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はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 4

2020年11月11日 10時13分44秒 | 風の終わる場所


雨はしばらく糸雨であったのだが、文偉たちが村に着くと同時に、ふたたび土砂降りとなった。
一軒先も見えないほどの豪雨である。
村長の屋敷に招かれた文偉は、まず、屋敷中に炊かれた、香の薫りの濃さに驚いた。
なにか凶事でもあったのだろうか。
家人が出てきて、雨に濡れた文偉の世話をしてくれるのだが、その仕草も、どうもぎこちない。
雨のために家が暗い、というのもあるが、どこになにがあるのか、家人同士で話し合って捜している、というありさまであった。
芝蘭という娘は、家に着くなり奥のほうへと去ってしまった。
どうも、悪いときにお邪魔しているようだ、と気まずさをおぼえた文偉であるが、この雨の中、いまさら帰るわけにもいかない。
一晩だけ、宿を借りて、朝になったら早々に村を出ようとおもった。

村長の馬光年だけは気のよい男で、文偉が成都から来たと知ると、今宵は宴を開こうといって、てきぱきと家人に采配をはじめた。
家には芝蘭のほかは女手がすくないらしい。
馬光年には妻がいない様子である。
やがて、宴の準備がされ、雨のなか、村じゅうの人があつまった。
遠方からやってきた文偉のために、村の娘たちも着飾ってあらわれて、いろいろもてなしをしてくれた。
しかし文偉は奇妙におもった。
かれらはたしかに歓迎してくれており、みな一様に、にこにこしているのであるが、口数はすくない。
おたがいの表情をさぐり、ことばをさぐり、慎重に口をひらいているというふうだ。
とはいえ、文偉が奇妙におもうことがあったとしても、酌にあらわれた娘を見たら、そんなものは吹っ飛んでしまったであろう。
よくぞこの山奥に、というくらいにうつくしい、山の精の化身のような娘があらわれたのだ。
名を紫芝という。
匂いたつような色香があり、物腰は宮女のように雅やかで、見とれるほどに垢抜けた娘であった。
芝蘭の姉娘ということを知ったとき、文偉は、芝蘭の右目のことをおもった。
あの傷さえなかったら、あの娘もこれほど煌めいたのであろうと残念におもったのだ。





そうして、宴は、いささか賑やかさにはかけるものの、穏やかに過ぎていった。
その夜更けである。
更衣のために目がさめた文偉であるが、ふと、部屋にだれかがいるのに気づいた。
「たれぞ」
誰何すると、部屋に忍び込んだその影は、ゆらりと揺らめいて、文偉のところにやってきた。
おどろいたことに、紫芝であった。
纏うものは、うすい衣一枚で、下手をすれば、はっきりと体の線があらわになる。
なまめかしい姿が唐突に迫ってきたのにどぎまぎしつつ、文偉は、間抜けな問いをした。
「そなた、ここでなにをしているのだ?」
だが、紫芝は答えず、意味ありげな艶やかな笑みを浮かべつつ、髪飾りを、ひとつ、またひとつとはずしてく。
そのたびに、豊かな黒髪が、ほつれて肩に流れ落ちていく。
これは、もしかして。
いや、もしかしなくても。
文偉とて、もう二十になる青年であるから、女を知らないわけではない。
しかし、これほど積極的に女から誘われる経験は、はじめてであった。
しかも、相手はめったにお目にかかることのできない絶佳ときている。
あまりの嬉しい状況に、すっかりどぎまぎしていると、不意に、紫芝の顔が、大きく見開かれた。
「どうした?」
暗がりで、ムカデでも踏んでしまったような顔をしている。
文偉の問いに答えることもなく、紫芝は、そのまま、白目を剥いて、ぱたりとその場に倒れてしまった。
おどろいた文偉が駆け寄ると、するどい制止の声がかかった。
「だめ、近づいてはなりません!」
さらに仰天したことに、戸口の帳をかきわけて、芝蘭がそこにいた。
手には、先端に針の仕込まれた、ちいさな桐のような武器を持っている。
そうして、いまは、目を隠さず、鼻と口を布で隠しているのであった。
「このひとは、全身が毒なのですわ。馬光年が育てた、体中に毒の沁み込んだ暗殺者なのです」
「なんと?」
「美貌で男を釣って、閨に入ったところで、毒を移して殺してしまうのです。吐息も涙も、唇も、すべてが毒なのです」
唐突な話に、状況がつかめずうろたえた文偉に、芝蘭は前に進み出ると、いきなり、杯を差し出した。
「さあ、お飲みなさい」
「これも毒か?」
「いいから、早くお飲みなさい! 馬光年がやってきます。その前に早く!」
「待て。そなたは、馬光年の娘ではないのか。紫芝は、姉ではないのか。どうなっている?」
芝蘭は、躊躇していたが、やがて、決意したらしく、きっ、と眼差しを強くして、まっすぐ文偉を見た。
その瞳は純粋で、夜闇に星のように輝いていた。
「わたくしが、きっと貴方をお守り申し上げますわ。ですから、どうぞこれを飲んでくださいまし!」
文偉は、ごくりと生唾を飲んだ。
芝蘭が、おのれを殺そうとしているとはおもえない。
だが、この状況は一体、どうかんがえればいいのだ?
「さあ、お早く!」
ままよ。
文偉は覚悟を決めて、芝蘭の勧める杯を飲んだ。
とたん、頭をぶん殴られたようなはげしい衝撃と、息苦しさをおぼえ、文偉は悶絶した。
涙があふれ、呼吸ができなくなる。
にじんだ視界に、芝蘭と、馬光年の姿が見えた。





