(1970/ボブ・ラフェルソン監督・製作・脚本/ジャック・ニコルソン、カレン・ブラック、ビリー・グリーン・ブッシュ、 ロイス・スミス、スーザン・アンスパッチ/98分)
ボブ・ラフェルソンの2作目にして、彼の最高作。
人生に希望も目的も見いだせない男を主人公に、男と女の愛情の拠り所の違い、家族の絆の儚さを描いて、アメリカン・ニューシネマの中でも出色の作品である。
1970年度アカデミー賞では、作品賞、主演男優賞(ジャック・ニコルソン)、助演女優賞(カレン・ブラック)、脚本賞(ラフェルソン、エイドリアン・ジョイス)にノミネートされ、NY批評家協会賞では作品賞、助演女優賞、監督賞を受賞した。ブラックは、G・G賞でも助演女優賞を受賞した。
『その無造作とも思えるカメラワーク、場面展開が見事にストーリーにマッチして・・・』との印象があったのに、数十年ぶりに観てみると、意外にも計算された演出であったことに気付いた。ニコルソン初めての主演作だと思うが、主人公ボビーはその後の彼の原点とも言うべき人物像であり、ニコルソン無くしてはあり得ない役だった。
ニコルソンが出ているし、タイトルが似ているので前年の「イージー・ライダー」を連想させる(ポスターのロゴも似ていた)が、コチラは日本では全然ヒットしなかった。実はどちらの作品も、製作総指揮はバート・シュナイダーでした。
音楽家の父親を持ち、姉はピアノ、兄もバイオリンの演奏家という裕福な音楽一家に生まれながら、3年前に家を飛び出したボビー。あちこちで根無し草のような生活をして、今は石油の採掘現場で働き、レストランのウェイトレスをしているレイと同棲している。
男に依存して生きるのが性に合っているレイは、それでも歌手になるのが夢で、ボビーに彼女の音楽の才能を磨いて欲しいなどと本気で思っている。
ある日、レコードの録音をしている姉を訪ねてみると、父親の体調が思わしくなく、重篤な状態であることを知らされる。
数日後、一人実家を訪れてみようとするボビーに、自分も付いていくと言うレイ。車で実家の近くまで行くが、レイには一旦様子を見てくるからと説明してモーテルに泊まらせる。
3年ぶりの実家。父親は車椅子に座れるものの、話すことも出来ない状態だった。兄は先日の姉の話の通り、交通事故でむち打ち症になり、首にコルセットを巻いている。バイオリンの演奏が出来なくて、弟子だという若い彼女、キャサリンにピアノを教えている。
兄も姉も嫌いじゃないけど、ハメを外すことがないライフ・スタイルは、相も変わらずボビーをイライラさせるものだった。兄の留守中に、真面目ぶったキャサリンに言い寄り、肉体関係をもつが、身体だけではない部分で自分を理解しようとしてくれる彼女は、やはりレイとは違うと感じた。ひょっとしたら、この女とならうまくやれるかも知れない。ボビーがそう思った頃、痺れを切らしたレイが、タクシーでやって来るのだった・・・。
「イージー・ライダー」では娼婦のちょい役だったカレン・ブラックが、教養もデリカシーも無い女を演じてこれも出色。
77年の「カプリコン・1」まではそれなりの映画に出ていたようだが、その後の作品は話題にならないものばかり。それ以前の「華麗なるギャツビー(1974)」も「ファミリー・プロット(1976)」も、下層階級の女性の役だったような気がする。
▼(ネタバレ注意)
『兄と別れて俺と暮らさないか?』というボビーにキャサリンが言う。『自分を愛することも尊敬することも出来ない人、家族や仕事に愛情を持たない人が、他人に愛を求められるの?そんな権利はないわ』
父親の介護をしている住み込みのヘルパーの男性と、オールドミスの姉がいちゃついているのを見たボビーが、家の中で格闘してあっさり倒されてしまうエピソードもあったりして、だんだん居心地が悪くなる。
車椅子の父親をボビーが外に連れだして、涙ながらに話をする場面がこの映画のハイライトだ。
『オヤジが口が利けたら会話にならないだろうが・・・』と、ボビーは自分の心情を吐露する。『とにかく、謝るしかない。オヤジの思っているような人間にはなれない。旅から旅の暮らしをするのは、本物を求めてじゃない。俺が其処にいると、廻りが悪くなるからだ』
