夢をみた。
部屋でねむっていると、庭でおのれを呼ぶ声がする。
なにやらなつかしい声だ。
幼かったころの岱の声に似ている。
いや、鉄かな、休かな。
あのふたりの弟は、容姿はまるで似ていなかったのに、ふしぎなもので、声はとてもよく似ていた。
風の渡る草原の彼方から、黒馬に乗って手を振ってくる弟が、さて、鉄なのか休なのか、声だけでは判じかねることがあったっけ。
よし、声でわからぬのであれば、足音で聞き分けてみよう。
あの庭をゆく、軽い足音は、だれものものだろうか。
鉄や休ではない。まして岱ではない。
女? いや、もっと軽い。
そうだ、子どものものではないだろうか。
庭を駆けて、こちらにやってくる。こちらを呼ぶ声。
その声を聞いたとき、馬超はどきりと胸を高鳴らせた。
聞くことのできなかった、少年の声。
足音が近づいてくる。
まさか。
あまりの意外なことに、おどろきのためであろうか、眠りながらも、夢が夢であることを知覚している。
これは、夢か?
そう疑ってから、すぐに馬超は、覚醒をはじめようとする意識を叱り飛ばした。
いや、ばかなことを。夢だ、などと思うな。
そうして、庭をやってくる者に、祈るような気持ちで呼びかける。
早くこちらへ来い。庭を抜けて、さあ、早く。
わたしの部屋はここだ。
うれしいような、かなしいような、けれど、どこかおそろしい気持ちで、夢の中の馬超は、庭からやってくる者を待った。
やってくるのがだれなのかは、もうわかっていた。
これが夢なければいい。すばらしい奇跡であればいい。
そうしたなら、わたしは、いままで呪い尽くした天と地と、そして人を、すべて許そう。
そして、二度と恨むまねはすまい。
目は閉じているはずなのに、扉に朝の光を受けて浮かぶが、はっきり見える。
ああ、こんなに大きくなっていたのか。
わずかに扉がひらいて、そこから、小さな手が見えた。
ますます馬超は胸を高鳴らせた。
立って、走って、わたしを呼びながらこられるほどに成長していたのだ。
顔。早く顔をみたい。
からりと扉が開く。
ごく自然に。いつもそうしているかのような自然さで。
「父上!」
うれしそうに笑って、その者が、扉を開いた。
そこには、最後に見たときよりも、ずっと大きくなって、少年となった息子の、無邪気な笑顔を浮かべている姿があった。
秋や。
口に出したとたん、どうだろう、この意地悪な魔法は、唐突に切れた。
馬超はぱっと目を覚まし、自分がいまだ、寝台のなかにいることを知った。
庭から聞こえてくる鳥の声と、ぱたぱたと、屋敷にいる家人たちが、家事をこなすために、廊下を往来している足音。
すでに日はのぼっており、扉からは、清清しい白光が漏れている。
扉は、すこしも開いてなどいなかった。
馬超に呼びかける、少年の声も、ない。
一瞬だけ、たしかに見た。
あれは、成長した息子の秋の姿だった。
最愛の女、董氏とともに、敵の手に落ちて、死なねばならなかった幼い息子。
あの子が、もしも生きていてくれたなら、きっと、いま見た夢のように、大きくなっていて、名を呼びながら、駆けてきてくれたにちがいない。
そこまで考えて、馬超は、大きく首を振る。
いいや、夢などではなかった。秋が会いに来てくれたのだ。
自分が、こんなに大きくなったのだと教えに来たのだ。
そうだ、きっとそうだ。
錦馬超、神威将軍、曹操に遷都をせまった男。
仰仰しいおのれのあだ名が脳裏をかすめ、馬超は、布団のうえで、陰惨な笑みをうかべた。
名前ばかりが先行して、実際はどうだ。
ほんとうに守らねばならなかった息子を、あとにのこして、殺させてしまった。この腕で、守ってやれなかった。
息子の死が、どのようなものであったかは知らない。
小さな子は、父の名を呼んだだろうか。助けてほしいと泣いただろうか。
名を守れとはいわぬ、父の顔を汚すなともいわぬ。どんなふうであってもかまわない。
儒の教えなんぞ知るか。どんなふうであってもかまわない。
ただ、生きていてさえくれたなら、どれだけ救われたであろう。
馬超は、必死に、起きた気配を感じさせないように注意しながら、声を殺して、自分のあさはかさゆえに死なねばならなかった、最愛の者のために泣いた。
涙がもういちど、幻をつれてくるといい。
泣きながら、懸命に夢のなかでは、たしかに見ることができた、息子の顔を思い出そうと、その面影を追いかけるのであるが、思い出そうとすればするほどに、その姿はとおくなり、やがておぼろげなものになってしまった。
※