『やっぱり一人ぐらいは残しておくべきだった…』
『仕方ないだろう。急だったのだから。それより、早いところ始末をしてしまえ』
『兵卒が捜しにきたりしないだろうか』
『大丈夫、奴らは動かない、さあ、早くするのだ』

ざっ、ざっ、と軍隊が土を蹴って進む音が聞こえる。
俺はどこへ行くのだ。捕虜になったのか?
俺みたいな貧乏書生なんぞ、人質になる価値もないというのに。
そんなことをぼんやりとかんがえながら、文偉は、体中がひどく冷たく、そして重たくなっていくのを感じていた。

「若様…若様…」
揺り起こされて、ようやく文偉は目を覚ました。
ひどく頭痛がする。
吐き気もひどい。
俺はどうしたのだ、と口を開こうとして、唇に溜まっていた土が口の中に入ってきた。
おもわずむせる。
「しぃっ! お静かに。奴らがもどってきてしまいますわ」
奴らとは? 
痛む頭をおさえつつ、文偉はなんとか目を開いた。
雨はいつしか止み、群雲のうえに、青白い月が昇っている。
そうして、間近にあったのは、芝蘭の心配そうな顔であった。
「よかった。薬が利きすぎてしまったのかと。時間がありません。奴らが気づく前に、早くここからお逃げください」
芝蘭のすぐそばで、獣の荒い息遣いがしている。
それも一匹や二匹ではない。

ようやく意識がはっきりしてきた文偉は、起き上がり、そして周囲を見て、絶句した。
まず、自分は掘り返された穴の中にいた。
全身、泥だらけである。
自分は、いまのいままで、土の中に埋められていたのだ。
全身を、なんとも形容しがたい、悪寒がつらぬいた。
死者のように葬られていたのだ。
傍らには芝蘭がいて、その背後には、狼のような獰猛そうな犬の群が控えている。
そして、自分の横たわっていた穴には、費観がつけてくれた従者たちの、物言わぬ骸があった。

「これは、おまえがやったのか?」
文偉の問いに、芝蘭は悲しそうに目を伏せた。
それを攻撃と取ったのか、背後に控える犬たちが、文偉に威嚇の唸り声をあげる。
「くわしくお話をしている時間がございません。若様は、いますぐ成都へおもどりくださいませ。そして、二度とここへもどってきてはなりませぬ」
「なぜ?」
「殺されてしまうからですわ。ここは群狼の村なのです。あちらの道を行けば、村の人間に気づかれることなく、広漢へもどることができます。ですが、費将軍のもとへ立ち寄られてはなりませぬ。だれにもお会いせず、まっすぐ成都におもどりを」
「従兄に会うなというのか? しかし、かれらは従兄の部下であったのだ」
「だからこそでございます。どうぞ、この芝蘭を、もう一度信じてくださいまし」
文偉が、しかし、とためらっていると、芝蘭は、意志の強そうな唇を、きゅっと引締めて、背後にいる犬たちに、鋭く命令した。
「さあ、おまえたち、この者たちの骸を引きちぎって、だれのものかわからぬようにして!」
犬たちは、芝蘭の声に忠実に、そして獰猛に、従者たちの体に襲い掛かっていく。
そのあまりの凄惨な光景に、文偉は絶句するしかない。
「な、なぜこのようなことを?」
「こうすれば、骸がだれのものか、確かめられなくなるからですわ。これで少しは時間が稼げるはず。若様、どうぞお早く、お行きくださいませ」
腰が抜けていた文偉は、なんとか立ち上がり、芝蘭の言う道へ、夢遊病者のようにふらふらと歩きだした。
が、芝蘭のことが気にかかり、足を止めて、振りかえる。
「俺を庇った、そなたはどうなる?」
「どうにもなりませんわ。ただし、貴方様がいつまでもそうしてらっしゃると、わたくしも心が変わって、犬をけしかけるかもしれませんわね」
そうして、芝蘭は、厳しい顔を文偉に向けて、叫ぶように言った。

「行って!」

その声に弾かれるようにして、文偉は芝蘭の示した道を走り出した。

費観のもとへ行こうと何度もかんがえた。
しかし、二度も命を救ってくれた、芝蘭の言葉が重くひびいた。
結局、言うとおり、広漢では、誰にも姿を見られぬよう気をつけながら、ひたすら、成都を目指した。
ようやく、目に馴染みのある成都のそばにまでやってきたとき、文偉は背後より、まさに芝蘭が形容したように、群狼のような連中が追いかけてきたことに気がついた。
なぜだ。
道中、何度とその問いを繰り返したか知れない。
しかし、答えはない。
ともかく、かれらが自分を狙っている、ということだけは、ハッキリしている。
文偉は、成都に入る直前に、農夫からロバを盗んで、これに飛び乗り、そして一路、軍師将軍の屋敷を目指した。
あとからかんがえれば、屯所へ向かえば話が早かったのかもしれないが、ともかくまっ先におもいついたのが、孔明のところだったのである。
ところが、連中はおそろしく足が速く、成都に入る直前、衣を引っつかまれて、捕まりそうになった。
しかし、天の助けというべきであろう。
ちょうど前方より、夕闇の残滓に、きらきらと輝く得物をかかげた者たちが、成都の大門の正面から出てくるのが見えた。
それを見て、追っ手は、耳にはっきりわかるほどそばで舌打ちをして、手にした文偉の衣を乱暴に引きちぎると、一端、消えて行った。

