「見事なお裁きでしたな、感服いたした」
骨の折れる裁判をの判決を終えたあと、おのれにかけられた声におどろいて孔明が振り返ると、なんと、関羽であった。
新野に来て以来、まともに口すらきいてくれなかった誇り高い男が、こちらを褒めてくれている。
それだけでもおどろきなのに、長髭のなかの関羽の顔には、照れ臭そうな笑みすら浮かんでいた。
「それがしは、これまで、軍師どのを見くびっていたようだ。どうぞお許しくだされ」
そういって、率直に頭を下げてくる。
孔明としては、とつぜんの謝罪に、おどろいたやら、うれしいやら。
「頭を上げてください、雲長どの。やるべきことをやっただけのことですから」
謙遜する孔明に、関羽は、今度は呵々と笑って、言った。
「いや、痛快な裁判であった。しらばっくれていた悪人が、軍師が矛盾をつぎつぎと指摘していくと、だんだんしどろもどろになっていく様が、実にな。あれほど的確で無駄のない追及ができるとは、たいしたものだ。そうとうに調べをなさったのでしょうな。
いやあ、それがしでは、あそこまで事件をひっくり返すことはできなかったであろう。学ばせていただいた。礼を言わねばならぬ」
「そこまで言っていただけると、かえってお恥ずかしいかぎりです。じつをいうと、裁判がはじまるまえに、ざっと調書を読んだだけです」
「なんと」
「それほど難しい事件に思われなかったのですが、証人の話や罪人の態度を見て、偏見を持って判決を下すのは危険だと思いなおしました」
「ほう。しかし、おかしいと気づいたことこそたいしたものだ」
「おほめいただき光栄です。わたしこそ、いろいろ学びのあった裁判です」
「そういう謙虚さも大切ということだな。いやあ、ほんとうに学びがあった」
関羽はそう繰り返すと、孔明の肩を親しげに、ばんばん、と叩いた。
「軍師どの、それがしは貴殿を認める。これからも兄者の力になって、この新野を守っていってくれ」
「ありがとうございます」
関羽はほんとうに裁判がおもしろかったらしく、よかった、よかった、などと晴れ晴れとした様子で立ち去て行った。
しかし、そのうしろにつづく張飛は、ずっとその場にいたにもかかわらず、一言も口を利かず、むすっとしたまま孔明を無視して行ってしまった。
すこしずつ、新野の人々ともよい関係を築けつつある。
だが、当然ながら、すべての人に好かれるというのは不可能らしい。
『雲長どのとは、うまくやっていけそうだ。問題は益徳どのだな。あの御仁は豪傑だが、なかなかに嫉妬深い方でもあるようだ』
劉備の義弟である関羽と張飛とは、どうあれ、よい関係を作っておきたいと、孔明は思う。
これから、長い付き合いになるなかで、いちいち、水野郎め、と目の敵にされるのは面倒だ。
ふう、とため息をついて、凝った肩をまわす。
関羽に言ったことは事実だった。
裁判がはじまるまえは、単純な事件だと思っていた。
調書も特段に変わった記述がなく、証拠もそろっていた。
ところが、おびえる被告人のすがるような眼を見たとき、これほど澄んだ目をした人間が罪を犯しただろうかと疑問に思った。
そして、証人の一人が、証言のあとに気を緩ませて、いかにもしてやったりというふうに笑ったときに、これは冤罪ではないかと思い直した。
そこで、孔明は徹底して証拠の矛盾点をあげていき、まず被告人に咎がないことを証明。
つづいて、証拠の矛盾点が示す真犯人をその場であぶりだした。
真犯人は、証言のさいに笑った男であった。
孔明のあざやかな追及に、真犯人は当初こそ、つべこべ言っていたが、次第に追い詰められ、ついに罪を白状した。
まるでよくできた劇を見るような孔明の裁きに、見物していた関羽をはじめとして、その場の書記からほかの証人たちまでが拍手喝采。
ここで、常人なら、いい気分になっただろうが、関羽に語ったことが事実で、孔明は自分を戒めていた。
真犯人がうっかり証言後に笑ったりしなかったなら、おかしいと思わなかったわけで、自分はまだまだ文字だけを通して世の中を見ているのだなと痛感させられたのだ。
それでも、思いもかけず関羽から褒められたのはうれしい出来事ではあったが。
※
さて、これから、また事務仕事が待っている。
孔明は力みすぎている肩から力を抜いて、小さく、よし、と自分に言い聞かせると、執務室へ向かった。
裁判のあいだに溜まっていた仕事は山のように積まれていた。
これまた常人であったなら、こんなに働かねばならないのかとうんざりしただろうが、孔明はちがう。
こんなに自分の力を証明できる事案があるのだと思うと、わくわくするのである。
「さあ、やりますか」
孔明が言って、筆を執ると、となりの席の麋竺は頼もしい息子を見るような目で孔明を見てうれしそうな顔をし、すこし離れたところに座る孫乾と簡雍は、顔を見合わせて、どういう意味か、首を軽く左右に振った。
麋竺が自分に好意を持っているのはわかっているのだが、孫乾と簡雍はいまひとつよくわからない。
かれらは、関羽や張飛と同調していて、直接にああだこうだと言わないまでも、態度はいまもって固いままだった。
関羽が孔明を認めたことは、まだかれらには伝わっていないだろう。
ほんとうなら、関羽や張飛たちとは関係なく、自分を認めてほしいところだが、と孔明は思う。
夏には曹操が南下してくるかもしれないという緊迫した状況下で、いつまでも内輪もめをしていられない。
早く人々に自分を認めてもらいたかった。
そうすれば、一枚岩となって、あの巨大な力…曹操に対抗することができる。
つづく
(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)
