「最後のだいじな調練だというのに、なぜ貴殿はそのようにうわの空でぼんやりしておられるのか。このようないいかげんな調練を受ける兵が気の毒だ。これではおそらく死地をくぐりぬけることはできまい。これなら調練など無駄にしていないで、兵を休ませたほうが利巧というものだ」
心地よい涼やかな声にうっとりしながら、顔良は、あくまで威厳をとりつくろって答えた。
「なんと、うわの空とはあんまりな。それがしはしっかりと」
調練をしていたではないか、といいかけたのだが、それは無礼な姫に遮られてしまった。
「そこの者、さきほどから号令をかけていたのはそなたばかりであったな。顔将軍は、ただそこでぼんやりと座っておられただけであった」
紅霞がわずかに横を向いて指定したのは、副将の陳到であった。
陳到はというと、こういうときには強いもので、この姫はなにを言い出したのやらとでもいいたそうな不思議そうな顔をして、とぼけて答える。
「いいえ。失礼ながら、姫の見間違いではありませぬか」
「なに、見間違いと申すか」
「はい。顔将軍はわれらにいつもどおりに指示をされ、厳しく調練を見守っておられました」
「うそを申すな。そなたは、さきほどから、ぼおっと呆けている顔将軍の変わりに、ねずみのようにきいきい騒ぎ立てながらひとりで号令をかけつづけていたではないか」
ねずみのように、とばかにされながらも、陳到はえらいもので、髪の毛の筋ほどにも表情を変えず、どころかほがらかに笑って見せた。
「ねずみとは言いえて妙でございますなあ。たしかにそれがしの声はすこしばかり甲高いので、よく外にも通るようでございます。それにひきかえ、顔将軍の声は男らしく低い。そのため、ちょっとやそっとでは、遠くまで声が通りませぬ。そのため、紅霞さまは聞き間違いをなさったのではありませぬか。それがしばかりが声をあげていて、顔将軍はなにもなさっていない、と」
「我が耳を疑えと申すか」
きつく顔をしかめる紅霞に、陳到は軽く頭を下げて、きっぱりと言ってのけた。
「天下無双の雄が、大戦をまえに、ぼんやりすることなどありえませぬ。おそれながら、紅霞さまの勘ちがい。そういうわけですので、ここは顔将軍に謝罪をされ、立ち去られたほうがよろしいかとおもわれます」
紅霞の浅黒いからだに、かっと血がのぼったのが、はたからみている顔良にもわかった。
紅霞は陳到をにらみつけ、屈辱に身をふるわせている。
そのやり取りを見ていた兵卒たちのあいだからも、怖いものしらずなもので、そうだ、そうだ、顔将軍にあやまれ、といった野次が飛ぶ。
陳到も野次を飛ばしている者も、紅霞をからかっているわけではない。
顔良はたしかにぼんやりしていた。
だが、普段のかれが、どれだけ立派な将軍ぶりを発揮しているか、知っている。
今日はたまたまぼんやりしていたのだ。
それを軍に所属しないよそ者、それも姫とはいえ女が叱ってきて、おもしろくおもうはずがない。
おれたちの将軍を守れ……そんな気持ちが兵卒や部将たちのなかに起こっていた。
陳到の機転に感心しきっていた顔良は、野次にもまれる紅霞の姿をあわれにおもいつつ、そうだ、ここで男を見せるところだなとおもった。
つづく…
心地よい涼やかな声にうっとりしながら、顔良は、あくまで威厳をとりつくろって答えた。
「なんと、うわの空とはあんまりな。それがしはしっかりと」
調練をしていたではないか、といいかけたのだが、それは無礼な姫に遮られてしまった。
「そこの者、さきほどから号令をかけていたのはそなたばかりであったな。顔将軍は、ただそこでぼんやりと座っておられただけであった」
紅霞がわずかに横を向いて指定したのは、副将の陳到であった。
陳到はというと、こういうときには強いもので、この姫はなにを言い出したのやらとでもいいたそうな不思議そうな顔をして、とぼけて答える。
「いいえ。失礼ながら、姫の見間違いではありませぬか」
「なに、見間違いと申すか」
「はい。顔将軍はわれらにいつもどおりに指示をされ、厳しく調練を見守っておられました」
「うそを申すな。そなたは、さきほどから、ぼおっと呆けている顔将軍の変わりに、ねずみのようにきいきい騒ぎ立てながらひとりで号令をかけつづけていたではないか」
ねずみのように、とばかにされながらも、陳到はえらいもので、髪の毛の筋ほどにも表情を変えず、どころかほがらかに笑って見せた。
「ねずみとは言いえて妙でございますなあ。たしかにそれがしの声はすこしばかり甲高いので、よく外にも通るようでございます。それにひきかえ、顔将軍の声は男らしく低い。そのため、ちょっとやそっとでは、遠くまで声が通りませぬ。そのため、紅霞さまは聞き間違いをなさったのではありませぬか。それがしばかりが声をあげていて、顔将軍はなにもなさっていない、と」
「我が耳を疑えと申すか」
きつく顔をしかめる紅霞に、陳到は軽く頭を下げて、きっぱりと言ってのけた。
「天下無双の雄が、大戦をまえに、ぼんやりすることなどありえませぬ。おそれながら、紅霞さまの勘ちがい。そういうわけですので、ここは顔将軍に謝罪をされ、立ち去られたほうがよろしいかとおもわれます」
紅霞の浅黒いからだに、かっと血がのぼったのが、はたからみている顔良にもわかった。
紅霞は陳到をにらみつけ、屈辱に身をふるわせている。
そのやり取りを見ていた兵卒たちのあいだからも、怖いものしらずなもので、そうだ、そうだ、顔将軍にあやまれ、といった野次が飛ぶ。
陳到も野次を飛ばしている者も、紅霞をからかっているわけではない。
顔良はたしかにぼんやりしていた。
だが、普段のかれが、どれだけ立派な将軍ぶりを発揮しているか、知っている。
今日はたまたまぼんやりしていたのだ。
それを軍に所属しないよそ者、それも姫とはいえ女が叱ってきて、おもしろくおもうはずがない。
おれたちの将軍を守れ……そんな気持ちが兵卒や部将たちのなかに起こっていた。
陳到の機転に感心しきっていた顔良は、野次にもまれる紅霞の姿をあわれにおもいつつ、そうだ、ここで男を見せるところだなとおもった。
つづく…