兵卒ならば、助けを請おうとおもった文偉であるが、前方よりやってきた者たちの正体を見て、おもわず笑ってしまった。
それは、農具をかかえた、郊外の農夫たちだったのである。
逢魔がときで視界があやふやだったこともあり、追っ手は武器を手にした兵卒と勘違いして退散したのだ。
しかし、油断はならない。
すぐにでも、連中は追いかけてくるだろう。
一刻も早く軍師将軍のもとへ…そうして文偉は、なんとか帰還を果たしたのであった。





「屯所に行けばよかったものを」
偉度のぶっきらぼうなことばに、文偉は、おもわず反駁する。
「仕方なかろう。屯所の当番は、たしか今月は魏将軍であったはず。わたしの話をまともに聞いてくださるかどうか、不安があったのだ」
「なるほど、文偉らしいな。追われて混乱しているなかでも、ちゃんと先のことをかんがえていたのか。しかし奇妙なものよ。村人は、なぜにおまえを狙ったのだろう。軍師、狙いはもしや、費観どのであったのかもしれませぬな」
偉度の問いかけに、孔明は、うむ、と生返事をして、傍らの蒋公琰にたずねる。
「そなたはどう見る」
「村人の正体はわかりませぬが、しかし、かれらが何かを隠そうとしていたのは事実でございましょう。しかも広漢から、成都まで追ってきたとなれば、相当なものでございます」
「文偉よ、よくおもいだせ。村長という馬光年に宴に招かれた際、どのような話をした?」
「四方山話でございます。成都の最近の様子とか…ああ、戸籍をあらたに作る、という話をいたしました。あと、橋梁の工事の話を少々」
それを聞くと、孔明は、ふむ、と呟いて、腕を組み、なにやらかんがえ込んでいる。
「芝蘭という娘だが、どんな娘であった? 隻眼という以外に、なにか特長はなかったか?」
「江東の訛りがございました」
「江東の…そうか。ほかの村人たちは?」
「それが、馬光年以外は、ほとんど口を利きませんでした。従者たちと言葉を交わした者もあったようですが、従者たちが殺されてしまったので、わかりませぬ」
「費家の者は、いままで終風村に足を踏み入れたことはなかったのだな?」
「ございません。村人がこちらに来るばかりでございました」
そうか…と、孔明は呟くと、なにやら沈思している様子だ。
その様子を、息を詰めて見守っていると、孔明は、突如として立ち上がった。
期待をこめて、休昭が孔明に尋ねる。
「軍師、なにか妙案でも?」
孔明は、ぱっと文偉を見ると、言った。
「文偉、襲われるのだ」
「は?」
唖然とする文偉の代わりに、公琰が答える。
「囮、ということでございますか」
孔明は、わが意を得たり、というふうに、深くうなづく。
「そのとおり。ほんとうならば、広漢にまで足を運べばいちばん早いのであろうが、そんな暇はない。しかし向こうがわざわざ来てくれているのだ。だったら、丁重に出迎えて差し上げればよかろう。茶菓でもってもてなす、というわけにはいかぬがな」
そして、孔明はちらりと、自分の机の上に積まれた竹簡を見て、軽くため息をつく。
「わたしはいますぐには動けぬ。わたしの代わりとして、公琰を派遣する。偉度、公琰を補佐せよ。休昭も文偉を助けてやれ。わたしも仕事を片付けたらすぐに行く」
「お待ちを。どこへ?」
孔明は、なぜそんなことを、と言わんばかりの呆れ顔で、文偉に言った。
「決まっておろう。そなたの屋敷ぞ。ああ、伯仁殿には内密な。あの御仁に知らせたら、きっと寝込んでしまわれるから」

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初出・2005/05/01)

風の終わる場所 3

2020年11月11日 10時09分49秒 | 風の終わる場所
文偉の伯父・費伯仁は、もともと風流な人ではないのだが、しかし、浮世離れした人ではある。
ようやく世情が落ち着いてきたというので、仕事から帰ってきたあとは、庭のちいさなあずまや(文偉は『あばらや』と呼んでいたが)に古い琴を持っていき、そこでなんとも珍妙な音を奏でるのを日課としはじめた。
最近招かれた諸葛家の宴席で、孔明が格好よく琴を弾いていたのに影響されて、琴をはじめたのである。
しかし、その腕は如何ともしがたく、文偉は、最近、家に小鳥が寄り付かなくなったことを憂いていた。

それはともかく、琴を弾き鳴らしていた伯父が、ふとその手を止めて、甥っ子に言った。
「そういえば、今年はアレがまだではなかったかな」
「アレ、と申されますと?」
「ほら、猪の干し肉だよ。いつもなら、この季節に終風村より届くだろう。今年はどうしたのだろうな」

