はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

浮漚の記 1

2020年04月27日 09時38分51秒 | 浮漚の記
孔明は、まだ朝も明けきらないうちに目が覚めた。
それというのも、このところの旱天で、陳情が絶えず、夜半過ぎまで処理に追われており、結局、うつらうつらとしか眠っていないためでもある。
「酷い顔だな」
と、水がめに映えたおのれの顔につぶやいてみる。
もともと食が細いうえに、熱中しやすい性質である。
自分が最後に食事をしたのがいつであったか覚えていない。
くわえて、睡眠不足。
丈夫なほうではないから、これではみずから身体を壊しにかかっているようなものだ。

主の目覚めに気付いたか、家令が部屋にあらわれた。
おはよう、と声をかけようとして、言葉が止まる。
いつもの家令ではなかった。
長い黒髪を、後ろで一つにまとめて、器用にねじらせ、垂らしている、十四、五歳くらいの少女である。
「李さんは腰を痛めまして、本日はお休みをしております」
 と、少女はか細い声で言った。
伏せ目勝ちの、長く濃い睫毛が目立つ少女である。
地味にしているが、着飾ればなかなかの美女になりそうな。
「御髪を整えさせてください」
少女は言うと、孔明の髪を整えにかかった。
震える手で、髪に櫛をかけていく。
緊張している様子だ。
おそらく古株の家人から、うちの主人は気むずかしいと言い含められているのだろう。
気むずかしいのは認めるが、理不尽に辛く当たることはない。

少女の緊張をほぐすため、孔明は声をかけた。
「おまえはいつからこの屋敷にいるのだっけ?」
「はい。一月ほど前からでございます」
厨の下働きとして雇ったおり、家令とあいさつにやってきたのをかすかにおぼえている。
「ここは楽な奉公場所であろう? わたしは食道楽とは無縁だからな。口に入ればとりあえず文句は言わぬ」
冗談を言ったつもりであったが、少女はにこりともせず、むしろ辛そうに顔を伏せた。
「もうしわけございません。わたしの腕が悪いから」
「そうではない。出されたものが不味いと思ったことはないぞ。それとも、そんなふうにおまえを苛める者がいるのかね」
少女は、あ、と小さくうめくように言って、櫛を動かす手を止めた。
孔明は軽くため息をつく。

赤壁において孫権と同盟を組み、首尾よく江南の地を手に入れ、孔明は劉備の命により、臨烝に居をかまえた。
あらたに屋敷を得て、家人もそろえたのであるが、家を取り仕切る妻が不在のためか、屋敷は古株の使用人が、どうしても幅を利かせてしまう。
いま孔明の屋敷で切り盛りを担当しているのは家令の李じいさんであるが、これが気持ちの空回りする性質のじいさんで、張り切っては身体を壊してすぐ寝込む。
代わりに出張っているのが厨の料理女なのであるが、これが性格のきつい寡婦で、気に入らない家人をことごとくいびっているらしい。

「わたし、役立たずなんです」
と、消え入りそうな声で少女は言い、髪を結うために油を髪に塗る。
塗りすぎだ、と孔明は思ったが、いま注意したら泣き出すのは必至であったので、黙っていることにした。
話を変えよう。
「そういえば、おまえの名前はなんであったかな?」
「名前…ありません」
「ない? では、みなはおまえをどう呼んでいるのだい?」
「厨の子と」
「ここに来る前は、なんと?」
「…」
背後に立った少女から、真っ黒い雲がもやもやと現われているように感じるのは気のせいか? 
「厨の子ではあんまりだな。なにかよい名前を考えてやろう。待っていなさい」
「そんな…」
「嫌かね?」
「嫌ではありません。でも、ご迷惑では、と」
「迷惑ではないよ。気がまぎれるし、名前を考えたりするのは好きだ。楽しみにまっておいで」
言うと、少女は、ようやく笑みらしきものを口はしに浮かべた。
感情の読み取りにくい少女だ。
手の震えはおさまったものの、みずから告白したとおり、役立たず、という言葉は間違いでなかったようで、出来上がった髪は、いつもより納まりがわるかった。

