高崎市タワー美術館「伊豆市近代日本画コレクション展ー巨匠たちが愛した修善寺」
前期:2017.9.16~ 10.15 後期:10.19 ~ 11.15
群馬だけれど、お目当ては伊豆市のコレクション。
展示作品は20代のものが多いので、まだ画家たちの特徴的な絵ではありませんでした。でも、靫彦、石井林響、青邨、古径と、大好きな画家たちの若いころの試行錯誤の足跡が垣間見えて、新幹線で行った甲斐は大いにありでした。
もう後期になってしまったけど、前期展の記録です。
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修善寺にある新井旅館さんの三代目主人、相原寬太郎(沐芳)(1875~1945)の所蔵品。
沐芳は画家を志したこともある新井旅館の入り婿さん。皇族や文人墨客が逗留し、繁盛していた新井旅館の3代目主人となってからも、まだ評価も定まらない20代の画家たちの支援者になった。
コレクションは画家たちとの交流によって、新井旅館に残された作品が伊豆市に寄贈されたもの。宿代の代わりに置いて行ったり、依頼に応じて描いたり、贈ったり。
画家たちは、永青文庫の「細川護立(1883~1970)と近代の画家たち」展と重なる面々だった。沐芳は護立の8歳年上で、ほぼ同時代。でも沐芳と画家たちとの交流は、護立が彼らのパトロンになるよりももっと前からだった。
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沐芳と画家たちの交流を広げたおおモトは、安田靫彦らしい。
靫彦は奈良で胸を病んで、明治42年から3年間を新井旅館や沼津で療養した。ちょうど靫彦が紅児会で活動した時期。会の仲間の紫紅、古径、青邨らは、靫彦を訪ねて沐芳と出会い、同様にもてなしと支援を受けた。
靫彦と沐芳の交流は生涯続く。
展示の冒頭は、67歳の靫彦が描いた「沐芳の肖像画」だった。梅の咲く下に、着物にマフラー、袖からのぞくラクダの肌着の沐芳。沐芳の7回忌に夫人から依頼されて描いた。靫彦は生前の沐芳のスケッチをしていなかったことをたいへん悔やんだそう。
沐芳の息子の絵もあった(「相原浩二君寿像」)。靫彦の赤ちゃん画というのは初めて見たかな。靫彦が26歳の時。
展示は20代のころなので、歴史画が多い。私の好きな、靫彦のあの「絶妙な間あい」と「黒目が点だけなのに目で語る」、「馥郁たる香り」はまだ途上だったのだけれども、一昨年の安田靫彦展で展示が少なかった時期の作品が見られてうれしい。
「醍醐観花」明治40年
秀吉は靫彦の好みの画題だそう。靫彦は狩野派を参考にしたのだとか。そういえば、禅展で見た秀吉像に似ているような。72歳の「伏見の茶亭」は豊臣家崩壊を予感させる絵だったけれども、この秀吉はなんの暗示もなく春にくつろぎ、足袋の見える足にも秀吉の人柄がのぞく。
「大原行幸」明治44年は、手前にモチーフ、上はゆったり開けるのは、紅児会スタイルなのだそう。花摘みから戻った建礼門院徳子。屋根や山並みの詫びた情感にしみじみ。
「竹内宿祢」明治44年、あかちゃん(のちの応神天皇)をあやす、元祖"イクじい"(笑)。
この目いい~。少しずつ靫彦風なクセが出現してきたかな。
「隻履達磨」大正1~4年 達磨が熊耳山に葬られた後、ある僧が履物の片方を手に西へ去る達磨の姿を見たという伝説。
墨の山並みは、修善寺をほうふつとさせるよう。にじみに見とれてしまう。靫彦には珍しいように思ったけど、彩色の作品に墨の背景を組み合わせることもあったそう。少し微笑む(ちょっとニマっとしてかわいい)顔がとてもよくて、少しずつ靫彦的な目ヂカラが増してきたなあと思う。
本画もいいけれど、下絵や写生がたいへん興味深かった。以前の靫彦展ではほとんどなかったものね。
「項羽」の下絵があるのには感動。補助線も見える。
数枚の「相撲写生」は相撲部屋での素の姿がスケッチされている。エラそうなのとか下っぱみたいなのとか。
鳥獣戯画の研究から生まれた、26歳の靫彦の「カチカチ山」絵巻には思わず笑み。ウサギがタヌキの背中に薬を塗ってあげるところから展示されていた。泥船でおぼれるタヌキに大喜びするネコ、サル、カエルたち。とっても楽しい。
これは沐芳のために描いたことが、巻末の詞書に感謝とともに記されている。「孤独の境を出で、父母の懐に入るの想有らしむ」と。沐芳の人柄が偲ばれる。そして不安を抱えていた靫彦の気持ちも胸に迫る。深い感謝を抱く大切な人とその妻子に喜んでもらうため、せっせと描いた絵なんだろう。
また、初代中村吉右衛門と沐芳と靫彦の三人は義兄弟の契りを結ぶほど仲良しだったそう。三人で映した写真もあった。
靫彦って大御所で人格者のイメージだったけど、若い靫彦の素顔にちょっとだけタッチできた気分。
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合作もこれまたとっても良い!。
「修善寺風物扇面散」(明治末・昭和13年)六曲一双は、扇面を後から張り付けたのでなく、直接屏風に描きこんだもの。