終風村は山深くにあるちいさな村であった。
水に恵まれており、良質の作物が取れるため、領地を没収される前までは、費家の経済をうるおしてくれた。
現在、没収されてまったく無縁になってしまったが、律儀な村人は、かつての領主である費家に、山の神への捧げものとして奉じたいのししの肉の干したものを、毎年届けてくれるのである。

「われわれのことは、もう忘れられてしまったのかねぇ」
ひどく寂しいことを伯仁はぽつりとつぶやいた。
が、すぐにおもい出したことがあったらしく、甥たる文偉に言う。
「そうだ、文偉、最近、退屈していると言っていなかったか。おまえ、ちょっと足を伸ばして、終風村に行って、様子を見ておいで。
そして言えるようならば、猪肉のことはもうよいからと伝えてきておくれ」





伯父のひと言で、翌日より文偉は成都を発って、終風村に行くことになった。
ついでに、広漢のほうに派遣されている従兄に陣中見舞いをすることにもなった。
従兄というのは、李巌の副将としてついている費観のことで、真面目な費一族の例にもれず、熱心な働きをみせて、若いのに、あっという間に将軍職を拝領することになった人物である。
世間的にはゆうゆうと成功しているように見えるだろう。
実際は、費観は必死なのである。
費観は、李巌にしたがって、いち早く劉璋をうらぎったひとりだ。
しかし、劉璋の娘を妻にもつために、劉璋に関わりが深すぎるというので、つねにまっさきに疑われる存在であった。
疑惑を払拭するため、妻子をまもるため、必死になって働いて、そうしていまの地位を築いたのである。





何日かの行程のあと、広漢の費観をたずねると、一回り年上の従兄は、文偉がわが目をうたがうほどに老け込んでいた。
費観の上司は李巌である。
かつては荊州の劉表のもとで勇名を馳せていたが、曹操の南下や劉備の荊南支配をよしとせず、劉璋のもとに走った男だ。
そして、劉備が益州支配に乗り出すやいなや、旗色悪しとみて、すばやく劉璋から劉備に鞍替えした。
ある意味、危機回避能力の高さはすさまじいとさえいえる。
が、李巌は最前線に立っているようで、じつは目の前に困難がたちはだかると、我先にといちばんに逃げ出す性質をもっている。
その上司のもとで、生真面目な費観はだいぶ振り回されているようであった。
自分たちのびんぼう暮らしなど、この従兄の背負っているものにくらべれば、まったくたいしたことはないと、文偉は深く同情した。

文偉は従兄の歓迎を受けた。
劉璋の一族は、追放という形で荊州へ追われたが、その処置はいたって穏便なもので、財貨のほとんどをともに持ち出すことをゆるされた。
なので、費一族もそれにつづけば問題はなかった。
しかし、身内であるがゆえに、劉璋への失望感というものは、ほかのだれよりも強かった。
それに、益州という土地と、そこに住む人々に義理を感じているがために、劉璋のあとを追わなかったのだ。

文偉が感動したのは、劉璋の娘たる費観の妻が、実家のあとを追わなかったことである。
かつての奥様ぶりはどこへやら。
すっかり武将のよき妻となっており、質素な暮らしに身をやつしながら、けんめいに夫に従う姿を見せた。
豪族のようにご馳走はだせないが、といいながらも、振る舞ってくれた手料理には、実に心がこもっていた。
舌鼓をうつ文偉に、費観もその妻も、なつかしい成都の様子を聞きたがって、その話は夜更けまでつづいた。
文偉はふと、広漢に馴染んでいる従兄なら、終風村でなにか変わったことがあったか、知っているかもしれないとかんがえた。
尋ねてみると、とたんに従兄は顔を曇らせた。

「力になれなくてすまぬ。わからぬのだ」
「どういうことでございますか。李将軍の副将たる従兄殿がわからぬとは」
「うむ、終風村の一帯は、このところ李将軍がじきじきに見ておられる。成都にも、広漢のあたりで賊が増えていることは伝わっておろう。李将軍には、ひみつの策があるらしく、賊を放置されているようなのだ。そのため、我らは手が出せぬ」
「これは妙なことをおっしゃる。賊を放置して、どんな利があるというのでしょう」
ここだけの話にしてくれよ、と従弟をたしなめつつ、費観は言った。
「李将軍は、焦っておられるのだ。荊州では、このひとの右に出る者なし、とまで謳われたお方が、いまはどうもぱっとせぬであろう。李将軍からすれば、これほどに揚武将軍や軍師将軍のご威光がすさまじいものとは想像していなかったようなのだ。それゆえ、かれらに負けないほどの大きな手柄を立てようとおもっておられる。そこで、広漢の一帯の賊を一網打尽にして、より名声を高めようとかんがえておいでのようだ」
「なんと、それでは賊は野放し、というわけでございますか」
「もちろん、わたしの目の届くところでは、賊の好きなようにはさせぬ。李将軍がなんとおっしゃろうと、民があってこそのわれらではないか。しかし文偉よ、おまえが終風村に行くというのであれば、わが部下を何名か連れて行くといい。おまえになにかあれば、族父に申し訳ない」
そうして、費観は文偉のために部下を二人つけてくれた。





