はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●東博常設2 踊、又兵衛、書など

2017-10-14 | Art

すっかり時間がたったけれど、9月下旬の東博常設1(日記)の続きです。

二階へ。

宇宙と交信中?の「ハート形土偶」と、今日もきめている埴輪「盛装の男子」にご挨拶しながら、新顔を発見。

岡山出土の平瓶、古墳時代6~7世紀

あひるのような微妙なバランスの注ぎ口に足が停まったのだけれど、線描で模様が刻まれている珍しい須恵器だという。司祭、建物、柱に掲げた吹き流しが描かれ、特別な出来事を表しているとのこと。

 

刀のコーナーでは、一か所だけ行列ができていたけれど、近づけなかったので何だったのかわからない。

この日の東博は、なぜかあちこちで踊っていた。Dance Dance Dance♪

国宝ルームの「一遍聖絵 巻第七」法眼円伊筆 1299 は踊念仏を。

絹本で少し大きめな、珍しい絵巻。一遍の没後10年に、画中にも登場する僧の一人が詞書を描き終え、円伊という絵師が絵を描いた旨が巻末に記されているとのこと。

一遍らは遊行の途中、尾張美濃を経て、京に入る。

この絵師の絵が素晴らしかった。どんなに小さい人でも、感情が生き生き。人も動物も動きに満ちている。近景も遠景も、薄やかな霞みで合わさり、美しい。

近景は、細部まで余念がない!。だから上から見下ろしながら、当時の街並みに下りて入ってしまえそう。

当たり前だけどアスファルト舗装されていない道路っていうのは、土埃がすごそう。鶏も鵜も牛も馬も、街には混然一体。人とともに普通にいたのね。

踊念仏っていうのは、こんなふうにひしめき合ってやるものだったとは。集団トランス状態。

いい笑顔。足も軽快なステップ。

 

牛車で乗り付ける人や群衆でごったがえ。そういえばコウモリ傘をさしている人もいた。

なんだかね、現代とは人と人の距離感覚が違う。動物もね。皆近しい。

 

遊行上人縁起絵巻 乙巻 14世紀は、信濃で踊る。

一遍の後を引きついた、時宗二祖の他阿(1237~1319)がおこなった、善光寺での踊念仏。

 

伝菱川師宣の風俗図巻では、鮮やかにのりのり。

刀を差したお侍さんも三味線を。一席囲った見物人には裕福そうな武士や商人がくつろぐ。

列になったり、輪になったり

御隠居さんも小姓ものりのり

屋根の上では、なぜ耳かき??

 

もうひとつ、「能狂言絵巻」18世紀でも踊る。

葵の家紋から、徳川家ゆかりの女性が婚礼道具として調製したものとか。ずいぶん楽しいのがお好みな姫だ。

とにかく東博のあちこちで、踊っていたのでした。

 *

お目当ての3室、禅と水墨

高橋範子著「水墨画にあそぶー禅僧たちの風雅ー」を読んで、禅僧ワールドに触れていたところ、まさにタイムリーな展示。

玉畹梵芳(1348~1424~)筆「蘭蕙同芳図」(重文)14世紀

下できゅっと締めて、上へ伸びあがる。バランスと葉の曲線にほれぼれ。

高橋さんによると、「蘭蕙同芳」の蘭は春咲きの蘭。蕙とは秋咲きの蘭の一種。季節の異なる二種を同時に描くことは、当時の禅僧のお気に入りのテーマ。E 国宝では、ともによい香りを発するので、すぐれた人徳の喩えに用いられる、とある。

梵芳は、建仁寺、南禅寺の住職を歴任した名僧。幼い時より南禅寺に過ごし、若き日には義堂周信について文芸修行をしていた。正木美術館にも同様の蘭蕙同芳の絵がある。

本では、禅僧たちの詩画が、中国文人の芸術や教養に通じた禅僧たちのコミュニケーションツールとして豊かに広がっていたことが紹介されていた。彼らは共通に、美意識や文人への理想感を持ち合わせている。逆に言えば、そのような知識や共通感覚を持ち合わせていない者は、この京都五山を中心とした禅僧ワールドには入れない…。

 

このあとは、15世紀、16世紀の室町の禅画や水墨が。如寄の花鳥図、戯墨の山水図、仲安真康の山水人物図、小嶋亮仙の鍾離権呂洞賓図(味のある顔だった)、僊可の山水図、式部輝忠の帝舜五臣図。

7室の屏風と襖絵

森徹山「牛図屏風」19世紀

背景の銀が黒ずんで、いっそうすごみが増している。ものすごい重量感。ひきおろした力強い筆目まで見えて、迫力。

赤い牛のももなんか、スペインバルにぶら下がっているハモンセラーノのいいのが…と思ってしまったが、あれはブタだったわ。

そんなおバカを、見透かすような牛の目。描き手自身さえ見すえているような。

 

曽我二直庵「花鳥図屏風」17世紀、ど、どうしたのっていうくらいの迫力

右隻:一羽の鷹は今しも鋭い爪で白鷺を仕留め、もう一羽の鷹は鷺の群れに襲い掛かろうとしている。

この世界では岩も葉も激しく猛り狂う。幹は骸骨のよう。鷹の目はいっちゃっている。鷺の最期の悲鳴が聞こえる。

もう一羽の鷹の白鷺を狙う眼も、逃げる鷺も、生々しい。葉の筋まで線は力強く太い。

荒々しさと細やかな観察眼が同居している二直庵。こんな花鳥図があっていいのか。

四季の移り変わりを愛でる余裕もなく左隻へ移ると、こちらはまあ幾分落ち着いている。

左隻:

つぼみも葉も、よく形を見ているなあ。葉の筋まで緑と白で分けて引き、陰影までつけている。

少しは落ち着いたかと思ったのもつかの間、やはり激しく暴れる岩。

威圧と風格の鷹。野生の目。先日板橋美術館で見たお行儀のいい上品なペット鷹とは違う。

最後の最後までこの激しさ。怪物みたい。

太く激しい線ばかりでなく、ゆるい線も自在に操っている。それがいっそう不気味さを醸し出している。

 解説には、境を中心に京都奈良で活躍した、近世曽我派の二代目の晩年の作。

強烈な屏風を見てしまった。発注主はどんな人なんだろう。

 8室、書画の展開(―安土桃山~江戸)も、たいへん見応えあり。

書がすばらしい顔ぞろい。絵ではなんと岩佐又兵衛が6点も(ほかの部屋のも併せて)!

 

大好きな池大雅の書が!

大雅の字は、自由で、端正で、のびやか。奔放さは絵と同じ。書も即刻大ファンになった。

池大雅「詩書屏風 「千條弱柳」」  月(左端)の字が本当に月。

 

池大雅「一行書「明月満前川」」

  

 

池大雅「唐詩五言絶句」 ここにも踊ってるのがいた。

カンディンスキーかミロか、それともポロックか。

鵬斎もそうだけれど、酔ってまわってそれで筆を動かすと、どんなに気持ちよいのかしら

 

他の書も、その人を率直に表していてとても面白い。

俵屋宗達、絵のまんま

 

椿山

 

浦上玉堂、千葉市美術館でさんざん見たあの字。

 

目を見張ったのは、渡辺崋山。絵もキレてるけれど、字もキレッキレ。

 

崋山では「芙蓉泛鴨図 」も、さすがの速書き。緻密な絵もあるけれど、こんなにザッと書いても動きのある鴨。

水面の藻?の点々、紅のさす芙蓉は崋山らしいなあと思う。

 

その崋山が肖像を描いた、佐藤一斎「竹自画賛」。あの鋭い目の儒学者の字って感じ。

 

こちらのほうがお気に入り。慈雲「達磨図」自画賛 

 このかすれた激しい線の達磨の背中と、微かなほつんとした書。バランスというか。その二面性でもって、こちらの心は素直に内省へと向かう。。

 

 仙厓義梵「滝図自画賛「散る玉を云々」」

 これはまた潔い。薄墨のかすれる水流とともに賛も流れる。でも意味はわからない。

出光美術館で見た、〇△□を私はいまだに考え続けているというのに、またわからないものが増えてしまった。

そして岩佐又兵衛。

又兵衛の墨だけの作品も、やはりなんともいえず美しい!そして楽しい!

雲龍図

ひげの白と曲線が美しい。目の白みが光っている。そんなに細密な絵でないのに、じっと見ると、とても細やかに濃淡が施されている。このにゅううっと出現した感じは、その陰影と立体感があってこそなのかも。

子出関図

なぜか老子の足に目が釘付けになってしまう。うまいのよね。この二つの足先に凝集された重み、軽み、人間味、体温、少しの緊張感と軽快さ。

よく描かれる題だけれど、牛はいつも私の見どころの一つ。わき役の矜持を見る。描く人は皆、意外と牛の人格を尊重している。

又兵衛の牛もとってもすてき。毛並みまで細密にいれている。

一人と一頭がいい感じ。「牛:急がなくていいんすか~。」「老:良き良き。ゆっくり行くのじゃ。」「牛:(お、蠅が)」

 

「伊勢物語 鳥の子図 」 さらっと金谷屏風の6曲のうちの一曲があるのにびっくり。

水面に数を書く女房。伊勢物語、女が男に恨みの歌を返す場面と考えられるらしい。

手で袖をおさえ、柳も恨みがましそうに見えてくる。でも又兵衛の描いた女房の顔は、恨みがましくも、少し寂しげにも見える。

 

本性坊怪力図

岩を持ち上げる大男。すでに岩はどんどんと谷に投げ込まれている。下では岩にひっくり返る武士たち。それを上から笑う武士たち。

又兵衛の躍動感は、動画を見ているみたい。

 

風俗図 

これは工房作の可能性もあるとのこと。浮世絵ルームのガラスケースの奥のほうにあったため、この日単眼鏡を忘れていったので、良く見えなかった。

このほかに、もう一点あったと思うのだけれど、今、東博のHPが落ちてて、なんだったか調べられない。一昨日くらいにもあったような。最近調子悪いのかな?。私のPCと一緒だ(涙)。

他に別室には、三筆のひとり、近衛信尹(1565~1614)の特集があった。美しい字。そして軸や屏風の仕立てもたいへん美しかった。

なかでも源氏物語抄 17世紀は、ため息がでるほど。

こんなに麗しい世界に住むその人は、近衛家の当主。

さもありなんという感じだけれど、意外に定形にとらわれない行動派だった。解説では、豪放にデフォルメされている字がみられるそのこと。

近衛 信尹は「等伯」にも登場する近衛前久の子。27歳で左大臣を辞して、秀吉の朝鮮出兵の際に、後陽成天皇がとめるのも聞かずに朝鮮へ渡ろうとして薩摩へ流された。でも転んでもただでは起きない、3年間の薩摩生活を、島津義久の庇護のもとで楽しみ、もう一、二年居たいと書き残している。

こんな公家もいるのね。