その朝、習氏と顔をあわせるのがことさら辛かった馬超は、用意された朝餉もとらず、更衣をすませると、まっすぐ厩舎にむかった。
従者が、あわてて、お供しますと追いかけてきたが、これは冷たく突っぱねた。
一人になりたかった。
この、四方八方、どこを見回しても、『いま』しかない、単調で、うんざりするほどに平和なこの屋敷にいることが、うとましくてならなかった。
朝の夢は、あれは悲しかったけれど、どこか幸福な気持ちが、どこかにあるのも事実だ。
もっと若くて、もっと大地が開けていて、世の中はもっと単純だったころの、いちばん幸せな記憶を、息子は一緒に運んできてくれた。
脳裏につぎつぎと浮かぶそれを、屋敷にただよう無粋な息苦しさで、消してしまいたくなかったのだ。
そうして、馬にまたがった馬超であるが、仰天したことに、とたん、夢で見たときと同じように、あのぱたぱたという、軽いちいさな足音が追いかけてくる。
夢が現実になる、などという願いをもつほどに、馬超は夢想家ではなかったから、振り向くまでもなく、これはきっと、家人のうちの、子どものだれかであろうと思った。
娘の遊び相手として、家人の子供も屋敷に置いてやっているのである。
無視をして、そのまま馬腹を蹴って、出発しようとする馬超であるが、その袖を、ぐいっと引っ張られる。
馬も馬超も、すっかり出発するつもりでいたから、あわてて、手綱を握りなおし、馬を抑える。
そうして、なんとあぶない、何者か、と見れば、それは、娘であった。
娘が可愛くないといったら嘘だ。
秋とおなじくらい、いや、くらべものにならないくらいに可愛いと思っていたが、今日ばかりは、相手をしてやれる気分ではなかった。
「父上、どちらへ行かれるのですか。わたくしも、連れて行ってくださいませ」
あどけない声で言うさまも、愛らしい。
しかし、その屈託の無い笑顔のなかに、馬超は当然のことながら、そこに董氏の面影を見ることができないことを悲しく思った。
この娘は、馬超よりも、母親の習氏のほうに似ている。
「いつもいつも、どちらへ行かれているのですか。ねえ、父上」
言いながら、娘はぐいっと袖を引っ張るのであるが、その拍子に、袖に隠してあったものが、ぽろりと落ちてしまった。
それは、絹の布につつんだ、例の流行の工房につくらせた、青い玻璃の子馬であった。
うまくないことに、地に落ちた拍子に、中身の姿が見えてしまった。
もみじのようにちいさな娘の手に、ちょうどいい大きさのものである。
馬超は、工房に、通常の倍を払ったので、工房のほうも気をきかせて、出来上がると、直接、屋敷に届けてきたのだった。
世間では、これを想い人に贈ることになっているのが流行っているようであったが、馬超は、この繊細な美しい玻璃細工を、だれにも贈るつもりはなかった。
蒼い子馬をほしいといったのは、董氏だ。
だから、これは、だれのものでもない、董氏のものだ。
地平の彼方まで見通せるあの草原で、轡をならべて、どこまでも一緒に行けると信じていた女。
あの女以外の者に、これをやるつもりもなかったし、見せるつもりもなかった。
どころか、馬超は、あのときは、酔っていたせいとはいえ、なんだってこんな未練がましいものを作ってしまったのだろうと、出来あがったそれを見て、後悔したほどである。
玻璃の子馬は、いまにも空を駆け出しそうなほどに、よく出来ていた。
「うわあ、きれい」
なにも知らない娘は、目をかがやかせて、青い玻璃の子馬を手で、そおっと大切にすくい上げた。
まるで、稚魚を水から掬い上げたような仕草である。
この娘の、繊細な気性は、やはりわたしにはないものだな、と思いつつ、馬超は、無言のまま、それを娘の手から取り上げると、ふたたび絹にくるんで、今度は落さないように、懐の奥にしまった。
娘が悲しそうな顔をするのは予想できたから、あえて見ることはしなかった。
そうして、ふたたび馬上の人となった馬超であるが、娘はなおも、その場に留まり、たずねてくる。
「父上、それは、玻璃というものでしょう? わたくしも知っています。いま成都では、それを好きな人に差し上げるのが流行っているのよ。父上は、それを、どなたに差し上げるの?」
娘としては、それは自分にくれるものではないかという期待があるのだろう。
だれにもやるつもりはないと答えて、この幼すぎる娘に理解できるだろうか。
娘はかわいい。
しかし、これは、だれにもやることはできない。
ふと、視線を感じ、見れば、屋敷の戸口のところで、習氏が、じっとこちらを見つめているのと目が合った。