道中、なかほどまでは晴天であったのが、やがて雲行きがあやしくなってきた。
そこで、峠に入る手前のちいさな祠で雨をやり過ごすことにした。
ところが、そこに、先客がいた。
祠に祭られているのは、旅人を守るとされる行神であった。
しかし、峠の道自体、通る者がすくないのか、祠は打ち捨てられたままになっているようである。
雨雲が迫り、夜のように暗くなった道の向こうを見ると、蛇のようにうねった道は、木々によってところどころ遮られていた。
祠の先客は、頭から衣をかぶって身を隠している女人で、身なりはそう悪くないものの、伴がいない。
格式の高い家の娘ではなさそうだ。
ここまでの旅程で、文偉は盗賊の気配を感じさせるものに行き当たらなかった。
それでも、ここから先は、夕闇も迫ってくるし、人の気配もすくない。
もし方角が一緒なのであれば、途中まで送って行ってやろうとおもい立ち、文偉は声をかけた。

「失礼ですが、この先、どちらへ参られるのです」
「家にもどる途中でございます、旅のおかた」
若い、涼やかな声の持ち主であった。
顔を隠してはいるものの、布の隙間から、形のよい鼻梁とふっくらとした赤い唇がのぞいている。
俄然、興味をそそられて、文偉は、さらにたずねた。
「わたくしどもは、これより終風村に参るところでございます。貴女様のお屋敷はどちらに?」
「屋敷などという、立派なものではございませぬが、終風村でございます」
と、はじめて女はこちらを向いた。

そのとき、ぴかりと空が光り、稲妻が大地を照らした。
そして、文偉は、女の顔をはっきりと見た。
うつくしくも、無残な顔であった。
くちなしの花のように白い顔に、あざややかな赤い唇をもつ娘だ。
しかし、娘の右目はつぶれてひどい傷となっていた。

文偉の表情で、娘は察したらしく、悲しそうな顔をして、布で顔を隠す。
「見苦しいものをお見せいたしました。そういうわけですから、わたくしを襲おうなどという者はおりませんの。どうか放っておいてください、旅のおかた」
「どういうわけ、というのです。貴女はとてもお美しい。わたしが盗賊ならば、攫って妻にすることでしょう」
「お戯れを。見たところ、土地の方ではありませんわね。終風村に、どんな御用事なのですか?」

かくかくしかじか、と文偉は娘に用事を話した。
村人ならば、猪肉が献上されなくなった理由を知っているかもしれない。
正面切って問うのは決まりが悪いが、この娘からこっそり聞けるのであれば、と文偉はおもった。
文偉からすれば、たいした話ではないのであるが、話を聞いた娘のほうは、あきらかにうろたえているのがわかった。
「あいにくと、わたくし、事情を存じませんの。村人に聞いても、きっとだれも知りませんわ。村へ行っても、きっと無駄足だとおもいます。お帰りになられたほうがよろしいのじゃありませんこと? だって、天気だってこんなふうですもの」
「そういうわけにはまいりませぬ。伯父の言いつけなのですから」
雨足がだんだん弱くなってきた。
すると、雨の帳の向こうから、傘を被った男が、のしのしと荒々しい足取りで近づいてくるのが見えた。
女は、あわててふたたび顔を隠す。
「どうなされた、旅のおかた」
「雨のために往生しておりました。あなたさまは?」
「この先の、終風村の長をしております、馬光年と申します。娘の芝蘭を迎えに参ったのですが、あなた方はどちらへ?」
「おお、貴方が終風村の。お名前だけは存じておりましたが、直にお会いするのは初めてでございますな。わたくしは費文偉。伯仁の甥にございます」
費家の名前を出せば、なにかしらの反応が出るであろうと期待した文偉であったが、村長の馬光年は、さようでしたか、とかんばしくない返事をかえしてきた。
奇異におもいつつ芝蘭を見ると、これも落ち着かない様子である。
おかしいなとはおもったものの、馬光年の印象はたいへん落ち着いており、信頼できるものであった。
村長は、それでは、雨の弱くなっているうちに、村へいらっしゃいといって、娘と文偉、それから従者たちを連れて、村へと向かった。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初出 2005/05/01)

風の終わる場所 2

2020年11月07日 20時51分35秒 | 風の終わる場所


「これは、複数のものが追いかけてきて、着物の裾を引きちぎったとしかおもえないな」
と、董和は怒りを込めてつぶやいた。
面倒見のよい董和にしてみれば、一人息子の休昭の親友である文偉もまた、息子同然の者なのだ。
「伯仁殿のお屋敷には、人を遣りました。平和に寝静まっていたようですよ」
孔明は、寝入った文偉から、紙燭を遠ざけてやる。
「文偉はどこで襲われたのだろう?」
「村に出かけていたと申しておりましたな。おそらく、その帰りに襲われて、その足で、我が屋敷にやってきたのでしょう。どうだ、偉度、表に曲者はいたか?」
その声に、董和はぎょっと身を引いた。
董和がぎょっとしたのも無理はない。
孔明と自分と、眠り込んだ文偉しかいないとおもい込んでいた部屋に、いつの間にか孔明の主簿・胡偉度がいたのだから。
偉度は、音もなく戸口を開けて、董和が気づかないうちに、部屋に入り込んでいたらしい。
秀麗な顔に、相も変らぬ不敵な笑みを浮かべ、孔明の問いに答える。
「呉と魏の細作以外は、だれも」
「呉と魏の細作? なんと、そんなものがウロウロしているのか」
董和が驚くと、孔明は肩をすくませた。
「いつものことです。むしろ、連中がいなくなったら、そのときは異常事態ということですよ」
「連中は、どうせ中には入ってこられやしませんのでご安心を。それに、こちらとて、それぞれ曹公と孫権のところに、似たように人を配しておりますゆえ、お互いさまでございます。やあ、費家のおぼっちゃまはご就寝か。毒を飲まされたって?」
「これ、笑い事ではない。呉と魏の細作がいつものとおりだとすると、かれらが文偉に何かを仕掛けた、というわけではないか」
「文偉のような下官に、連中がなにをする、というのだ」
董和が反駁すると、孔明はわかっていないな、というような目線を送ってよこした。
「お忘れか。文偉は劉璋の一族に連なる者。劉璋はいまだ存命で、政治的に利用しようとかんがえる者が跡を絶たない状態なのですぞ。
本人の意おもに関係なく、文偉を使って、敵が、何がしかの工作をしかけてきてもおかしくはございませぬ」
「む…そうであったな。伯仁殿と文偉がいつも慎ましくしているので、その事実をついつい忘れがちになるが」

