紅霞が狗のように吠えたとするなら、袁紹は獅子のように吠えた。
そのあまりの剣幕に、紅霞はなにもいえなくなったようで、あえぐように、口をしばしなんどか開いては閉じ、開いては閉じ、ということをくりかえしてから、ようやくあきらめた。
一方で、牢獄へ連行されていく義父の田豊は、さいごまで何もいわず、兵卒や見送りの黎陽の住民、部将たち、文官たち、将軍たち、すべての目線を受けながら、砂埃の向こうへ消えていった。
紅霞は砂上に両手をついてうずくまっていた。
かのじょの目から零れ落ちる涙は砂に点々と黒いしみをつくった。
沮授の兵が進みだしたので、かのじょの脇をとおっていく兵卒たちが、事情もよくわからず、じろじろと、あるいはにやにやと、見世物をみるような目線を向けて去っていく。
そのさまが、あまりにあわれであったので、顔良は紅霞の肩にそっと手をそえると、語りかけた。
「お立ちなされ。体が冷えてしまいますぞ」
口下手な顔良のいたわりのことばであった。じっさいに、春になったばかりの土のうえがあたたかいはずもなく、興奮しほてっている紅霞の体から、どんどん熱を奪っているはずである。
その身を案じてのことばだったが、紅霞には通じず、かのじょは首だけ振り返らせて、顔良をにらみつけた。
「なぜわたしを止めた」
「知れたこと。あそこで止めねば、まちがいなく姫は斬られてしまわれた」
言いつつ、顔良は、はじめて見た袁紹の、意外な獰猛さをおもいだし、改めて身震いをした。
万夫不当の勇者が、いまさら情けないとわれながらおもう。
袁紹に逆らってはいけないのだ。あのひとは、ふたつの顔を持っている。
それも当然。何十万という人間を束ねる人間には、どこか人間離れしたところがあるものだ、おそらく田豊と姫は、龍のいわば逆鱗に触れてしまったのであろうと顔良は解釈することにした。
「斬られてしまってもよかったのに」
そう言いつつ、無念そうに紅霞は涙を手の甲で拭く。
顔良は、はげしくこころの内で反駁していた。
冗談ではない、姫が斬られてしまったら、当然のことであるが、婚礼などできなくなってしまうではないか。
紅霞が斬られなかった理由は、ひとえに袁紹の、妹にたいする感傷だろう。
もし紅霞が、顔良はよくその顔をおぼえていないが、亡父の劉岱に似ていたら、きっと情け容赦なく斬られていたのではあるまいか。
「養父上はどうなってしまわれるだろう」
洟を始末しながら、紅霞が兵卒たちの行進の音にかき消されてしまうような小さな声で、弱弱しく言った。
「姫、それがしは一部始終すべて見ていたわけではござらんが、おそらく主公は、いっときのこころの昂ぶりがゆえに田豊どのを牢へ連れて行かれたにちがいありませぬぞ」
「そうであろうか」
「みな、この戦を早く終わらせて、平和を謳歌したいのです。そこへ、作戦をとめて、べつの戦法をとるべきだと冷や水をかけられるようなことを言われて、主公も頭にかっと血が上ってしまわれたのでしょう」
つづく…
そのあまりの剣幕に、紅霞はなにもいえなくなったようで、あえぐように、口をしばしなんどか開いては閉じ、開いては閉じ、ということをくりかえしてから、ようやくあきらめた。
一方で、牢獄へ連行されていく義父の田豊は、さいごまで何もいわず、兵卒や見送りの黎陽の住民、部将たち、文官たち、将軍たち、すべての目線を受けながら、砂埃の向こうへ消えていった。
紅霞は砂上に両手をついてうずくまっていた。
かのじょの目から零れ落ちる涙は砂に点々と黒いしみをつくった。
沮授の兵が進みだしたので、かのじょの脇をとおっていく兵卒たちが、事情もよくわからず、じろじろと、あるいはにやにやと、見世物をみるような目線を向けて去っていく。
そのさまが、あまりにあわれであったので、顔良は紅霞の肩にそっと手をそえると、語りかけた。
「お立ちなされ。体が冷えてしまいますぞ」
口下手な顔良のいたわりのことばであった。じっさいに、春になったばかりの土のうえがあたたかいはずもなく、興奮しほてっている紅霞の体から、どんどん熱を奪っているはずである。
その身を案じてのことばだったが、紅霞には通じず、かのじょは首だけ振り返らせて、顔良をにらみつけた。
「なぜわたしを止めた」
「知れたこと。あそこで止めねば、まちがいなく姫は斬られてしまわれた」
言いつつ、顔良は、はじめて見た袁紹の、意外な獰猛さをおもいだし、改めて身震いをした。
万夫不当の勇者が、いまさら情けないとわれながらおもう。
袁紹に逆らってはいけないのだ。あのひとは、ふたつの顔を持っている。
それも当然。何十万という人間を束ねる人間には、どこか人間離れしたところがあるものだ、おそらく田豊と姫は、龍のいわば逆鱗に触れてしまったのであろうと顔良は解釈することにした。
「斬られてしまってもよかったのに」
そう言いつつ、無念そうに紅霞は涙を手の甲で拭く。
顔良は、はげしくこころの内で反駁していた。
冗談ではない、姫が斬られてしまったら、当然のことであるが、婚礼などできなくなってしまうではないか。
紅霞が斬られなかった理由は、ひとえに袁紹の、妹にたいする感傷だろう。
もし紅霞が、顔良はよくその顔をおぼえていないが、亡父の劉岱に似ていたら、きっと情け容赦なく斬られていたのではあるまいか。
「養父上はどうなってしまわれるだろう」
洟を始末しながら、紅霞が兵卒たちの行進の音にかき消されてしまうような小さな声で、弱弱しく言った。
「姫、それがしは一部始終すべて見ていたわけではござらんが、おそらく主公は、いっときのこころの昂ぶりがゆえに田豊どのを牢へ連れて行かれたにちがいありませぬぞ」
「そうであろうか」
「みな、この戦を早く終わらせて、平和を謳歌したいのです。そこへ、作戦をとめて、べつの戦法をとるべきだと冷や水をかけられるようなことを言われて、主公も頭にかっと血が上ってしまわれたのでしょう」
つづく…