とたん、馬超は、まるで心のなかを覗き見されたような恥かしさをおぼえた。
習氏は、すべてを見ていただろうに、表情のひとつも変えていない。まったく感情をうかがわせない、仮面のように静かな顔をして、じっとこちらを見つめている。
非難するでもなく、無理をして、笑って繕うでもなく、母親の仮面をかぶって、娘をたしなめるでもなく、ただ、見つめているのだ。
側室のだれかに贈るのだろうと思っているのだと、馬超は習氏の心を読んだ。
そうして、習氏のことを、いまこそ心の底からうとましく感じた。
この女は、董氏とあまりにちがう。
抗議のことばひとつ述べず、それでいて、人の心に侵略してくる。なんといやな女だろう!
今朝だけは見たくないと思った顔を見てしまったことへの怒りもあり、馬超は心を抑え切れなくなり、はげしい怒りにとらわれた。
こうなると、だれも、馬超本人さえも、抑えられない。
馬超は怒鳴った。
「なにを見ている! 見送りなどいらぬぞ! 屋敷に入れ!」
習氏は、馬超に言われて、いささかおどろいたような顔をしたが、しかし、それも一瞬のことであった。
習氏は、まったく静かに、答えた。
「夫を見送るのが、妻の役目でございますゆえ」
「役目か! 役目だから、わたしを見張っているのか! そうか、おまえはわたしを見張っているのだな! 娘をつかって、わたしがどこへ行くのかとたずねさせたのは、おまえの差し金だろう!」
おどろくか、あるいは悲しむかと思った馬超であるが、しかし習氏は変わらず静かに答える。
「いいえ、そのような真似はいたしませぬ」
馬超は思った。
この女は、わたしに惚れてなんぞおらぬのだ。
家にある箪笥や机や椅子とおなじように、欠くべからざるものとしての家の一部、『夫』ということで、わたしを遇しているだけに過ぎぬ。
一族に命じられたからと嫁いできて、さしたる愛情もないまま子を為した。
そうしていまは、自分と、その一族の名を飾るために『錦馬超』を利用して、羽目を外さぬように、見張っているというわけだ。
「家のためか。だからおまえは、わたしに付いてきているのだな。ふん、わたしが敗残の将ゆえ、おまえたちはわたしを蔑んでいるのだろう。
だが、言っておくぞ! わたしも、豪族の娘でさえあれば、おまえでなくても、ほかのだれでもよかったのだ!」
しかし、心をはげしく沸き立たせ、わめく一方でも、馬超は、自分のことばに違和感をおぼえているのも事実であった。
その違和感を、うまく表現することは出来ない。
自分が口にしている、この心ない言葉、そして思いは、止めようもなく口から飛び出して言ってしまう一方で、奇妙なことではあるが、すぐに胸の奥のほうで、その言葉のことごとくが否定されていることだけは、わかっていた。
自分で自分がうまく制御できない混乱と苛立ちにとらわれているなか、ちいさなちいさな、震えた声が馬超の耳にとどく。
「父上、母上を怒らないで。わたくしは、母上に言われたから、連れて行ってとおねがいしたのではないのです。ほんとうです。
だから、母上をお叱りにならないで。叱るのなら、わたしを叱ってください」
娘が父の剣幕におびえつつも、思いもかけない思いやりをみせて、母とのとりなしをしようと声をかけてくる。
母を守ろうとするその声が、たまらなく馬超を追いつめた。
「だまれ!」
馬超は叫ぶと、馬の腹を蹴り飛ばし、そして振りかえることなく、屋敷を飛び出した。
行くあてはなかったが、ともかくその場にいたくなかったのである。
つづく……
部屋でねむっていると、庭でおのれを呼ぶ声がする。
なにやらなつかしい声だ。
幼かったころの岱の声に似ている。
いや、鉄かな、休かな。
あのふたりの弟は、容姿はまるで似ていなかったのに、ふしぎなもので、声はとてもよく似ていた。
風の渡る草原の彼方から、黒馬に乗って手を振ってくる弟が、さて、鉄なのか休なのか、声だけでは判じかねることがあったっけ。
よし、声でわからぬのであれば、足音で聞き分けてみよう。
あの庭をゆく、軽い足音は、だれものものだろうか。
鉄や休ではない。まして岱ではない。
女? いや、もっと軽い。
そうだ、子どものものではないだろうか。
庭を駆けて、こちらにやってくる。こちらを呼ぶ声。
その声を聞いたとき、馬超はどきりと胸を高鳴らせた。
聞くことのできなかった、少年の声。
足音が近づいてくる。
まさか。
あまりの意外なことに、おどろきのためであろうか、眠りながらも、夢が夢であることを知覚している。
これは、夢か?
