生が、復讐から更生に方向転化した可能性はある。
原作にない森口先生の号泣シーンは、少年への復讐を諦める気になった母としての無念さの発露ではなかったか?
ところで、小説には様々な矛盾がある。恐らく作者は、理系の知識がかなり欠けている。そこは映画の中でだいぶ改善されている。
ただし最大の矛盾。少年がネットで爆破予告をあそこまであからさまにしたら、森口先生が爆弾を解除する以前に警察が介入し、また生徒らが見つけて大騒ぎになり、間違っても大量殺人が成功することはない、という問題は、さすがにそのままだった。
少年が自分の死と同時に自動的に公開する予定の映像を、森口先生がハッキングして盗み見た、とした方が自然ではなかったかと、老婆心ながら考えてしまう。
ともあれ、映画はよくできている。小説と映画の両方を見ることをおすすめしたい。
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