セリフは途切れ途切れで、言葉を端折っているから正確には再現できないが、意味はそんなところだったと思う。
キャサリンにも振られ居場所がなくなったボビーは、レイと一緒に実家を離れることにする。
ラストシーンが、ニュー・シネマらしく印象的。
ガソリン・スタンドに立ち寄ったボビーは、レイがコーヒーを買いに行った隙に、折良く通りかかった木材運搬トラックに、車が壊れたと言って乗せてもらうのだ。スタンドを後にして向こうへ遠ざかるトラックのロング・ショット。そのスクリーンの反対側には、給油の済んだボビーの車の横で彼を探しているレイが小さく立っている。(エンドクレジット)
その後の二人の成り行きについては否定的にとらえる意見が多かったし、私も当時は呆然と見ていたと思う。ところが今回は、あれはボビーの再出発のシーンだという思いの方が強かったです。トラックに乗る直前には、ボビーが公衆トイレで考え込んでいるシーンがあり、あれはキャサリンや父親と本音で話をした結果、自分を変えようと考えたのではないか、そんな風に感じましたな。
▲(解除)
レイがいつもかけているレコードがC&Wミュージックで、冒頭に流れてくるタミー・ウィネットの名曲「♪Stand by Your Man 」が何とも哀しげで、この曲を聴くとこの映画を思い出します。
タイトルの【 Five Easy Pieces 】とは、<日本で言うバイエル教則本のような、最初にピアノで習う教則本の事>らしいです。
尚、カメラも「イージー・ライダー」と同じラズロ・コヴァックスでした。
・「ファイブ・イージー・ピーセス」における別れの予感の演出
ボブ・ラフェルソンの2作目にして、彼の最高作。
人生に希望も目的も見いだせない男を主人公に、男と女の愛情の拠り所の違い、家族の絆の儚さを描いて、アメリカン・ニューシネマの中でも出色の作品である。
1970年度アカデミー賞では、作品賞、主演男優賞(ジャック・ニコルソン)、助演女優賞(カレン・ブラック)、脚本賞(ラフェルソン、エイドリアン・ジョイス)にノミネートされ、NY批評家協会賞では作品賞、助演女優賞、監督賞を受賞した。ブラックは、G・G賞でも助演女優賞を受賞した。
『その無造作とも思えるカメラワーク、場面展開が見事にストーリーにマッチして・・・』との印象があったのに、数十年ぶりに観てみると、意外にも計算された演出であったことに気付いた。ニコルソン初めての主演作だと思うが、主人公ボビーはその後の彼の原点とも言うべき人物像であり、ニコルソン無くしてはあり得ない役だった。
ニコルソンが出ているし、タイトルが似ているので前年の「イージー・ライダー」を連想させる(ポスターのロゴも似ていた)が、コチラは日本では全然ヒットしなかった。実はどちらの作品も、製作総指揮はバート・シュナイダーでした。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/5c/c9fc284b602b3c1c775b9c3396b65038.jpg)
男に依存して生きるのが性に合っているレイは、それでも歌手になるのが夢で、ボビーに彼女の音楽の才能を磨いて欲しいなどと本気で思っている。
ある日、レコードの録音をしている姉を訪ねてみると、父親の体調が思わしくなく、重篤な状態であることを知らされる。
数日後、一人実家を訪れてみようとするボビーに、自分も付いていくと言うレイ。車で実家の近くまで行くが、レイには一旦様子を見てくるからと説明してモーテルに泊まらせる。
3年ぶりの実家。父親は車椅子に座れるものの、話すことも出来ない状態だった。兄は先日の姉の話の通り、交通事故でむち打ち症になり、首にコルセットを巻いている。バイオリンの演奏が出来なくて、弟子だという若い彼女、キャサリンにピアノを教えている。
兄も姉も嫌いじゃないけど、ハメを外すことがないライフ・スタイルは、相も変わらずボビーをイライラさせるものだった。兄の留守中に、真面目ぶったキャサリンに言い寄り、肉体関係をもつが、身体だけではない部分で自分を理解しようとしてくれる彼女は、やはりレイとは違うと感じた。ひょっとしたら、この女とならうまくやれるかも知れない。ボビーがそう思った頃、痺れを切らしたレイが、タクシーでやって来るのだった・・・。