そう疑ってから、すぐに馬超は、覚醒をはじめようとする意識を叱り飛ばした。
いや、ばかなことを。夢だ、などと思うな。
そうして、庭をやってくる者に、祈るような気持ちで呼びかける。
早くこちらへ来い。庭を抜けて、さあ、早く。
わたしの部屋はここだ。
うれしいような、かなしいような、けれど、どこかおそろしい気持ちで、夢の中の馬超は、庭からやってくる者を待った。
やってくるのがだれなのかは、もうわかっていた。
これが夢なければいい。すばらしい奇跡であればいい。
そうしたなら、わたしは、いままで呪い尽くした天と地と、そして人を、すべて許そう。
そして、二度と恨むまねはすまい。
目は閉じているはずなのに、扉に朝の光を受けて浮かぶが、はっきり見える。
ああ、こんなに大きくなっていたのか。
わずかに扉がひらいて、そこから、小さな手が見えた。
ますます馬超は胸を高鳴らせた。
立って、走って、わたしを呼びながらこられるほどに成長していたのだ。
顔。早く顔をみたい。
からりと扉が開く。
ごく自然に。いつもそうしているかのような自然さで。
「父上!」
うれしそうに笑って、その者が、扉を開いた。
そこには、最後に見たときよりも、ずっと大きくなって、少年となった息子の、無邪気な笑顔を浮かべている姿があった。
秋や。
口に出したとたん、どうだろう、この意地悪な魔法は、唐突に切れた。
馬超はぱっと目を覚まし、自分がいまだ、寝台のなかにいることを知った。
庭から聞こえてくる鳥の声と、ぱたぱたと、屋敷にいる家人たちが、家事をこなすために、廊下を往来している足音。
すでに日はのぼっており、扉からは、清清しい白光が漏れている。
扉は、すこしも開いてなどいなかった。
馬超に呼びかける、少年の声も、ない。
一瞬だけ、たしかに見た。
あれは、成長した息子の秋の姿だった。
最愛の女、董氏とともに、敵の手に落ちて、死なねばならなかった幼い息子。
あの子が、もしも生きていてくれたなら、きっと、いま見た夢のように、大きくなっていて、名を呼びながら、駆けてきてくれたにちがいない。
そこまで考えて、馬超は、大きく首を振る。
いいや、夢などではなかった。秋が会いに来てくれたのだ。
自分が、こんなに大きくなったのだと教えに来たのだ。
そうだ、きっとそうだ。
錦馬超、神威将軍、曹操に遷都をせまった男。
仰仰しいおのれのあだ名が脳裏をかすめ、馬超は、布団のうえで、陰惨な笑みをうかべた。
名前ばかりが先行して、実際はどうだ。
ほんとうに守らねばならなかった息子を、あとにのこして、殺させてしまった。この腕で、守ってやれなかった。
息子の死が、どのようなものであったかは知らない。
小さな子は、父の名を呼んだだろうか。助けてほしいと泣いただろうか。
名を守れとはいわぬ、父の顔を汚すなともいわぬ。どんなふうであってもかまわない。
儒の教えなんぞ知るか。どんなふうであってもかまわない。
ただ、生きていてさえくれたなら、どれだけ救われたであろう。
馬超は、必死に、起きた気配を感じさせないように注意しながら、声を殺して、自分のあさはかさゆえに死なねばならなかった、最愛の者のために泣いた。
涙がもういちど、幻をつれてくるといい。
泣きながら、懸命に夢のなかでは、たしかに見ることができた、息子の顔を思い出そうと、その面影を追いかけるのであるが、思い出そうとすればするほどに、その姿はとおくなり、やがておぼろげなものになってしまった。
※
その朝、習氏と顔をあわせるのがことさら辛かった馬超は、用意された朝餉もとらず、更衣をすませると、まっすぐ厩舎にむかった。
従者が、あわてて、お供しますと追いかけてきたが、これは冷たく突っぱねた。
一人になりたかった。
この、四方八方、どこを見回しても、『いま』しかない、単調で、うんざりするほどに平和なこの屋敷にいることが、うとましくてならなかった。