費家は、劉備が益州を治めることになる直前まで、劉璋の姻戚として、かなり裕福な暮らしをしていた一族なのだ。
それが一転、劉備に従うことになった費家は、一族の大半は成都から追放される憂き目にあった。
そのうえ領地のほとんどを没収されてしまって、びんぼう暮らしを余儀なくされている。

董和は、費伯仁は野心のない堅実な男であるし、文偉自身も有望で素直な青年で、しかも孔明がいたく気に入っているようであるから、以前に没収した土地の、半分でも還してやったらどうかと孔明に打診したことがあった。
だが、孔明には素っ気なく、
「わが主公の治世下にあって、費家になんら功労のない以上、特別扱いはできませぬ」
と突っぱねられた。
たしかに道理はそのとおりだ。
地位や報酬の点で、費家は特別扱いをされていないが、そのかわり、孔明は文偉を非常にかわいがっている。
文偉や伯仁も、それで特に不満はない様子だ。

「村、と文偉はいいましたね。もしかして、広漢の村のことではありませぬか」
と、偉度が言った。
この、いまもって前身の不明な青年は、文偉の身にまとっていた衣を見て、つぶやく。
文偉より、いくつか年上の、いささか老成している感のある、容姿は水仙の花のような青年は、やはり文偉を気に入って、友のようにおもっているようだ。
「なにか知っているのか」
「ええ。広漢のほうは、最近は盗賊がひどく周囲を荒らしまわっております。たしか終風村というのが、むかし費家が所有していた村のはずでございます」
「賊だと? 広漢一帯の治安を担当しているのは、だれだ?」
董和の険しい顔に、偉度は、孔明そっくりの仕草で肩をすくめてみせる。
「李厳(字を正方)殿ですよ。あのひとは、相変わらず、仕事が遅い。周りの迷惑もかえりみず、派手な一発を狙っておられる様子」
「口が過ぎるぞ、偉度。おまえは表へ行き、曲者がいないか、皆を統率して、もう一度よく調べるように」
偉度は、孔明に言われて、さすがに口を尖らせたが、それでもすなおに表に出て行った。
孔明は、やれやれ、というふうに肩をまわし、董和のほうに向き直る。
「さて、幼宰殿、すっかり目が覚めてしまったから、さきほどの話の続きとまいりましょうか。此度の工事の経費についてなのでございますが…」





文偉が二度目に目が覚めると、董和が呼んだらしい、かれの息子で文偉の親友である休昭がいた。
そのおなじみの人の良さそうな顔を見て、文偉はようやく生きた心地がした。
「毒を飲まされたのだって? 朝餉はどうする? 軍師は、粥を用意してくださったようだが」
「すこし食べる。なにせ、村から逃げたあとは、なにも食べていないのだ」
「村か。たしかおまえ、終風村に行くと言っていなかったか。そこか?」
「ああ。まったくひどい目にあった。命があるだけでも奇跡のようだ…」
そこまで言って、文偉は、不意に涙をこぼした。
いつもは明朗で、どこか抜けているのではとさえおもえるほどの文偉の気弱な様子に、休昭はうろたえる。
「どうしたの? どこか痛むの?」
「痛むのではない…休昭。俺についてきてくれた従者は、みんな死んでしまった。やつらがやったのだ」
「やつらとは、村人?」
身を乗り出し、自分の腕に掻きこむようにして、涙をながす文偉をなだめる休昭に、文偉は子供のようにうなずいた。
「なにがあったのかは知らぬが、自分を責めるな。おまえの着ていた衣を、わたしも見た。あんな狼藉を働く者たち相手に、毒を飲まされながらも、よく逃げ切って、もどってこられたものだ。自分の勇気を誉めてやれ」
文偉は、涙しながらも、おもわず笑みをこぼした。
この友は、だんだんと自分の父親に物言いが似てきているが、それに自分で気づいているのだろうか。
「大丈夫だ、落ち着いてきた」
「文偉、軍師将軍は、おまえの目が覚めたら、すぐに左将軍府に来るようにと言っていた。表には、父上が用意してくださった兵卒がいるから、安心しろ。立てるか?」
「すまないな、不様なところを見せた。俺も混乱しているのだな。しっかりしなくては」





