hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●国学院大学博物館「祭礼行列 渡る神と人」

2016-11-05 | Art

国学院大学博物館「祭礼行列 渡る神と人」2016.10.15~12.4(展示替えあり)

前期に行ってきました。

 

”まつり”を、「祭祀」と「祭礼」とに区分したのは柳田國雄であると解説に。そして祭祀から祭礼へのと転換点が、「見物人の発生」であると。なるほど。

今回は、まつりのうち「祭礼」の変化と様相を、江戸から明治の絵巻や屏風を通して紹介していた。小さい展示スペースだけれどとてもおもしろかった。

祭礼の発祥はやはり京都だという。京都の行事や地名に疎くて洛中洛外図などを見てもいまひとつピンとこないのを悲しく思っていたので、今回は「いまさら人に聞けない」的なことが少しクリアできた。

 

章立ては大きく4つ、【渡る人々】【渡る山鉾屋台】【渡る神輿】【近代の祭礼】。

【渡る人々】 

祭礼の中には、神の移動を目的とせず、神輿を伴わない行列がある(そうだったの)。

行列は、神事を行うために、神社に向かう天皇の勅使、御幣、唐櫃の供え物などからなっている。「葵祭図屏風」西村楠亭は、5月にふさわしく、若木色に少し金がまかれた爽やかな色合いの屏風。(写真はいただいたパンフから)

見物人がちらほら見え始め、敷物をひいてなにか飲んだりしているファミリーもいる。

橋の手前にはテント張りの見物人席みたいなものが設けられて、売店なのか煮炊きもしている。

虎の毛皮を運んでいるのはなにかしら?と思ったら、ニュース画像の葵祭の行列にも虎皮が見える。西村楠亭は江戸後期の絵師、円山応挙の弟子。江戸後期にはすでに虎皮もお供え物アイテムとして定番だったのか。もしかして当時と同じ虎皮を、今も大事に使っているのかしら。

 

 「やすらい祭り・上賀茂競馬会図屏風」横山崋山(写真は部分)

まず大きな鳥居に圧倒される。馬に乗る人も周りの人もとても生き生きして、迫力に満ちた屏風だった。大木もなにかの力に満ちていて、鳥居の中という神の領域であるのだと感じた

横山崋山(1781~1734)という人を知らなかったけれど、ライブ感ある人物と大胆さに興味がわいた。曽我蕭白に私淑したとか。ウィキペディアで少し見ただけでも、大英博物館の蘭亭図は、印象的な川の流れにぱっと惹きつけられた。ボストン美術館の「常盤雪行図屏風」も、雪深さが胸に迫ってくるし、母とともに逃亡する幼い子供たちの様子が心に訴えてくる。こんなに子供らしい表現のこのシーンは他にあったかな。海外に多く作品が流出したのが惜しくてならないが、それも納得。

 

【渡る神輿】

神を乗せて移動するための神輿は、登場したのは平安時代中頃のこととか。神社におわす神を、神輿に乗せて「移動していただく」という便利な発想が、日本の祭り史上に大きな転換を生んだらしい。そうとなれば、神輿のまわりに、田楽や獅子などの芸能ごとも付随させなければならない。

 ・「付喪神記」は一番気に入った絵。古道具が変化した付喪神が、変化大明神を氏神として真夜中に祭礼を行う。なんてかわいい。パンフには出ていなかったけれど、おそらく御伽草子の一節(京都大学電子図書館で見られます。こちらの中の祭礼の部分が展示されていました)。

付喪神たちは殊勝にも、「造化の神によって生まれ変わったのに、その神を祀らなければ、心ない木石と変わらない。今から神事を行おう」と思い立ち、せっせとお神輿や飾り物を作って、行列を進める。この行列での出来事が、その後の付喪神たちの運命を大きく変えることになるのですが・・。

 ・「日本橋魚河岸旧天王祭り団扇投之図」春斎年昌(明治22年)は、東京、神田明神の祭り。宙に舞う団扇とおひねりの赤が美しかった。

 

【渡る山・鉾・屋台】

これらは、行列をにぎやかにし、囃すことを目的にしている。最初と思われる祇園祭の山鉾は、鎌倉後期に原型ができた。そして山鉾が全国に広がるのは、江戸時代以降のこととか。思っていたより新しい。これは城下町などの都市や町が成立し、山鉾屋台を維持する組織が形成されたため、という解説に納得。

「つしま祭り」は、宵祭りで、一年の日数だけの提灯をつけた、高い山鉾。山鉾の頂上に上っている人々の顔が、このたいへんな状態なのに、かわいくのどかで。画像がないのが残念だったので、例によって下手なメモしてきた。

 

【近代の祭礼】

明治になり、政治社会情勢の変化、太陰暦から太陰暦への変更等、祭礼に少なからず変化をもたらしたと。知識が足りずもう少し詳しい解説がほしいところだったので、ここはさらっと。

一つ、「稲荷神社両御霊神社私祭之図」国井応文(明治10年)は、11本の銅鉾が美しい絵だった。下の方の飾り受け部分には、鯱や小槌、龍などが。道を清める意味合いとか。

 

常設の方には、祭祀に使われるものを中心に時代を追って展示してありました。時間がなかったのが残念。

この人影にまじ心臓止まりそうだった。

 