朝の夢は、あれは悲しかったけれど、どこか幸福な気持ちが、どこかにあるのも事実だ。
もっと若くて、もっと大地が開けていて、世の中はもっと単純だったころの、いちばん幸せな記憶を、息子は一緒に運んできてくれた。
脳裏につぎつぎと浮かぶそれを、屋敷にただよう無粋な息苦しさで、消してしまいたくなかったのだ。
そうして、馬にまたがった馬超であるが、仰天したことに、とたん、夢で見たときと同じように、あのぱたぱたという、軽いちいさな足音が追いかけてくる。
夢が現実になる、などという願いをもつほどに、馬超は夢想家ではなかったから、振り向くまでもなく、これはきっと、家人のうちの、子どものだれかであろうと思った。
娘の遊び相手として、家人の子供も屋敷に置いてやっているのである。
無視をして、そのまま馬腹を蹴って、出発しようとする馬超であるが、その袖を、ぐいっと引っ張られる。
馬も馬超も、すっかり出発するつもりでいたから、あわてて、手綱を握りなおし、馬を抑える。
そうして、なんとあぶない、何者か、と見れば、それは、娘であった。
娘が可愛くないといったら嘘だ。
秋とおなじくらい、いや、くらべものにならないくらいに可愛いと思っていたが、今日ばかりは、相手をしてやれる気分ではなかった。
「父上、どちらへ行かれるのですか。わたくしも、連れて行ってくださいませ」
あどけない声で言うさまも、愛らしい。
しかし、その屈託の無い笑顔のなかに、馬超は当然のことながら、そこに董氏の面影を見ることができないことを悲しく思った。
この娘は、馬超よりも、母親の習氏のほうに似ている。
「いつもいつも、どちらへ行かれているのですか。ねえ、父上」
言いながら、娘はぐいっと袖を引っ張るのであるが、その拍子に、袖に隠してあったものが、ぽろりと落ちてしまった。
それは、絹の布につつんだ、例の流行の工房につくらせた、青い玻璃の子馬であった。
うまくないことに、地に落ちた拍子に、中身の姿が見えてしまった。
もみじのようにちいさな娘の手に、ちょうどいい大きさのものである。
馬超は、工房に、通常の倍を払ったので、工房のほうも気をきかせて、出来上がると、直接、屋敷に届けてきたのだった。
世間では、これを想い人に贈ることになっているのが流行っているようであったが、馬超は、この繊細な美しい玻璃細工を、だれにも贈るつもりはなかった。
蒼い子馬をほしいといったのは、董氏だ。
だから、これは、だれのものでもない、董氏のものだ。
地平の彼方まで見通せるあの草原で、轡をならべて、どこまでも一緒に行けると信じていた女。
あの女以外の者に、これをやるつもりもなかったし、見せるつもりもなかった。
どころか、馬超は、あのときは、酔っていたせいとはいえ、なんだってこんな未練がましいものを作ってしまったのだろうと、出来あがったそれを見て、後悔したほどである。
玻璃の子馬は、いまにも空を駆け出しそうなほどに、よく出来ていた。
「うわあ、きれい」
なにも知らない娘は、目をかがやかせて、青い玻璃の子馬を手で、そおっと大切にすくい上げた。
まるで、稚魚を水から掬い上げたような仕草である。
この娘の、繊細な気性は、やはりわたしにはないものだな、と思いつつ、馬超は、無言のまま、それを娘の手から取り上げると、ふたたび絹にくるんで、今度は落さないように、懐の奥にしまった。
娘が悲しそうな顔をするのは予想できたから、あえて見ることはしなかった。
そうして、ふたたび馬上の人となった馬超であるが、娘はなおも、その場に留まり、たずねてくる。
「父上、それは、玻璃というものでしょう? わたくしも知っています。いま成都では、それを好きな人に差し上げるのが流行っているのよ。父上は、それを、どなたに差し上げるの?」
