(1969/コンスタンタン・コスタ=ガヴラス監督・共同脚本/イヴ・モンタン、ジャン=ルイ・トランティニャン、ジャック・ペラン、フランソワ・ペリエ、イレーネ・パパス、レナート・サルヴァトーリ、マルセル・ボズフィ、シャルル・デネ/126分)
ミキス・テオドラキスのテーマ曲が印象的で、封切時にとても観たかったのに見逃した映画です。
「その男ゾルバ(1964)」、「魚が出てきた日(1967)」などの、カラッとした地中海気候と民族音楽を思わせる独特の音色が個性的なギリシャの音楽家テオドラキス。今回、ネットで情報を確認しましたら、彼には音楽家以外に政治家の顔もあり、1960年代には軍事クーデターで逮捕された事もあったとか。まさしく、この映画の時代に軍事政権の怖さを体験していたわけで、今作へのかかわりには人一倍の感慨があったものと推察されます。
「告白(1969)」、「戒厳令(1973)」と続くコスタ=ガヴラス監督のポリティカル・サスペンス三部作の1作目で、公開時情報では製作が甘いマスクのフランス俳優ジャック・ペラン(「鞄を持った女」)というのも意外でした。ペランは「戒厳令」の製作者でもあり、「Z」では事件の裏を暴いていく重要なジャーナリストの役を演じています。
フランスとアルジェリアの合作なので、ずっとアルジェリア問題を扱った映画だと思っておりましたら、今回、ギリシャで63年に起きた自由主義者ランブスキ暗殺事件に材をとったものだと知りました。ヴァシリ・ヴァシリコスの原作があり、ガヴラスとホルヘ・センプランによる脚色であります。
「Z」とは、モンタン扮する野党党首の別称。古代ギリシャ語で“彼は生きている”という意味らしいです。
キリスト教右派と軍・警察が力を持っている地中海沿いのある国で、次期大統領の呼び声が高い、いわゆるリベラル派の野党党首が演説会の終了後、二人の暴漢に襲われ、その後病院で亡くなる。暴漢は日本製の軽三輪に乗って演説会後の群衆の中に突っ込み、荷台に乗った男が棍棒で“Z”を殴ったんだが、警察当局は酔っぱらい運転によるひき逃げ事故だと主張する。
冒頭、軍や与党の関係者を集めた会議で、憲兵隊司令官が反政府思想を農作物を荒らす疫病になぞらえて演説するのが象徴的で、映画は今回の事件が彼らの計画であることをあからさまに匂わせています。野党の演説会を妨害する一団も上からの命令で動いているのは明白なのに、観てる方には官憲がどこまで関与していて、個別にはどういう関係なのかは分からない。この後少しずつ明らかになっていく裏事情がファシズムの怖さを伝えています。
演説会の前には匿名で“Z”暗殺の情報も出てくる。予定していた演説会場は急に使用中止となり、警察に抗議に行くと別の小さな会場を薦められる。会場には入れない野党支援者と、それに反対する人々。緊迫する雰囲気の中で今回の事件は起きたわけです。
その夜、街ではボリショイ・バレエ団の公演があり、事件の前に野党の相談を受けていた検事(ペリエ)も観劇していたが、事故の通報を受けて慌てて病院にやって来る。暗殺計画とは無縁のようだが、大事(おおごと)にならない事だけに気を使う役人の扱いも嘲笑的であります。
序盤で何気なく紹介された予審判事(トランティニアン)が事件を担当することになり、死亡した“Z”の解剖の結果、死因が事故ではなく意図的な頭部への殴打によるものと判る。実行犯をよく知る一般市民が犯行予告ともとれる裏話などを判事に証言しようとして、途中で“Z”と同じ様な目に遭い、演説会から取材を続けている報道カメラマン(ペラン)は、病院の彼を取材して実行犯の仲間を特定することに成功する。こうした判事と報道カメラマンの活動を通して、組織化された暴漢達のグループの背後関係が分かってくる。
やがて判事は、軍や警察及び過激な右派の共謀による犯行との確信を得る。これも胡散臭い検事総長からは脅しとも取れる忠告を受けるが、それを無視して、判事は“良心に従い”憲兵隊司令官や警察署長らを起訴するのだが・・・。
オープニングロールの後には、ガヴラスとセンプランの連名で『現実の事件や人物との類似は“意図的”です』との挑戦的な注釈文が流されます。
“Z”の私的な女性関係がフラッシュバックで流れたりして、これは必要なのかな?と思わせないでもないですが、そういった個人的な事情には流されないで、皮肉を込めたおかしみを滲ませながら、時にドライに、時にドキュメンタリーのように事件を描いた秀作であります。
イレーネ・パパスは“Z”の妻、レナート・サルヴァトーリとマルセル・ボズフィ(「フレンチ・コネクション」)が実行犯、シャルル・デネ(私のように美しい娘)は“Z”の支援者の中核の弁護士の役でした。
