今日もオフ。久しぶりに連休だった。
でも、あまりゆっくりできなかったかな。
まあ、仕方がない。これも人生さ。
明日からあさってにかけては夜勤。
しかも、恐怖の2人夜勤・・・。
さて、昨日、朝日新聞の記事を取り上げたけど、
今日は朝日新聞の記事を取り上げた「日刊ゲンダイ」の記事より。
俳優の佐藤浩市さんが、
今のテレビ界に危機感を表明した記事が話題になっているみたいだ。
もちろん私としてはこういう問題提起を大いに歓迎したい。
これだけテレビから腐臭が漂いまくっているのに、
現場から何の問題提起も出てこないなんて、いくら何でもおかしいでしょう。
「みんなで渡れば怖くない」
多くの俳優がどんどん問題提起をするべきだと思う。
もはやそういう時期に差しかかってきたんじゃないか?
さもないと手遅れになっちゃうよ!
事なかれ主義テレビ界に一石投じた 佐藤浩市の“反骨直言”
いまのテレビドラマのあり方に一石を投じた俳優・佐藤浩市(55)のインタビューの波紋が日に日に広がっている。
先月30日付の朝日新聞朝刊に掲載されたもので、〈ナショナリズムに訴えかけるようなドラマしか、もう残された道はないんだろうか。冗談ですが、そんなことを口にしたくなるほど、テレビドラマの現状は方向性を見失っていると思う〉と厳しい意見を言い放っているのだ。
これまで佐藤は踏み込んだ社会的、政治的な発言はほぼ皆無だっただけに、驚きとともに、業界の惨状を目の当たりにして言わずにいられない俳優としての覚悟が伝わる内容。
ドラマの制作現場は自主規制でがんじがらめで、事なかれ主義に陥っており、自身が数年前に出演したあるドラマではこんなエピソードがあったそうだ。〈昭和30年代の雰囲気を描こうと会議中に皆が喫煙したら、相当数のクレームが来たことがあって。その後、同様の場面は姿を消しましたね〉。
時代考証すらも曲げてしまう、そんな表現の自由を放棄した風潮は〈自らの首を絞めていくだけ〉という佐藤の言葉に、「身につまされた」と嘆くのは、某民放キー局プロデューサーだ。
「シートベルト着用が義務化されてからは、刑事ドラマの十八番であるクルマで逃走するシーンは激減しました。私有地で撮影すれば未着用でもぎりぎりセーフなんですが、放送後の反響を考えたらリスキーなことは最初から避けますね。こうした問題は情報系番組の現場でも言えること。ある地方ロケでは、町中で首輪をつけてヤギの散歩をしていた住民に偶然遭遇して話を聞けたものの、結局、地方自治法の動物愛護に違反する可能性があるからと自主規制をかけてお蔵入りになりました。テレビ全体がクリエーティビティーは二の次で、リスクヘッジが最優先となっています」
今回の佐藤のインタビュー記事を読んだ上智大の碓井広義教授(メディア論)は、「勇気ある発言」とこう続ける。
「いまどきのテレビ界は何か意見すると敬遠されたり、偏見の目で見られる雰囲気があるが、50代半ばという年齢に差しかかり、彼の中で言うべきことは言わなければならないと腹をくくったのでは。もっとも、文化は社会とリンクして生まれるもの。今回の発言は放送界に限った話ではなく、日本社会が抱えている問題の指標にもなり得る。反権力や反戦争の姿勢を貫いた三国連太郎さんの反骨精神のDNAを受け継いだように感じます」
〈この島国では残念ながら、個人が自由に発言できる状況にはないのが現実だと思います〉とインタビューを結んだ佐藤の直言。テレビの現場に関わる人間全ての矜持が問われている。
【時間も金もないので、どうせ読めないだろうけど、面白そうな本】
「ハンナ・アーレント」という映画を観たのは一昨年。
この映画の中でアーレントは
「世界最大の悪はごく平凡な人間が行う悪である」
とする「悪の凡庸さ問題」というのを提起している。
動機も信念も邪心も悪魔的な意図もなく、
ただ組織の歯車として動くことによって思考不能に陥り、
「世界最大の悪」(もちろんユダヤ人大虐殺のこと)を犯してしまったアイヒマン。
そこには人間であることを拒絶した、完全なるモラルの崩壊が見て取れる。
我々平凡な人間にとっても決して他人事ではなく、
誰でも同じような境遇に陥る危険性は常に孕まれている・・・。
非常に今日的な問題提起だと思う。
経済のグローバル化によって中間層が解体され、
感情や教養が劣化した大衆がポピュリズム的な政治によって動員され、
ファシズム的状況に陥る。メディアがそれを助長する・・・。
まさに今の日本がそのような状況に近づいていると感じてしまう。
『ハンナ・アーレント』
(著)矢野久美子
中公新書
『全体主義の起原』『人間の条件』などで知られる
政治哲学者ハンナ・アーレント(1906-75)。
未曽有の破局の世紀を生き抜いた彼女は、
全体主義と対決し、「悪の陳腐さ」を問い、公共性を求めつづけた。
ユダヤ人としての出自、ハイデガーとの出会いとヤスパースによる薫陶、
ナチ台頭後の亡命生活、アイヒマン論争―。
幾多のドラマに彩られた生涯と、強靱でラディカルな思考の軌跡を、
繊細な筆致によって克明に描き出す。
でも、あまりゆっくりできなかったかな。
まあ、仕方がない。これも人生さ。
明日からあさってにかけては夜勤。
しかも、恐怖の2人夜勤・・・。
さて、昨日、朝日新聞の記事を取り上げたけど、
今日は朝日新聞の記事を取り上げた「日刊ゲンダイ」の記事より。
俳優の佐藤浩市さんが、
今のテレビ界に危機感を表明した記事が話題になっているみたいだ。
もちろん私としてはこういう問題提起を大いに歓迎したい。
これだけテレビから腐臭が漂いまくっているのに、
現場から何の問題提起も出てこないなんて、いくら何でもおかしいでしょう。
「みんなで渡れば怖くない」
多くの俳優がどんどん問題提起をするべきだと思う。
もはやそういう時期に差しかかってきたんじゃないか?