右隻は、明治末。靫彦ほか青邨、浅野未央、石井林響、西村青帰、広瀬長江の紅児会メンバーが、新井旅館に滞在中に代わるがわる修善寺の風物を描きこんでいったらしい。楽しそう。原木しいたけを描く青邨が好き。旭滝、城山、柿・・修善寺温泉行きたくなる。
左隻は昭和に入ってから。大磯に住む靫彦宅に相原家から屏風がもちこまれ、靫彦は弟子11名を順次呼んで描かせた。なるほど左隻のほうがどれもていねいに描かれているのも納得。中でも藤井白映の「水仙」「つゆ草」、瀬戸水明の「白椿」などお気に入り。他のもどれもほんのり匂いたつようだった。さすが靫彦の弟子。
もも太郎の合作も。青邨、靫彦、長江、未央合作「鬼が島」明治末 描いているときの4人の楽しげな様子がうかぶ。
お相撲のスケッチの研究の成果か?靫彦の赤鬼青鬼のおしりの肉づきがいい感じ。
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靫彦以外の紅児会の画家仲間の作は、歴史画という画題も画風もなにやら似ている。会の目指す方向がよく見える。逆に似ているだけに、その人その人の個性も顕われるのが面白い。
前田青邨は、広瀬長江の紹介で紅児会に入り、沐芳とは、靫彦、石井林響、広瀬長江に次ぐ親しさだったそう。古典文学や歴史画に取り組む、若い青邨の貴重な足跡。
青邨「市場」1910は、一遍上人絵伝の「備前福岡の市」のシーンを、下半分に集める紅児会スタイルにリメイク。一遍上人絵伝は人物の動きや顔まで生き生き描かれていたけれど、25歳の青邨の人物も、顔がとてもいい。(画像は部分)
おまんじゅう屋に群がる子供たち。男のぶら下げる魚を狙う野良犬。牛のとこにいるおじいさんにウインクされてしまった私?。青邨が遊んでいる😊
「鶏合」明治43年は、伴大納言絵詞の影響がみられる作らしい。25歳の青邨の線は少し太く薄くて、なんだか穏やかで好きだと思った。これも人がとても良くて、皆が鶏の一点に集中する目線ビームが面白い。
「後三年」大正初は、後三年合戦絵巻をもとにし、6つのシーンを色紙に描いている。
義家の部下の公任が得意げに首を並べる。池に隠れた武衡をとらえる。
緊迫のシーンを、対角線、上方、下方と、さまざまに配置を工夫している。青邨らしい顔が出始めているように思えた。
他の作も、平時物語絵巻の影響が見られるもの、古事記の記述をおこしたものなど。青邨は、国学院の聴講生となって学んだこともあるそう。青邨の画風や「腑分け」などに見られるあの独特の顔は、古画の学習を通して生まれたものだったと、よくわかった展示だった。
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青邨と古径、二人の描いた平重盛が並んでいるのが見応えあり。
平清盛の長男。世の浮沈を嘆き、48間の精舎を建て、毎月の念仏会に、48の燈篭に各6人の女房を配して念仏を唱えさせたことから、燈篭大臣と呼ばれた。
青邨「燈篭大臣」明治末
青邨は中尊寺金色堂の柱を参考に、鮮やかな散華を床にちりばめ、精緻に描いた。柱の隙間に見える女房によって、さらに周りに広がる奥行きを感じる。斜め後ろから見る重盛の存在感。アンタッチャブルな祈りの空間になっていた。
対して、古径の重盛は斜め前から。
古径「重森」明治44年 淡い世界。
浮かぶような淡い色彩、宙を舞う散華。重盛は一人、内なる祈りに入っている。
青邨が奥行きなら、古径のこちらは上へと広がる。そのはるか上に仏様がおられるのだろうと思ったりする。
青邨も古径も、どちらも20代と若いのに素晴らしいなあ。
古径は、梶田半古の画塾で塾頭を務め、青邨は後輩。古径は沼津の靫彦や紫紅を訪ねた際に、沐芳を紹介されたらしい。自らも沼津に引っ越そうとしたらしい。
古径「筝三線」1909、婦女遊楽図に着想を得たとのこと。
靫彦つ20代の古径の美人画?がこんなに色っぽいとは。それでいて清らか。
重盛もなのだけれど、古径の絵はどこかロマンティック。
金泥だけで描いた「梅」1917、御舟の緑を思わせるような松林「萬翠」1918も、甘いというほどでもないけれど、上手く言えないけれど、抒情的という言葉にするしかない語彙力のなさ(涙)。
古径バージョンの「伊勢物語」1915もそう。12図を画帳にしてある。沐芳の依頼により作成した。
お決まりのシーンだからこそにじむ、古径のほんのりした抒情。
1段「春日の里」 神域の大きな木々の足元に小さく鹿が。宗達の影響もあるでしょうか。
第9段「東下り」 色はわずかに都鳥のくちばしのみ。
第23段 河内越(高安の女)は、おお、其一も描いていた”ご飯大盛り女”。めちゃ嬉しそうにご飯よそってる(笑)。
第58段「長岡の里」 勝手なことを言い立てる女たちは、信貴山縁起に似た場面があるとのこと。確かに先日国宝展で見た、村の女たちに似ている。
第106段「竜田川」が最後の一枚。かわいい紅葉もカラスも朱も、嬉しくなるほど心がいっぱい。
で、これでもかと、巻末の見返し部分の桜が。もう言葉もない。
32歳の古径ワールド。素晴らしかった。
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もう一つのお目当て、石井林響については次回に。