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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

子どもを授けてください

2014-01-25 15:16:05 | フーコーのパレーシア

 

 イオンは、自分の生い立ちも知らず、実の父親であるアポロのほかには、誰も事情を知らない。しかし、その彼が、アテネとデルフォイを繋ぐものでした。

 

 

 

 

 

 アテネでは、クレウサは自分の子どもにどんなことが起きていたのか、知りません。クレウサは、自分の子どもが生きているのか、死んでいるのかも知りません。その後クレウサはクスートゥスと結婚しますが、彼は外国の人で、彼が外国人であることが、間もなく、土着性が続くことを複雑にします。だからこそ、クレウサがクスートゥスとの間に後継ぎができることがとても大事です。しかし、この結婚ののち、クスートゥスとクレウサは子どもができません。この戯曲の最後で、ドゥールスとアカイオスが生まれると、アポロが二人に約束します。しかし、この戯曲の初めには、二人は子どもがいないままです。二人は死に物狂いで子供を欲しがりますが、それはアテネの王家を続かせるためです。そして、二人はデルフォイにやってきて、アポロに子どもが授かるようにと祈ります。それで、この劇は始まります。

 

 

 

 

 

 クレウサもクスートゥスも、子どもが授かることを死に物狂いで望みますが、授かりません。アポロに願掛けするために、デルフォイ神殿にお祈りに来ます。しかし、そこに、クレウサの息子がいることを、二人は知りません。

 つづきは、また明日。

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復活 立つものとなるときの“話し言葉”

2014-01-25 09:08:24 | エリクソンの発達臨床心理

 青年マルティンにとって、誰に従うのか、何に従うのが、抜き差しならぬ課題だったのです。なによりも、あいまい好きな日本人にはピンとこない人が多いかもしれません。

 

 

 

 

 

 初期の「あれかこれか」に悩んだ結果、ルターは、神学的に苦闘する大人まで、実際になったのでした。ようやく38才になって、皇帝でもローマ法王でも、ものともしなくなり、神のみ言葉の代弁者となって、ルターは、修道士の誓い(De Votis Monasticis 『修道士の誓いについて』ルターの主著)を捨て去ることを良しとする仕事のきっかけになる状況に中で、血がつながって父親に頼みました。「お父さん たとえ息子を100任失っても、この栄光を手に入れるべきではないですか? … なぜなら、私が神のみ言葉に仕えて、一人立っていることを疑う人はいないからです」。ルターが、とりもなさず、ローマ法王に従わない新たな力を見つけたときに、父親に公然と「私は、結局はお父さんに従うことになります」と言います。だけれども、すべてを投げ打っても正しくありたいという、矛盾する願いを私どもは見逃すことができません。ルターはさらに次のように言います。「お父さんはまだ、(修道院のために)私を引き裂こうというのですが。…お父さんを虚栄心から救うために、神はお父さんかを通り越して、私を神の御許に連れ出してくださいました...。」このように、ルターは世の中すべてに対して述べたのは(彼の著作は当時ベストセラーでしたら)、「私の父は、修道士の仕事に反対したばかりか、その息子の私は、遅まきながら、父親が反対していることに同意したのでした。それは、神の栄光へと向かったのです。父へと向かったのではありません」

 

 

 

 

 

 いつの間にか、父親に従うことと、神に従うことが、一つになっていますね。しかも、神に従うということが何よりも大事なのになっています。その時に大事なのが、神の言葉(話し言葉)なのですね。書いてある言葉ではありません。“話し言葉”であることに注意が必要です。

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