▼(ネタバレ注意)
終盤で流されるナレーションが、強烈。
裁判が始まるも、七人の証人は事故や病気で全員死亡。野党関係者も謎の死をとげたり、収容所に入れられたりする。新聞記者も予審判事も冷遇されるが、実行犯の刑期は半分に軽減される。軍や警察関係者は全員不起訴となり、これに怒った国民の声に時の内閣は総辞職、総選挙の結果は野党側の圧勝となる予定だったが、結果が出る前に軍がクーデターを起こし、政権を掌握する。
軍事政権が国民に課した禁止事項。
長髪、ミニスカート、ソフォクレス、トルストイ、エウリピディス、ソ連よりの思想、ストライキ、サルトル、ピンター、アリストファネス、報道の自由、ベケット、ドストエフスキー、現代音楽、ポピュラー音楽、現代数学・・・
▲(解除)
1969年のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、脚色賞にノミネートされ、外国語映画賞と編集賞を受賞したそうです。
カンヌ国際映画祭でもパルム・ドールにノミネート、審査員賞(コスタ=ガヴラス)、男優賞(トランティニャン)を受賞、ゴールデン・グローブ、英国アカデミー、NY批評家協会などでも栄誉に輝いたそうです。
尚、軍事政権まっただ中のギリシャでは、この映画は上映禁止になったそうです。むべなるかな。
ミキス・テオドラキスのテーマ曲が印象的で、封切時にとても観たかったのに見逃した映画です。
「その男ゾルバ(1964)」、「魚が出てきた日(1967)」などの、カラッとした地中海気候と民族音楽を思わせる独特の音色が個性的なギリシャの音楽家テオドラキス。今回、ネットで情報を確認しましたら、彼には音楽家以外に政治家の顔もあり、1960年代には軍事クーデターで逮捕された事もあったとか。まさしく、この映画の時代に軍事政権の怖さを体験していたわけで、今作へのかかわりには人一倍の感慨があったものと推察されます。
「告白(1969)」、「戒厳令(1973)」と続くコスタ=ガヴラス監督のポリティカル・サスペンス三部作の1作目で、公開時情報では製作が甘いマスクのフランス俳優ジャック・ペラン(「鞄を持った女」)というのも意外でした。ペランは「戒厳令」の製作者でもあり、「Z」では事件の裏を暴いていく重要なジャーナリストの役を演じています。
フランスとアルジェリアの合作なので、ずっとアルジェリア問題を扱った映画だと思っておりましたら、今回、ギリシャで63年に起きた自由主義者ランブスキ暗殺事件に材をとったものだと知りました。ヴァシリ・ヴァシリコスの原作があり、ガヴラスとホルヘ・センプランによる脚色であります。
「Z」とは、モンタン扮する野党党首の別称。古代ギリシャ語で“彼は生きている”という意味らしいです。
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キリスト教右派と軍・警察が力を持っている地中海沿いのある国で、次期大統領の呼び声が高い、いわゆるリベラル派の野党党首が演説会の終了後、二人の暴漢に襲われ、その後病院で亡くなる。暴漢は日本製の軽三輪に乗って演説会後の群衆の中に突っ込み、荷台に乗った男が棍棒で“Z”を殴ったんだが、警察当局は酔っぱらい運転によるひき逃げ事故だと主張する。
冒頭、軍や与党の関係者を集めた会議で、憲兵隊司令官が反政府思想を農作物を荒らす疫病になぞらえて演説するのが象徴的で、映画は今回の事件が彼らの計画であることをあからさまに匂わせています。野党の演説会を妨害する一団も上からの命令で動いているのは明白なのに、観てる方には官憲がどこまで関与していて、個別にはどういう関係なのかは分からない。この後少しずつ明らかになっていく裏事情がファシズムの怖さを伝えています。
演説会の前には匿名で“Z”暗殺の情報も出てくる。予定していた演説会場は急に使用中止となり、警察に抗議に行くと別の小さな会場を薦められる。会場には入れない野党支援者と、それに反対する人々。緊迫する雰囲気の中で今回の事件は起きたわけです。
その夜、街ではボリショイ・バレエ団の公演があり、事件の前に野党の相談を受けていた検事(ペリエ)も観劇していたが、事故の通報を受けて慌てて病院にやって来る。暗殺計画とは無縁のようだが、大事(おおごと)にならない事だけに気を使う役人の扱いも嘲笑的であります。
序盤で何気なく紹介された予審判事(トランティニアン)が事件を担当することになり、死亡した“Z”の解剖の結果、死因が事故ではなく意図的な頭部への殴打によるものと判る。実行犯をよく知る一般市民が犯行予告ともとれる裏話などを判事に証言しようとして、途中で“Z”と同じ様な目に遭い、演説会から取材を続けている報道カメラマン(ペラン)は、病院の彼を取材して実行犯の仲間を特定することに成功する。こうした判事と報道カメラマンの活動を通して、組織化された暴漢達のグループの背後関係が分かってくる。
