かつてないほどに、緊迫した空気が支配していた。
文偉は、急ごしらえの陣を敷き、そこで、幕舎にあつめた諸将を前に、魏延が反逆したことのいきさつを、すべて説明した。
趙直の夢占いの話から、孔明が、自分や姜維に最後に下した指示のことまで、あまさず話した。
常日頃の魏延の振る舞いを見ていただけに、だれも魏延を庇うことはない。
まして、ほかならぬ味方の大将が、自分たちの退路を焼き払ってしまったのである。
動揺は、武将たちだけではなく、兵卒たちにも広がっていた。
魏延に内応する約束をしていた者たちも、文偉の前には含まれている。
暗にかれらに向けて、文偉はきつく言った。
「魏文長は、不遜にも大恩を忘れ、丞相のご遺志に反し、勝手に部隊を率いて、われらを窮地に追い込んでいるのである。
幸いにも、いまのところ司馬仲達の動きはないが、これとて時間の問題だ。
早急に谷を抜けねばならぬが、愚かにも魏文長は、橋を焼き払ってしまったのである。かれに魏朝への投降の意志はないとしても、これではどちらの味方かわからぬ。
ここに及んで、魏文長に従う者はおるか!」
答える者はいなかった。
どの武将たちの顔も、緊張で強ばっている。
そこへ、荒々しい足音を響かせて、何平があらわれた。
何平は、当初、軍の殿(しんがり)を務めていたのであるが、魏延に先回りされたことを受け、急遽、先陣に配されたのである。
きわめて事務的に事を進める男で、ここぞという時には頼りになる、亡き趙雲をどこか彷彿とさせる男であった。
その何平が、苛立ちもあらわに、文偉の前に畏まる。
「やられ申した! 谷の橋は、魏文長によって、すべて焼き払われてしまっております! わが隊は、立ち往生となっておりまして、こうして指示を仰ぎに参った次第!」
「すべてだと!」
この報告に、ますます文武の両官は色めきたった。
何平は、かれらを見回し、強く頷く。
「樵夫が使うような、細い橋までも、すべて焼け落とされております」
「退路はすべて断たれたというわけか」
容赦ない攻撃をする男である。
味方であるときは頼もしい限りであったが、敵になったとたんに、これはどうだ。
文偉には、北にいる司馬仲達の目が、獲物を捕らえる機会を狙う猛禽のように、油断なくこちらを見つめている気配をおぼえていた。
こちらが谷で立ち往生していることを知れば、好機とばかりに襲ってくる。
「道がなければ、作ればよい」
と、口を挟んだのは、文偉の斜めうしろで、諸将より、すこし離れた位置で話を聞いていた姜維である。
「何将軍、このあたりに住まう、地理に詳しい樵を探してください。橋が使えないといって、北は敵地。戻るわけには参りませぬ。急ぎます。早く」
何平は、淡々とつむがれる、無駄のない姜維のことばにうなずくと、すぐに幕舎を出て、馬を走らせた。
ほどなく、何平は、山小屋にいた樵を連れてきて、みなのまえに引き出した。
姜維は、武将らをそれぞれの部隊に待機させ、樵を地図の前に連れてきて、尋ねる。
「我らは谷を抜けたい。このあたりで、地形がもっともなだらかで、進みやすい場所はあるか」
ものものしい場所に引っ立てられて、怯えた樵は、おどおどしながら、頷いた。
「へえ。ちょっとばかり急ですが、わしらが狩りに使うときの、ちいさな道がございますが」
しかし姜維は首を横に振った。
「駄目だ。おそらく殆どの道は、魏将軍に先回りされていると見てよい。待ち伏せを喰らわぬように、道ではないところを行く必要がある。多少、遠回りでもかまわぬ。あまり急斜面ではなく、木々の少ない場所はないか」
樵はうーむと唸りながら、頭をひねり、どこそこが、と答える。
すると姜維は、樵の述べた地名に応じて、指先を地図に当てて、ここかと尋ね返す。
すると、樵は、そうでございますと頷く。
そうして、指を軍兵に見立てて、樵の述べるとおりに、地図に、道なき道を描いてみせた。
横で見ていた文偉は、姜維の知識に感嘆した。
「魏文長にも驚いたが、おまえも引けを取らぬな」
「蜀の将となってより、涼州と漢中の地図を眺めなかった日はありませぬ。貴方はちがうのですか」
「一言多いぞ。よろしい。この地図を工作部隊に渡し、山を切り開き、道を作ろう。指揮は何平に頼む。いまのうちに士卒には食事をとらせ、殿は司馬仲達の動きに注意せよ」
「成都の陛下への使いは?」
「魏文長が、橋を落す前に通過できたようだ。成都も大騒ぎとなっているだろう。これをおさめるのは、蒋長史の手腕にかかっているな」
うまくやれよと、文偉は遠い都の友に向かってつぶやいた。