さもないと手遅れになっちゃうよ!
事なかれ主義テレビ界に一石投じた 佐藤浩市の“反骨直言”
いまのテレビドラマのあり方に一石を投じた俳優・佐藤浩市(55)のインタビューの波紋が日に日に広がっている。
先月30日付の朝日新聞朝刊に掲載されたもので、〈ナショナリズムに訴えかけるようなドラマしか、もう残された道はないんだろうか。冗談ですが、そんなことを口にしたくなるほど、テレビドラマの現状は方向性を見失っていると思う〉と厳しい意見を言い放っているのだ。
これまで佐藤は踏み込んだ社会的、政治的な発言はほぼ皆無だっただけに、驚きとともに、業界の惨状を目の当たりにして言わずにいられない俳優としての覚悟が伝わる内容。
ドラマの制作現場は自主規制でがんじがらめで、事なかれ主義に陥っており、自身が数年前に出演したあるドラマではこんなエピソードがあったそうだ。〈昭和30年代の雰囲気を描こうと会議中に皆が喫煙したら、相当数のクレームが来たことがあって。その後、同様の場面は姿を消しましたね〉。
時代考証すらも曲げてしまう、そんな表現の自由を放棄した風潮は〈自らの首を絞めていくだけ〉という佐藤の言葉に、「身につまされた」と嘆くのは、某民放キー局プロデューサーだ。
「シートベルト着用が義務化されてからは、刑事ドラマの十八番であるクルマで逃走するシーンは激減しました。私有地で撮影すれば未着用でもぎりぎりセーフなんですが、放送後の反響を考えたらリスキーなことは最初から避けますね。こうした問題は情報系番組の現場でも言えること。ある地方ロケでは、町中で首輪をつけてヤギの散歩をしていた住民に偶然遭遇して話を聞けたものの、結局、地方自治法の動物愛護に違反する可能性があるからと自主規制をかけてお蔵入りになりました。テレビ全体がクリエーティビティーは二の次で、リスクヘッジが最優先となっています」
今回の佐藤のインタビュー記事を読んだ上智大の碓井広義教授(メディア論)は、「勇気ある発言」とこう続ける。
「いまどきのテレビ界は何か意見すると敬遠されたり、偏見の目で見られる雰囲気があるが、50代半ばという年齢に差しかかり、彼の中で言うべきことは言わなければならないと腹をくくったのでは。もっとも、文化は社会とリンクして生まれるもの。今回の発言は放送界に限った話ではなく、日本社会が抱えている問題の指標にもなり得る。反権力や反戦争の姿勢を貫いた三国連太郎さんの反骨精神のDNAを受け継いだように感じます」
〈この島国では残念ながら、個人が自由に発言できる状況にはないのが現実だと思います〉とインタビューを結んだ佐藤の直言。テレビの現場に関わる人間全ての矜持が問われている。
【時間も金もないので、どうせ読めないだろうけど、面白そうな本】
「ハンナ・アーレント」という映画を観たのは一昨年。
この映画の中でアーレントは
「世界最大の悪はごく平凡な人間が行う悪である」
とする「悪の凡庸さ問題」というのを提起している。
動機も信念も邪心も悪魔的な意図もなく、
ただ組織の歯車として動くことによって思考不能に陥り、
「世界最大の悪」(もちろんユダヤ人大虐殺のこと)を犯してしまったアイヒマン。
そこには人間であることを拒絶した、完全なるモラルの崩壊が見て取れる。
我々平凡な人間にとっても決して他人事ではなく、
誰でも同じような境遇に陥る危険性は常に孕まれている・・・。
非常に今日的な問題提起だと思う。
経済のグローバル化によって中間層が解体され、
感情や教養が劣化した大衆がポピュリズム的な政治によって動員され、
ファシズム的状況に陥る。メディアがそれを助長する・・・。
まさに今の日本がそのような状況に近づいていると感じてしまう。
『ハンナ・アーレント』
(著)矢野久美子
中公新書
『全体主義の起原』『人間の条件』などで知られる
政治哲学者ハンナ・アーレント(1906-75)。
未曽有の破局の世紀を生き抜いた彼女は、
全体主義と対決し、「悪の陳腐さ」を問い、公共性を求めつづけた。
ユダヤ人としての出自、ハイデガーとの出会いとヤスパースによる薫陶、
ナチ台頭後の亡命生活、アイヒマン論争―。
幾多のドラマに彩られた生涯と、強靱でラディカルな思考の軌跡を、
繊細な筆致によって克明に描き出す。