やがて判事は、軍や警察及び過激な右派の共謀による犯行との確信を得る。これも胡散臭い検事総長からは脅しとも取れる忠告を受けるが、それを無視して、判事は“良心に従い”憲兵隊司令官や警察署長らを起訴するのだが・・・。
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オープニングロールの後には、ガヴラスとセンプランの連名で『現実の事件や人物との類似は“意図的”です』との挑戦的な注釈文が流されます。
“Z”の私的な女性関係がフラッシュバックで流れたりして、これは必要なのかな?と思わせないでもないですが、そういった個人的な事情には流されないで、皮肉を込めたおかしみを滲ませながら、時にドライに、時にドキュメンタリーのように事件を描いた秀作であります。
イレーネ・パパスは“Z”の妻、レナート・サルヴァトーリとマルセル・ボズフィ(「フレンチ・コネクション」)が実行犯、シャルル・デネ(私のように美しい娘)は“Z”の支援者の中核の弁護士の役でした。
▼(ネタバレ注意)
終盤で流されるナレーションが、強烈。
裁判が始まるも、七人の証人は事故や病気で全員死亡。野党関係者も謎の死をとげたり、収容所に入れられたりする。新聞記者も予審判事も冷遇されるが、実行犯の刑期は半分に軽減される。軍や警察関係者は全員不起訴となり、これに怒った国民の声に時の内閣は総辞職、総選挙の結果は野党側の圧勝となる予定だったが、結果が出る前に軍がクーデターを起こし、政権を掌握する。
軍事政権が国民に課した禁止事項。
長髪、ミニスカート、ソフォクレス、トルストイ、エウリピディス、ソ連よりの思想、ストライキ、サルトル、ピンター、アリストファネス、報道の自由、ベケット、ドストエフスキー、現代音楽、ポピュラー音楽、現代数学・・・
▲(解除)
1969年のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、脚色賞にノミネートされ、外国語映画賞と編集賞を受賞したそうです。
カンヌ国際映画祭でもパルム・ドールにノミネート、審査員賞(コスタ=ガヴラス)、男優賞(トランティニャン)を受賞、ゴールデン・グローブ、英国アカデミー、NY批評家協会などでも栄誉に輝いたそうです。
尚、軍事政権まっただ中のギリシャでは、この映画は上映禁止になったそうです。むべなるかな。
・お薦め度【★★★★★=大いに見るべし!】
で、たしか受賞の時には作品賞でなく外国語映画賞での受賞だったことに、製作者が抗議したとかいうエピソードもあったような記憶が。
でも69年は「真夜中のカーボーイ」「明日に向って撃て!」「1000日のアン」と揃ってた激戦の年だったんだから、『作品賞じゃないから抗議』ってのは、いかがなもんかと思いました。
作りによっては暗く退屈な作品になる恐れもあったと思うんですが、コスタ=ガブラスは実に面白く撮っていて、当時(高校時代)は圧倒されましたね。久々に見直してみたい作品の一つです。
技巧派の監督なんだと思っていたら、それ以降の作品は非常にストレートで、この「Z」だけが彼の作品系列の中では少し異色のような気がします。
ガブラス作品は、これ以外はずっと後の「マッド・シティ」くらいしか観てません。ダスティン・ホフマンとトラボルタ共演のちょっと変わった視点の作品でした。
ストレートなサスペンス、観てみたいですね。
カセットに録音してよく聴いていました。
>私的な女性関係がフラッシュバック
僕もこの回想は構成上気に入らない点ではありますが、しかし、こういうぎこちなさが怪我の功名というか、妙な迫力になっているような印象がありました。本文と同じで芸のない文章ですが(笑)。
>類似は“意図的”
これも強烈ですね。
フランスで作ったとは言え、こんな表現ができるとはねえ。
日本映画は殆ど史実として知られていることも、時にぼかして描かなければならない。
必ずしも誉めている作品でなくても、法律対抗のアメリカは実名を出して映画化できるのはどうしてでしょう?
映画会社の法律部門が頑張っていると言えばそれまでですが。
しかし、今観ても実に怖い映画。
こういう恐怖政治は時代が変わってもどこかの国で起こっていますからね。
日本でも、民主党のだらしなさと官僚の狡賢さを描き出したら、面白い映画が出来ると思うんですけどねぇ。
>カセットに録音してよく聴いていました
当時はラジオでもよく流れていた記憶がありますネ。