文偉は、休昭に助けられるようにして、起き上がると、表に待機していた兵卒たちに囲まれるようにして馬車に乗り、そして左将軍府へと向かった。
さすが慎重で賢明な董和が用意しただけあり、一部隊がそっくりそのままやってきていた。
これでは、どんな刺客も自分を狙うことはできまいと、心強く文偉はおもった。

左将軍府に到着すると、孔明の主簿である偉度が待ち受けていた。
柱にもたれた格好で、いつものように、戸惑うくらいに意味ありげな笑みを浮かべている。
「やあ、坊ちゃんがた、お待ちしておりましたよ」
「偉度殿、軍師将軍は?」
「あちらでお待ちかねですよ。あんたたちの友だちの蒋公琰も一緒だけれど」
おもわず、文偉と休昭は、顔を見合わせる。
「公琰殿は、いつもどってきたのだろう?」
「やはりあのひとが、軍師将軍の直命で各地を放浪している、という噂は、ほんとうらしいな」
「腕に覚えのある人は羨ましいよ」

休昭に助けられながら廊下を歩きつつ、文偉は苦笑する。
そうだ、もし自分の腕っ節が強ければ、こんなことにはならなかったのに。

そうして、孔明と公琰?いるところへ行かなければならない、ということも、文偉の心を重くした。
孔明は上役であるから別格として、文偉は、公琰がいささか苦手であった。
もちろん、表面上は親しくしているのだが。

理由は、ほぼ同年の公琰の能力の高さであった。

文偉は、目に見える形で、自分以上の能力を備えている公琰が苦手であった。
公琰はどっしり構えた風格をそなえ、冷静沈着。
中華の大半の言語を難なく使いこなすことができ、加えて、博識。
剣の腕も、いっぱしの武人はだしである。
一見すると朴訥で、冴えているように見えないのであるが、付き合ってみると、公琰がどれほど優れているか、そしてどんなに『イイヤツ』かがすぐにわかってくる。
その人柄に魅了される者は多い。
周囲は、孔明が目をかけている若者のなかでは、費文偉、つまり自分が一番目をかけられている、とおもっているようだが、そうではないことを、文偉は感づいている。
一番ではないからなんだ、という話でもあるが、周囲がおもっている以上に孔明に心服している文偉としては、孔明の信頼を自分より勝ち得ている公琰を妬ましくおもう。
事情があり、公琰は公務につくことなく、成都を離れていることが多いのが幸いだ。
もし、公琰が自分と同等の線に並んでいたら、文偉は嫉妬のあまり、道を踏み外しているかもしれない。
明朗な性格こそ、一番の特徴であることは、おおいに自負するところであるが、その自分に、こんな暗い部分があるということを、いちいち気づかせてくれる公琰が、文偉は苦手なのだ。
イイヤツだとおもっているだけに、余計に辛い。
おもわずうめくと、肩を貸している休昭が、不安そうに顔をのぞきこんでくる。
「どうしたの、どこか痛いのか?」
さすがに、心が、などときざなことは言えず、文偉は、大丈夫だよ、と答えるしかなかった。





孔明の執務室に入ると、中央に孔明、その脇の、文偉から見て左側の席に、公琰は座っていた。
旅装のままで、侠客のような、髪を粋に結った、なんとも洒脱な格好をしている。
髪をむすんでいるのも、玉が先端についた派手な紐だ。
傍らには愛用の剣が置かれており、鋭くもどこか優しげな瞳が、文偉とぶつかった。
孔明と公琰は、文偉がやってくると、ほぼ同時に腰を浮かせ、文偉を助けようとした。
なんとありがたい方々か、と感動しつつ、文偉は休昭の手を借りながら、何とか自力で孔明の前に進みでた。
「楽にするがよい。無理をしてはならぬぞ。本来ならば、わたしがおまえの元に行かねばならぬが、このとおり身動きが取れないのでな」
と、孔明はかたわらに積まれた竹簡を軽く叩いてみせた。
「お気遣い、かたじけなく存じます。怪我はほとんどございませぬ。ただ、毒が抜けきっていないだけのこと」
「毒、か。熱もさほどない様子。しびれ薬の類いであったのかな」
公琰が、孔明と文偉を交互に見比べつつ、言った。
「文偉をなんとしても成都に返したくなかったのであろう。
しかし、殺すつもりはなかった、ということか」
「いいえ、連中は、わたくしを殺めるつもりでございました」
文偉の言葉に、今度は孔明と公琰が顔を見合わせる。
「本来ならば、命を奪う毒を飲まされるはずであったのです。それを、摩り替えてくれた者がおりまして、わたしはその者に命を救われたのでございます」

そうして、文偉はこれまでのことを話し始めた。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初出・2005/04/30)

風の終わる場所 1

2020年11月07日 10時40分18秒 | 風の終わる場所
「どなたか! どなたか開けてくだされ!」

巨大な満月が出ている夜であった。
成都の夜空に、これほどあざやかな月が出ていることはめずらしい。
月は、青白い姿を、威圧するかのようにぶきみに天空にかがやかせ、地上の人々を見下ろしていた。
まるで巨人のまなこのように。

息が荒い。
それはそうだろう、息ができているのがふしぎなくらいだ。
自分は生きているのか? 
まだ毒はまわっていないのか? 
この扉を叩いているのは、だれの手だ? 
ほんとうに俺の手か? 
俺はもう亡霊となって、いまだ村から逃げようとしているだれかの姿を、うしろからじっとながめているだけではないのか?