文偉は、急ごしらえの陣を敷き、そこで、幕舎にあつめた諸将を前に、魏延が反逆したことのいきさつを、すべて説明した。
趙直の夢占いの話から、孔明が、自分や姜維に最後に下した指示のことまで、あまさず話した。
常日頃の魏延の振る舞いを見ていただけに、だれも魏延を庇うことはない。
まして、ほかならぬ味方の大将が、自分たちの退路を焼き払ってしまったのである。
動揺は、武将たちだけではなく、兵卒たちにも広がっていた。
魏延に内応する約束をしていた者たちも、文偉の前には含まれている。
暗にかれらに向けて、文偉はきつく言った。
「魏文長は、不遜にも大恩を忘れ、丞相のご遺志に反し、勝手に部隊を率いて、われらを窮地に追い込んでいるのである。
幸いにも、いまのところ司馬仲達の動きはないが、これとて時間の問題だ。
早急に谷を抜けねばならぬが、愚かにも魏文長は、橋を焼き払ってしまったのである。かれに魏朝への投降の意志はないとしても、これではどちらの味方かわからぬ。
ここに及んで、魏文長に従う者はおるか!」
答える者はいなかった。
どの武将たちの顔も、緊張で強ばっている。
そこへ、荒々しい足音を響かせて、何平があらわれた。
何平は、当初、軍の殿(しんがり)を務めていたのであるが、魏延に先回りされたことを受け、急遽、先陣に配されたのである。
きわめて事務的に事を進める男で、ここぞという時には頼りになる、亡き趙雲をどこか彷彿とさせる男であった。
その何平が、苛立ちもあらわに、文偉の前に畏まる。
「やられ申した! 谷の橋は、魏文長によって、すべて焼き払われてしまっております! わが隊は、立ち往生となっておりまして、こうして指示を仰ぎに参った次第!」
「すべてだと!」
この報告に、ますます文武の両官は色めきたった。
何平は、かれらを見回し、強く頷く。
「樵夫が使うような、細い橋までも、すべて焼け落とされております」
「退路はすべて断たれたというわけか」
容赦ない攻撃をする男である。
味方であるときは頼もしい限りであったが、敵になったとたんに、これはどうだ。
文偉には、北にいる司馬仲達の目が、獲物を捕らえる機会を狙う猛禽のように、油断なくこちらを見つめている気配をおぼえていた。
こちらが谷で立ち往生していることを知れば、好機とばかりに襲ってくる。
「道がなければ、作ればよい」
と、口を挟んだのは、文偉の斜めうしろで、諸将より、すこし離れた位置で話を聞いていた姜維である。
「何将軍、このあたりに住まう、地理に詳しい樵を探してください。橋が使えないといって、北は敵地。戻るわけには参りませぬ。急ぎます。早く」
何平は、淡々とつむがれる、無駄のない姜維のことばにうなずくと、すぐに幕舎を出て、馬を走らせた。
ほどなく、何平は、山小屋にいた樵を連れてきて、みなのまえに引き出した。
姜維は、武将らをそれぞれの部隊に待機させ、樵を地図の前に連れてきて、尋ねる。
「我らは谷を抜けたい。このあたりで、地形がもっともなだらかで、進みやすい場所はあるか」
ものものしい場所に引っ立てられて、怯えた樵は、おどおどしながら、頷いた。
「へえ。ちょっとばかり急ですが、わしらが狩りに使うときの、ちいさな道がございますが」
しかし姜維は首を横に振った。
「駄目だ。おそらく殆どの道は、魏将軍に先回りされていると見てよい。待ち伏せを喰らわぬように、道ではないところを行く必要がある。多少、遠回りでもかまわぬ。あまり急斜面ではなく、木々の少ない場所はないか」
樵はうーむと唸りながら、頭をひねり、どこそこが、と答える。
すると姜維は、樵の述べた地名に応じて、指先を地図に当てて、ここかと尋ね返す。
すると、樵は、そうでございますと頷く。
そうして、指を軍兵に見立てて、樵の述べるとおりに、地図に、道なき道を描いてみせた。
横で見ていた文偉は、姜維の知識に感嘆した。
「魏文長にも驚いたが、おまえも引けを取らぬな」
「蜀の将となってより、涼州と漢中の地図を眺めなかった日はありませぬ。貴方はちがうのですか」
「一言多いぞ。よろしい。この地図を工作部隊に渡し、山を切り開き、道を作ろう。指揮は何平に頼む。いまのうちに士卒には食事をとらせ、殿は司馬仲達の動きに注意せよ」
「成都の陛下への使いは?」
「魏文長が、橋を落す前に通過できたようだ。成都も大騒ぎとなっているだろう。これをおさめるのは、蒋長史の手腕にかかっているな」
うまくやれよと、文偉は遠い都の友に向かってつぶやいた。