はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●名刀礼賛ーもののふたちの美学ー 泉屋博古館文館

2017-08-07 | Art

「名刀礼賛ーもののふたちの美学ー」 泉屋博古館文館

2017.6.1~8.4

 

黒川古文化研究所と泉屋博古館との連携企画。

昨年、移転前の刀剣博物館を訪れた時も20代ごろの女性が多いのに驚きましたが、こちらでも食い入るように見つめている女の子たちが何人も。そして年齢性別問わず、国籍問わず、盛況でした。

私は全くビギナーですが、親切な解説がありましたので、以下、備忘録です。

ひとつめの展示室には、ずらりと、冷たく輝く刃が。思わず身が引き締まる。

古いものでは12世紀のものから。それが、ふつうにたくさん!。

まえに刀剣博物館のチケット売り場で、「本日の展示は江戸時代の新しいものばかりですが、よろしいですか?」と確認された意味を、いま実感。

1000年近くたつのに、こんなにも輝き、くもりも濁りもない。刀もすごいけど、お手入れをされてる方もすごい。

黒川古文化研究所が、車の排気ガスで文化財が痛むという理由で、芦屋から現在の西宮市苦楽園に移転したという解説にも、頷くしかない。


刀を鑑賞するポイントとしては、地肌・姿・刃文。直刃、地沸(ぢにえ)、匂、と。

すると、全部同じに見えるんだけどと思ってた刀が、それぞれ全然違うのが見えてきた!

また、岡山の長船(唯一知ってた)が刀で有名なのは、中国山地の鉄と木材、そして瀬戸内の水運によるものだとか。


ふたつめの展示室には、拵えとつば、刀装具。

つばは、最初は刀工が作っていたのが、専門の職人が作るようになったのは桃山時代ごろ。16世紀を代表するのは、「信家」、「全家」。

17世紀ごろでは、幕府や大名旗本の御用達の「御用彫り物師」の後藤家の代々。

 

18世紀には、後藤家から独立して、「町彫りの祖」といわれた横谷宗珉。父の宗与の作も。宗珉が英一蝶から図柄を提供してもらっていたというのは、当時の江戸市中の様子が想像できて興味深い。太平の世につれ、装飾性を増し、しだいに身近な題を用いるようになった。

石黒派では、開祖の石黒政常「松に鷹図鐔」が展示されていた。刀剣博物館で見たのは、この石黒派の刀装具(日記)。岡本秋暉も実家である石黒の父や兄たちに花鳥風月を美しく配置した図柄を提供していた。

 

それから、応挙と時期を同じくして、「写生」に基づいた事物の把握が表現されるようになったというのも、絵画史全体の流れとして興味深く。革新が町民から生まれるのも同じか。

「生写」は、御用彫り物師の後藤派にもおよび、革新をもたらした一乗は名工と呼ばれた

「能狂言図大小鐔」19世紀は、背景などなくシンプルに踊り手のみ。たっぷり余白をとった配置が絶妙。一乗の「瑞雲透鐔」1835年は、抽象の域。


荒木東明の粟穂の目貫は、とくにお気に入り。粟穂の細密な金のつぶつぶに見とれるばかり。私の4倍の単眼鏡では物足りないくらいだった。

 


実は今回の楽しみは、3章の「武士が描いた絵画」。

渡辺崋山の「乳狗図」1841を見たかったのだ。が、前期展示のみ。うそそんな。ちちいぬ見たかった

でも、弟子の椿椿山の「玉堂富貴・遊蝶・藻魚図」1840 がすばらしかった。崋山に似ている。

 右の藻魚の幅の湖底、湖面は、出光美術館で見た崋山の「ろじ捉魚図」を、中幅の花は先日の東博で見た崋山の「十友双雀図」絵を思い出す。それでも椿山の画は、崋山のようなあやうくキレてなく、どこか穏やか。

でもちょっと不思議な椿山の感覚。藻魚の幅は、上方の木々の葉から降りて、いつしか湖中に入り、湖中の水草とともにたなびいている。さらに魚は、魚を見下ろす視線と魚自体の視線が混じっている。画に様々な視線が交錯している。湖面の一枚の桜の花びらは、隣の幅の花海棠?からひらりと舞い降りたものらしい。(どちらでもいいことなのだけど、この魚はなんだろう?フナ?長さ的にはシシャモっぽい。)

靄の中を舞う蝶の幅は、いっそう不思議。現実ではないような。藻魚の幅が夢幻なら、蝶は幽幻な感じだろうか。なのによく見ると、羽紋も目も触覚も、おなかのふくらみやふかふかまで、大変に細密。

椿山ってこんな世界を描く人だったのかな。静かな空間がひそかにふわり揺らぐような。山種美術館の「久能山真景図」1837(日記)も、微妙に不思議な浮遊感だったっけ。これから約10年後の作、東博の「雑花果ら図」1852を崋山の後で見た時には、朴訥な感じだと思ったけれど、もう一度見たら違う感じがするかもしれない。信奉する師を追う絵を描き、師の早い死後は、似ていながらも自分の世界を築く。なんだか岸田劉生と椿貞雄のようだ。


さて、他の画も8点と少ないですが、見ごたえあり。

加藤文麗「富嶽図」18世紀は、大変筆が立ち、手慣れた感じ。三保の松原と海の向こうに富士とかすかに大きな月。おおらかな構図と、丸みのある筆と墨の色に、この人は懐の広い人だったのかな。伊予大洲藩主の子で、狩野常信、さらに子の狩野周信に学ぶ。弟子に谷文晁。


浦上玉堂の小さな「夏山瑞雨図」、浦上春琴の画帳「蔬果蟲魚図」1834 は親子で並んで展示。特に春琴の画帳は、タケノコ、笹など日常のものを穏やかに描きとめていた。玉堂は春琴の絵を「行灯絵」「針箱絵」と呼んだそうだけども、お父さんに連れられあれだけ落ちつかない環境でも実直に育った子供にそんな...って思う。


関口雪翁「雪中竹図」1828は、武士の精神性ってものがあるなら、確かにそれを感じるかきぶり。(画像はこちらから)

竹の枝に複雑に雪が積もっているのを、外隈で描きだしている。雪が積もっても細い枝はたゆまず、筆も先端の一点までゆるみなく集中を保っている。雪雲を思う深いグレーの余白も、見とれてしまった。竹は冬でも青々して、不屈の精神を象徴するのだとか。雪の下でも生気と意志を放つ葉が印象的。

関口雪翁は、新潟生まれの儒学者で津山藩に召し抱えられたとのこと。竹と雪の絵を多く描いている。


十字梅崖「十便十宜図」1801は、池大雅・蕪村の作の写し。池大雅や木村蒹葭堂と交流があったらしい。上田秋成と和歌で同門らしいけれど、性格は正反対のような気がする。

 

解説では、武士の画として、武士ならではの高い理想を求めた時に直面する、日常との矛盾や葛藤。「いかに生きるべきか」という導きとして、画を描くことに意味を見出した、と。「いかに生きるべきか」の答えとして、ここの8人の武士が見事に、8人8様。自分なりの答えがぎりぎりなまでに画に表れているのは、見事だった。

 



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