裏木戸が、不意にぱっと開いた。
そこに立っていたのは…
「文偉! このような夜更けにどうしたのだ」
「軍師将軍こそ…」
しわがれた声は、まちがいなく自分のものだ。
生きているのだ。
まさか屋敷の主人、みずからが、裏木戸を開けてくれるとはおもわなかった。
屋敷の主人、諸葛孔明は、髪を下ろし、後ろでゆるくひとつに束ね、寝巻きのうえに、上衣を羽織った出で立ちである。
手紙をしたためていたのか、紙燭をかかげるその指先が、わずかに墨で汚れている。
文偉は、その超然とした、月にも負けぬ圧倒的な存在感を見せる、美貌の上役の顔を見て、心から安堵した。
安堵して、そのまま中に向かって、ばたりと倒れた。





心地よい香木の匂いに揺り起こされるようにして、目を覚ました。
「軍師、目を覚ましたようだ。文偉、わかるか?」
声をかけてきたのは、ほかならぬ、親友の父・董和であった。
四十も半ばにさしかかる年頃の董和は、同年代である文偉の伯父の費伯仁と比べると、ずいぶん若々しい。
文偉は、口に出したことはなかったが、董和の厳しそうな面差しと、それでいてやさしい目や、威厳のある響きの良い低音の声などが好きであった。
幼いころに亡くなった父をおもわせるからだ。
伯父にいわせれば、亡父は、ずいぶんなお調子者だった、ということだから、堅実な董和とは、まるでちがったかもしれないが、それでも、文偉からすれば、董和は理想の父親なのである。

いや、しかし、どうして自分は董家にいるのだろう?
たしか、軍師将軍のお屋敷を目指していたはずで、たしかに裏木戸から出てきたのも、軍師将軍ではなかったか…
「休昭は?」
おもわず董和に問いかけると、董和は声をたてて笑った。
「なんだ、勘違いをしておるようだな。ここはわたしの家ではない。軍師将軍のお住まいだ。夜更けに自ら押しかけてきておいて、忘れているとはひどいヤツだな」
申し訳ありませぬ、といおうとしたが、咽喉が渇いて、うまく声がでない。
それを察したか、董和は、文偉の頭を抱え上げると、水差しで水を飲ませてくれた。
異常なまでに通りがよくなっている鼻腔に、部屋に焚かれた香木の、清清しい香りが染みとおる。
おもわず目を閉じると、董和は言った。
「ずいぶんひどい目に遭ったようだな。軍師も、おまえの有り様に、驚いておられたぞ。たしか伯仁どのの御用で、郊外に出かけていたのではなかったのか」
「左様でございます。幼宰さま、なぜここに?」
「軍師と仕事について話し合っておったら、いつの間にか夜更けになっていたのだよ」
「ご両人ともあいかわらず」
熱心でございますな、と文偉は続けようとしたが、力が入らなかった。
毒のせいだろうか。
「毒を飲まされました」
「なに?」
「村人に、甘露だと言われて…迂闊でございました」
「村とは?」
「劉璋がまだこの地にいたころに、姑が所有していた、費家の領地内にあった村でございます」
まぶたが重たくなってきた。
異常に眠い。
董和の声が、だんだん遠くなる。
「その村は、狼藉ものばかりが暮らしているようだな」
そういいながら、屋敷の主、孔明が、さきほどまで文偉のまとっていた衣服を拡げつつ、部屋に入ってきた。
孔明の身なりも、さきほどまでの就寝前をおもわせるくつろいだものから、公琰務のときに見せるような、きっちりしたものに変わっている。
髪はきれいに結い上げられ、衣はいつもの絹の凝った刺繍入りの衣裳。
自分のような目下の者にさえ、礼を失しないようにしようという、このひとの身づくろいに対する執念はたいしたものだ。

その孔明の両手には、ずたずたに引き裂かれたおのれの衣があった。
いまさらながら、客観的に自分の上衣を見て、文偉はぞっとする。
こうして無事に横になっていられるのがふしぎでならない。
孔明の姿を視界におさめつつ、文偉は、おのれの睡魔と懸命に戦った。
眠ってはならない。
軍師将軍に、礼を欠く真似をしてはならない。
孔明は、文偉の傍らにやってくると、小首をかしげるようにして、横たわる文偉の頬に触れた。
覗き込んでくる顔は、月光のように冴え冴えとしている。
ふしぎな人だ、と文偉はおもう。
容貌はあくまで柔和で優しげなのに、女々しさはなく、宦官のような不自然さもない。
かといって、男性的な特長は外貌にはほとんどあらわれていない。
男でも女でもない、なにか中間の、われわれとは違うところに区別されるべき人のように見える。
それでいて、この人のそばにいると、なぜにこんなに落ち着くのだろう。
父母のそばで無邪気にしていた子供の頃をおもい出す。
あの安心感を、このひとはおもい出させてくれる。

「眠ってよいぞ。くわしい話は、明日聞こう」
自分の頬をなでるつめたい指先の感触が心地よい。
そのうえに、孔明の澄んだ心地よい声が聞こえた。
その声に、文偉はますます安堵し、睡魔がいよいよ強くなる。
ひとたび目を閉じてしまえば、あとは泥のような眠りが待ち受けていた。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初出・2005/04/30)

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