高崎タワー美術館「伊豆市近代日本画コレクション展ー巨匠たちが愛した修善寺」展1の続きです。
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今回展示が多めだったのが、石井林響と広瀬長江(1884~1917)。
1の日記の画家たちに比べ、そんなにネームバリューのない二人だけど、この二人は靫彦よりも早い時期から新井旅館の沐芳と知り合いだった。
そもそも広瀬長江が、沐芳と紅児会仲間の靫彦を合わせた。青邨を紅児会に紹介したのも長江。名前すら知らなかったのが申し訳ないけど、Good Job。
長江の絵は、「妓女」「若衆と娘」など、浮世絵のような流麗なラインの肢体が美しい、風俗画のような世界。大正3年に喀血した際には、靫彦はお見舞金集めに奔走したそう。沐芳も長江を後援会で支援し、療養にも力を貸したそう。
33歳で亡くなってなかったら、どんな世界に展開していったのだろう。他の紅児会メンバーがこのあとあんなにも画風を変遷させるのだから、もしかしたら、ぶっとんだ新・風俗画を世に送り出したかもしれない。
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さて、今回高崎まで行ったお目当ては、石井林響。
石井林響(1884-1930)との出会いは、山種美術館「日本画の教科書 東京編」(日記)。
「総南の旅からー隧道口」1921
そのあと、竹橋の近代美術館で「野趣二題 枝間の歌・池中の舞」昭和2年 が展示されるのを見に行った。
画像だとなにがなんだかわからなくなっちゃったけど、2m以上ある大きな絵。ナマズや亀やカエルや小鳥のパラダイスである。
モチーフは違えど、池大雅や浦上玉堂のような生気。小川芋銭のような小さなものへ向けるまなざし。魅惑的な世界だった。
展覧会の後で本を借りたので、経歴を以下に抜粋(「房総ゆかりの画家石井林響展」2006城西国際大学水田美術館、「林響をめぐる画家たち」平成2年千葉県立美術館より)。
1884年(明治17年) 千葉県生まれ。今の千葉市緑区付近。
《明治30年代》 最初は洋画を学ぶものの、16歳で上京した時に、大観・観山・春草らの作品を見て日本画に開眼。橋本雅邦の門下に入り、日本美術院系の画壇での船出となる。主に歴史画を手掛け、よく売れたそう。雅邦にも評価され、なかなかのすべり出し。
《明治40年代》 新井旅館の沐芳と出会う。沐芳は林響の才能を見抜き、修善寺に招待。明治40年から42年まで滞在し、ここで出会った女性と結婚。仲人は沐芳夫妻が務めたそう。修善寺つながりで、紫紅、靫彦、古径、青邨、広瀬長江らと出会い、切磋琢磨。気鋭の若手作家として活躍。
《大正前期》 美術院系仲間が新境地を開き活躍する中、林響だけは取り残された感・・。「十年の失意時代」と言われ、野田九浦には「少しゆるみが来て」と評される。でも自身は、「世間的活動を止めて自己の修養に心を砕いている」と述べている。「円熟した宋画よりも(略)意気旺盛なる明清の文人画のほうがおもしろい」と、林響もまた、ターニングポイントにある。
《大正後期》 文展は帝展に改組、林響は出品をつづけながらも画壇とは距離を置く。色彩も豊かになり、特異な造形感覚で独自の画境を開く。「総南の旅から」もこのころ。
《大網宮谷・白閑亭時代》 かねてより「僕の心は独行疎林にある。煩雑な都会では僕の絵は描けない。詩趣無限の田園生活がしたい」と、大正15年、品川から千葉の大網に転居。画風も南画的傾向を強める。「野趣二題」はこのころ。
昭和4年に、脳出血で一時危篤となるも、回復。
昭和5年、植木屋と椿の木の移植中、座敷に上がったところで脳溢血で倒れる。3日後に死去。45歳。
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今回の展示はすべて、新井旅館に滞在中の明治40年代のもの。文人画風のものではなくて、ちょっと残念だったのだけれど、上記の経歴を知ると納得。靫彦もそうだけれども、みな後にはあんなに個性的な絵を描くのに、20代のころは慎重に描きこんだ絵。そして皆似ていると思っていたのも、美術院系の歴史画ということで、腑に落ちた。
「弘法大師」明治41年は、若さゆえか、線がそろりそろりとしている。でもどっしりした弘法大師。
18歳の大師が悪魔を閉じ込めたという話から、定型の岩と木を排し、円光のみにした。この直球勝負な性格が、後の作風に開花したんだろうか。他の作品でも、細かいよりも、どストレートに行きたい感じじゃないかなと感じた。それでいて、空気や微細な光をつかもうとしている。
「春風駘蕩」明治40年代は、酔った賀知章を抱える姿を馬上に設定している。森には少し光が差し、春のぬるんだ空気が感じられた。
「東方朔」明治40年代も、地面に木漏れ日が。
「松下睡布袋」は、最近お気に入りのおひるね画題。ただ、ぐっすり寝ているんだけれども、もっとふっきれてほしいかな、と勝手なことを思ったり。
「鴛鴦棲穏」は、岩がきっともうすぐいい感じになるんだろう。私は林響の岩に惚れたのだ。
どの絵も、‘‘もっとガンガンいけーっ‘‘って勝手にもどかしくなってる。皆、ここを超えて、ぶっ飛んでいくのね。
一番後の作品、明治末~大正期の「寒山子」は、妙な絵だけれども、これが一番好き。
かすれた墨の棕櫚の葉。計算があるのかないのかわからない幹。謎な顔。寒山はいつも変な、子供のように自由な顔で描かれるけれど、これはもしかして自画像なのかな??
独自の境地を開く、ちょうど境目のところで描いた作でしょう。
できることなら、この流れで続けて、後の林響の作をみてみたい。
上述の画集を見る限りでは、この後、より線は自由になり、とってもいい感じ。自然の気を満喫していた。房総という自然豊かな土地への愛情も感じる作品も。
樹下高士(大正8,9年)(部分)個人蔵
閑郷之図(昭和3年)(部分)船橋市教育委員会蔵
自然の空気、四季の変化に幸せを感じることのできる人なのじゃないかなあ。
実物を見たらどんなに心地よいことでしょう。