長野県出土「挙手人面土器」(4世紀) は忘れられないお姿。

「身体に見たてられた類例のない土器」とか。顔から即、手足が出るのは、小さい子供が描く絵のよう。土器というよりなんらかの生命体みたい。

この土器の作者は、この時代にすでに個の表情を作品の中に表出させようとしたのだろうか。

角度によって全然違うので、立ち去り難かった。

闇...。


●「1797年江戸の文化人大集合ー佐藤一斎収集書画の世界ー」実践女子大学香雪記念資料館

2016-11-05 | Art

「1797年江戸の文化人大集合ー佐藤一斎収集書画の世界ー」実践女子大学香雪記念資料館

2016.10.10~11.10(前期) 11.14~12.10(後期)

先日前期展へ。

佐藤一斎(1772~1859)は、江戸後期の儒学者。幕府の儒臣として、門人は佐久間象山、渡辺崋山ら含め3000人とも。

実践女子大学の学祖、下田歌子と同郷の岩村藩(現在の岐阜県恵那市付近)の家老の次男。

儒学系に全くもって疎いのに、この展覧会を訪れたのは、渡辺崋山の「佐藤一斎像」1821(東京国立博物館蔵)が脳裏に刻まれていたから。(今回の展示ではありません)

鋭く疑り深そうな目線は、厳しく真を問うているよう。崋山の人物画は何とも言えない不気味さが漂う。不気味と言っては違うのかもしれない。私のように難しいことを問いただされるの受け付けない人間には、そう見えてしまうのでしょう。でも、自身も儒学者である崋山は、動じることなく、この射貫くような師の目に対峙する。

今回は崋山の弟子、椿椿山(18011854の作とされる一斎像が展示されている。

伝椿椿山「佐藤一斎像 佐藤一斎賛」1855(安政二年)

 一斎が84歳の時に賛を入れたのでしょう。この時すでに椿山は亡くなってる。この画はおそらく椿山の晩年の作でしょう。

一斎が50歳頃を描いた崋山の作と比べると、一斎も年齢を重ねて少し角が取れたかな。椿山の絵は、華山に比べると少し線が細くおだやかな絵が多い気がするので、そのせいかもしれない。でも、やはり鋭くものを見透かすような目は健在。80歳になっても、賛の筆力にも衰えすら見えなかった。

一斎「墨竹図」は、七言絶句二首に竹。画も賛も一斎の筆。

晩年のもの。右肩上がりの字にはかすれも見ることができ、字から気迫が立っているようだった。竹も、幹など、かすれた筆を強く紙に押し付けながら一気呵成にひいたときにできる独特の横擦れというか。迫力だった。

 

今回は、一斎と交流のあった人の絵も展示されている。

中心となるのは、「名流清寄」1797(寛政二年)という、寄せ書きのようなもの。父親の古希の祝いに、一斎が交流のある大名・文人・書家・画家たちに一筆頼み、巻物にしたてたもの。

阿部正精(蕉亭)の熟れたゴーヤの絵は印象的。

ゴーヤが黄色く熟れつくし、裂けて真っ赤な種が露呈している。つるの先端のくるるん感がないのが個人的には残念。

熟れたゴーヤはもう一点、一斎の収集物、宋紫石画譜1765の中にもあった。赤い実をつっつく鳥も。阿部正精がこの画譜から範を得たのかな?、ゴーヤは当時の流行なのかな?。

 

10代の市川米庵の書も。幕末の三筆と称されているそうな。

渡辺崋山が描いた米庵像の下絵。

米庵といい一斎といい、字と表情って似ているような。

 

金子金陵「蛙図」

蛙がすさまじいオーラをたぎらせている。戦闘モードか。草の手慣れた筆致にも見惚れた。金子金陵は、谷文晁の弟子であり、椿山、崋山の師。意外と狭くつながっている人間関係。

 

その谷文晁(17631840)は、弟、妹、妻の絵も展示。

谷文晁「山水図」もよかったけれど、特に妹と妻の絵にひかれた。

谷舜英(谷文晁の妹)「石榴図」1797

26歳頃。赤い実もつぼみも、楚々とかわいらしくて、好きだなあと思う。兄文晁から絵を学んだそうだけど、のびのびした感じ。

逆J型の枝の曲線がきれいだなあ。いったん画面から消えてまた戻ってきている。そして歌うように点在する葉。

 

谷幹々(文晁の妻)「墨梅図」

一見まっすぐ硬質な枝のように見えたけれど、見ていると、ふわりとした気持ちに。花びらに優しい感じがしたのだと思う。先端の枝分かれの様は、わずかに柔らかな曲線、それでいて潔い感じ。先端までどこも凛として見えた。

幹々(17701799)は、16歳で文晁と結婚、やはり文晁に絵を学ぶ。

夫と一緒に一幅に仕立てられた掛け軸の「雪景楊柳図」は、さらに心に残った作品。(下側の絵が幹々)

画像では見えにくいけれど、柳のしだれた枝の先端までかなり細かく線が引かれていて、その様が踊るようで。例えばタンゴのような。どこか妖艶。山の稜線も、線と形の遊びのような。文人画の寒々しい雪景色だけれど、文人画っぽくない。実はこっそり自由で奔放な感じ。他の絵も見てみたくなる。

文晁の妹の絵も妻の絵も、基本は文人画でありながら、個性が生きていて、文晁の教育方針のたまものなのでしょうか。

 小さな展示室ですが、貸し切り状態で楽しい時間でした。