仕方ない。

恐縮する少女に、もうよいから、と言って、孔明はとりあえず、かるく朝餉を口にして、馬車に乗り込むと、見送りに出ている家人たちの目に触れないところまで来たのを確認してから、すでに崩壊の兆しをみせている結髪の上に、頭巾をかぶせた。





「しばらく見ないうちに、ずいぶんおやつれになられた」
開口いちばん、桂陽からやってきた趙子龍はそういった。
それはそうだろう。
孔明は、身だしなみに特別な注意を払っている。
おのれの容姿の良さと雰囲気が、どれだけ周囲に影響力を与えているか、よくわかっているからだ。
だから、どんなに忙しいときでも、たとえ敵陣の中にあったとしても、身だしなみに手を抜いたことはない。
どこから見られてもよいように計算し、常に他者の目を意識している。
だから、今朝のように、隠者のかぶるような頭巾をし、顔色の冴えない様子というのはめずらしいので、悪目立ちするのだ。

「いろいろ事情があるのでな」
「無理をなさるな。風呂に入る暇もないのですか」
「ふむ…香油はそんなにきついかな」
例の少女が、髪を結うさいに、加減がわからず、たっぷりと香油をふりかけてくれたおかげで、おのれでも眉をしかめるくらいに、今日は匂いがきつくなっている。
悪い匂いではありませんが、と趙雲は言い足した。

孔明が軍師中郎将として荊州の三郡を統治するようになって以来、趙雲はいままでの、同胞にするような気さくな態度はあらためて、礼にかなった態度と言葉遣いをするようになった。
とはいえ、その間柄に変化があったわけではない。
ひさしぶりに遠慮のない会話ができる相手がやってきたので、孔明の表情も、ついゆるむ。
「ところで、新しい井戸のほうはどうだ?」
「あまり気が進みませぬが、道士を雇って水脈を探らせているところです。蛇の道は蛇。もしかしたら上手くいくかもしれません」
「弱気だな」
孔明が揶揄するように言うと、趙雲は、腕を組み、口をヘの字に曲げた。
「弱気にもなります。このところ陳情が耐えないのです。やれ、隣家が農地の境界線を越して収穫を取ってしまっただの、よそものが水路を勝手につかって困るだの、流民が盗賊のまねごとをしているから退治してくれだの。趙範がいままで如何になにもしてこなかったかよく判り申した」
その苦りきった様子に、思わず孔明は声をたてて笑った。
臨烝の文官たちは、その声におどろいて、こちらを振り返る。

孔明は、おのれは感情の起伏のはげしい人間だと思っている。
だからこそ普段はつとめて感情を表に出さないようにしていた。
冷静沈着に見えるのは、冷冷とした己の風貌に拠るところが大きい。

文官たちがおっかなびっくりと孔明の様子を窺っているのを見て、今度は趙雲が苦笑する。
「すいぶん怖がられているようですな。舐められるよりはよいが」
「上に立つものは嫌われ役でもあるのさ。好かれるのは主公お一人だけでよい。
桂陽のほうはどうだ?」
「趙範の取り巻きと、それがしが連れてきた人間とで派閥が出来つつあります。この調整に手間取っております」
趙雲が弱音を吐く、などということは、それこそ真夏に雪が降るくらいにめずらしい。
疲れているのだろう。
おのれの弱気がおかしくなったのか、苦笑いを浮かべ、趙雲は付け加えた。
「今日、こちらにやってきたのも、報告がてらに息抜きをしに来たというのもあるのです」
「ならばゆっくりしていくといい。そうだ、臨烝の町はあまり見ていないのだろう? 視察に行くので、一緒に来ないか」


つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2004)


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