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「イージー・ライダー」では娼婦のちょい役だったカレン・ブラックが、教養もデリカシーも無い女を演じてこれも出色。
77年の「カプリコン・1」まではそれなりの映画に出ていたようだが、その後の作品は話題にならないものばかり。それ以前の「華麗なるギャツビー(1974)」も「ファミリー・プロット(1976)」も、下層階級の女性の役だったような気がする。
▼(ネタバレ注意)
『兄と別れて俺と暮らさないか?』というボビーにキャサリンが言う。『自分を愛することも尊敬することも出来ない人、家族や仕事に愛情を持たない人が、他人に愛を求められるの?そんな権利はないわ』
父親の介護をしている住み込みのヘルパーの男性と、オールドミスの姉がいちゃついているのを見たボビーが、家の中で格闘してあっさり倒されてしまうエピソードもあったりして、だんだん居心地が悪くなる。
車椅子の父親をボビーが外に連れだして、涙ながらに話をする場面がこの映画のハイライトだ。
『オヤジが口が利けたら会話にならないだろうが・・・』と、ボビーは自分の心情を吐露する。『とにかく、謝るしかない。オヤジの思っているような人間にはなれない。旅から旅の暮らしをするのは、本物を求めてじゃない。俺が其処にいると、廻りが悪くなるからだ』
セリフは途切れ途切れで、言葉を端折っているから正確には再現できないが、意味はそんなところだったと思う。
キャサリンにも振られ居場所がなくなったボビーは、レイと一緒に実家を離れることにする。
ラストシーンが、ニュー・シネマらしく印象的。
ガソリン・スタンドに立ち寄ったボビーは、レイがコーヒーを買いに行った隙に、折良く通りかかった木材運搬トラックに、車が壊れたと言って乗せてもらうのだ。スタンドを後にして向こうへ遠ざかるトラックのロング・ショット。そのスクリーンの反対側には、給油の済んだボビーの車の横で彼を探しているレイが小さく立っている。(エンドクレジット)
その後の二人の成り行きについては否定的にとらえる意見が多かったし、私も当時は呆然と見ていたと思う。ところが今回は、あれはボビーの再出発のシーンだという思いの方が強かったです。トラックに乗る直前には、ボビーが公衆トイレで考え込んでいるシーンがあり、あれはキャサリンや父親と本音で話をした結果、自分を変えようと考えたのではないか、そんな風に感じましたな。
▲(解除)
レイがいつもかけているレコードがC&Wミュージックで、冒頭に流れてくるタミー・ウィネットの名曲「♪Stand by Your Man 」が何とも哀しげで、この曲を聴くとこの映画を思い出します。
タイトルの【 Five Easy Pieces 】とは、<日本で言うバイエル教則本のような、最初にピアノで習う教則本の事>らしいです。
尚、カメラも「イージー・ライダー」と同じラズロ・コヴァックスでした。
・「ファイブ・イージー・ピーセス」における別れの予感の演出
・お薦め度【★★★★=友達にも薦めて】 ![テアトル十瑠](http://8seasons.life.coocan.jp/img/TJ-1.jpg)
![テアトル十瑠](http://8seasons.life.coocan.jp/img/TJ-1.jpg)
主人公の生き方にも、映画全体にも、すごく共感できるような、全く共感できないような、なんだかどう受け止めればいいのか分からないという印象が残っています。
実は廉価のDVDを店頭で見かけて、どうしよう見直してみようかな、でも見ないで昔の印象をそのままそっとしておこうかな、なんて迷ってたところでした。
どの場面も映像には非常に惹きつけられた記憶があるんですが、ラズロ・コヴァックスでしたか。
再見しても、良くできていると思いましたよ。
地味だけど、記憶に残っている絵でしたね。
渋い!