骨の折れる裁判をの判決を終えたあと、おのれにかけられた声におどろいて孔明が振り返ると、なんと、関羽であった。
新野に来て以来、まともに口すらきいてくれなかった誇り高い男が、こちらを褒めてくれている。
それだけでもおどろきなのに、長髭のなかの関羽の顔には、照れ臭そうな笑みすら浮かんでいた。
「それがしは、これまで、軍師どのを見くびっていたようだ。どうぞお許しくだされ」
そういって、率直に頭を下げてくる。
孔明としては、とつぜんの謝罪に、おどろいたやら、うれしいやら。
「頭を上げてください、雲長どの。やるべきことをやっただけのことですから」
謙遜する孔明に、関羽は、今度は呵々と笑って、言った。
「いや、痛快な裁判であった。しらばっくれていた悪人が、軍師が矛盾をつぎつぎと指摘していくと、だんだんしどろもどろになっていく様が、実にな。あれほど的確で無駄のない追及ができるとは、たいしたものだ。そうとうに調べをなさったのでしょうな。
いやあ、それがしでは、あそこまで事件をひっくり返すことはできなかったであろう。学ばせていただいた。礼を言わねばならぬ」
「そこまで言っていただけると、かえってお恥ずかしいかぎりです。じつをいうと、裁判がはじまるまえに、ざっと調書を読んだだけです」
「なんと」
「それほど難しい事件に思われなかったのですが、証人の話や罪人の態度を見て、偏見を持って判決を下すのは危険だと思いなおしました」
「ほう。しかし、おかしいと気づいたことこそたいしたものだ」
「おほめいただき光栄です。わたしこそ、いろいろ学びのあった裁判です」
「そういう謙虚さも大切ということだな。いやあ、ほんとうに学びがあった」
関羽はそう繰り返すと、孔明の肩を親しげに、ばんばん、と叩いた。
「軍師どの、それがしは貴殿を認める。これからも兄者の力になって、この新野を守っていってくれ」
「ありがとうございます」
関羽はほんとうに裁判がおもしろかったらしく、よかった、よかった、などと晴れ晴れとした様子で立ち去て行った。
しかし、そのうしろにつづく張飛は、ずっとその場にいたにもかかわらず、一言も口を利かず、むすっとしたまま孔明を無視して行ってしまった。
すこしずつ、新野の人々ともよい関係を築けつつある。
だが、当然ながら、すべての人に好かれるというのは不可能らしい。
『雲長どのとは、うまくやっていけそうだ。問題は益徳どのだな。あの御仁は豪傑だが、なかなかに嫉妬深い方でもあるようだ』
劉備の義弟である関羽と張飛とは、どうあれ、よい関係を作っておきたいと、孔明は思う。
これから、長い付き合いになるなかで、いちいち、水野郎め、と目の敵にされるのは面倒だ。
ふう、とため息をついて、凝った肩をまわす。
関羽に言ったことは事実だった。
裁判がはじまるまえは、単純な事件だと思っていた。
調書も特段に変わった記述がなく、証拠もそろっていた。
ところが、おびえる被告人のすがるような眼を見たとき、これほど澄んだ目をした人間が罪を犯しただろうかと疑問に思った。
そして、証人の一人が、証言のあとに気を緩ませて、いかにもしてやったりというふうに笑ったときに、これは冤罪ではないかと思い直した。
そこで、孔明は徹底して証拠の矛盾点をあげていき、まず被告人に咎がないことを証明。
つづいて、証拠の矛盾点が示す真犯人をその場であぶりだした。
真犯人は、証言のさいに笑った男であった。
孔明のあざやかな追及に、真犯人は当初こそ、つべこべ言っていたが、次第に追い詰められ、ついに罪を白状した。
まるでよくできた劇を見るような孔明の裁きに、見物していた関羽をはじめとして、その場の書記からほかの証人たちまでが拍手喝采。
ここで、常人なら、いい気分になっただろうが、関羽に語ったことが事実で、孔明は自分を戒めていた。
真犯人がうっかり証言後に笑ったりしなかったなら、おかしいと思わなかったわけで、自分はまだまだ文字だけを通して世の中を見ているのだなと痛感させられたのだ。
それでも、思いもかけず関羽から褒められたのはうれしい出来事ではあったが。
※
さて、これから、また事務仕事が待っている。
孔明は力みすぎている肩から力を抜いて、小さく、よし、と自分に言い聞かせると、執務室へ向かった。
裁判のあいだに溜まっていた仕事は山のように積まれていた。
これまた常人であったなら、こんなに働かねばならないのかとうんざりしただろうが、孔明はちがう。
こんなに自分の力を証明できる事案があるのだと思うと、わくわくするのである。
「さあ、やりますか」
孔明が言って、筆を執ると、となりの席の麋竺は頼もしい息子を見るような目で孔明を見てうれしそうな顔をし、すこし離れたところに座る孫乾と簡雍は、顔を見合わせて、どういう意味か、首を軽く左右に振った。
麋竺が自分に好意を持っているのはわかっているのだが、孫乾と簡雍はいまひとつよくわからない。
かれらは、関羽や張飛と同調していて、直接にああだこうだと言わないまでも、態度はいまもって固いままだった。
関羽が孔明を認めたことは、まだかれらには伝わっていないだろう。
ほんとうなら、関羽や張飛たちとは関係なく、自分を認めてほしいところだが、と孔明は思う。
夏には曹操が南下してくるかもしれないという緊迫した状況下で、いつまでも内輪もめをしていられない。
早く人々に自分を認めてもらいたかった。
そうすれば、一枚岩となって、あの巨大な力…曹操に対抗することができる。
つづく
(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)