娘としては、それは自分にくれるものではないかという期待があるのだろう。
だれにもやるつもりはないと答えて、この幼すぎる娘に理解できるだろうか。
娘はかわいい。
しかし、これは、だれにもやることはできない。
ふと、視線を感じ、見れば、屋敷の戸口のところで、習氏が、じっとこちらを見つめているのと目が合った。
とたん、馬超は、まるで心のなかを覗き見されたような恥かしさをおぼえた。
習氏は、すべてを見ていただろうに、表情のひとつも変えていない。まったく感情をうかがわせない、仮面のように静かな顔をして、じっとこちらを見つめている。
非難するでもなく、無理をして、笑って繕うでもなく、母親の仮面をかぶって、娘をたしなめるでもなく、ただ、見つめているのだ。
側室のだれかに贈るのだろうと思っているのだと、馬超は習氏の心を読んだ。
そうして、習氏のことを、いまこそ心の底からうとましく感じた。
この女は、董氏とあまりにちがう。
抗議のことばひとつ述べず、それでいて、人の心に侵略してくる。なんといやな女だろう!
今朝だけは見たくないと思った顔を見てしまったことへの怒りもあり、馬超は心を抑え切れなくなり、はげしい怒りにとらわれた。
こうなると、だれも、馬超本人さえも、抑えられない。
馬超は怒鳴った。
「なにを見ている! 見送りなどいらぬぞ! 屋敷に入れ!」
習氏は、馬超に言われて、いささかおどろいたような顔をしたが、しかし、それも一瞬のことであった。
習氏は、まったく静かに、答えた。
「夫を見送るのが、妻の役目でございますゆえ」
「役目か! 役目だから、わたしを見張っているのか! そうか、おまえはわたしを見張っているのだな! 娘をつかって、わたしがどこへ行くのかとたずねさせたのは、おまえの差し金だろう!」
おどろくか、あるいは悲しむかと思った馬超であるが、しかし習氏は変わらず静かに答える。
「いいえ、そのような真似はいたしませぬ」
馬超は思った。
この女は、わたしに惚れてなんぞおらぬのだ。
家にある箪笥や机や椅子とおなじように、欠くべからざるものとしての家の一部、『夫』ということで、わたしを遇しているだけに過ぎぬ。
一族に命じられたからと嫁いできて、さしたる愛情もないまま子を為した。
そうしていまは、自分と、その一族の名を飾るために『錦馬超』を利用して、羽目を外さぬように、見張っているというわけだ。
「家のためか。だからおまえは、わたしに付いてきているのだな。ふん、わたしが敗残の将ゆえ、おまえたちはわたしを蔑んでいるのだろう。
だが、言っておくぞ! わたしも、豪族の娘でさえあれば、おまえでなくても、ほかのだれでもよかったのだ!」
しかし、心をはげしく沸き立たせ、わめく一方でも、馬超は、自分のことばに違和感をおぼえているのも事実であった。
その違和感を、うまく表現することは出来ない。
自分が口にしている、この心ない言葉、そして思いは、止めようもなく口から飛び出して言ってしまう一方で、奇妙なことではあるが、すぐに胸の奥のほうで、その言葉のことごとくが否定されていることだけは、わかっていた。
自分で自分がうまく制御できない混乱と苛立ちにとらわれているなか、ちいさなちいさな、震えた声が馬超の耳にとどく。
「父上、母上を怒らないで。わたくしは、母上に言われたから、連れて行ってとおねがいしたのではないのです。ほんとうです。
だから、母上をお叱りにならないで。叱るのなら、わたしを叱ってください」
娘が父の剣幕におびえつつも、思いもかけない思いやりをみせて、母とのとりなしをしようと声をかけてくる。
母を守ろうとするその声が、たまらなく馬超を追いつめた。
「だまれ!」
馬超は叫ぶと、馬の腹を蹴り飛ばし、そして振りかえることなく、屋敷を飛び出した。
行くあてはなかったが、ともかくその場にいたくなかったのである。
つづく……