goo blog サービス終了のお知らせ 

はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 34 静かなる湖のほとり・1

2021年06月19日 05時50分08秒 | 風の終わる場所
いつだったか、たわいもない、いつもの会話のおりに、趙雲が口にしたことがあった。
地元の豪族だが、いまは権勢もおとろえて、一族もすくなく、ただ余生を狩猟にあてて暮らしている男がいたのだが、これが寄る年波には勝てず、とうとう、狩猟のために建てた、ちいさな家を手放すことになった。
だが、一族の中に、狩猟を楽しむ男子がいない。
山菜採りの拠点にするにも、山の奥にありすぎるし、なにより漢族より羌族のほうが数のおおい山河のなかにある。
風光明媚なじつにうつくしい土地であるが、蛮族をおそれ、漢族はあまり寄ってこない。
やわな男ではあつかいに困る。
かといって、そのまま朽ちるにまかせるのも惜しい。
そう頼まれて、趙雲が、その家を引き継ぐことになった。

最初は、あまり乗り気ではなかったが、実際に家に行ってみれば、これが快適である。
蛮族の土地だというが、こちらがなにか不埒な真似をしないかぎりは、友好的ですらあるし、それでいて、風景はこのうえなくうつくしく、神々の住まう土地のようである。
近くにおそろしいほど澄んだ水をたたえた湖があり、そこで顔を洗ったり、釣りを楽しんだり、なにもせず、ただじっとしているだけで、一日をつぶせるほどだ。
場所は成都より南西。
ほとんど蛮地と呼んでもさしつかえのない僻地。






あてもない旅だ。
行き着くまでに、どれだけの日数がかかるであろうと孔明はかんがえた。
馬に乗り、ときには舟にも乗って、ひたすら南へ向かう。
途中、いかにも地理にくわしそうな商人をつかまえて、湖の所在を聞けば、それは意外にあっさりと判明した。
湖の近辺には、漢族との交易の盛んな羌族が住んでいる。
これは涼州の羌族とはちがって、山水の豊かな土地に住んでいるせいか、性質がおだやかで友好的であるから、危険はないという。
しかし危険だと聞いた、というと、湖の場所を教えてくれた商人は、そりゃあ、あのあたりは虎が出ますから、とわらった。
孔明は、なるほどと納得する。
趙雲にとって、脅威なのは、動物や自然よりも、なにより人であるのだ。
だから、どんな人間が住んでいるのかを伝えたのだろう。
虎は、その領域を侵さぬかぎり、こちらをむやみやたらに襲ってこない動物だ。
なにせ、地上で一、二を争う強さを持っているのだから、わざわざ喧嘩を売って力をしめさずとも、人が逃げていくことをしっているから、悠然としていてよいわけである。

伴もつれず、たった一人の道行き、というのは、何年かぶりである。
偉度は、言いつけをよく守り、こっそり影をつけてもない様子だ。
宿も相部屋だったり、あるいは道行に、見知らぬ者と同道して、途中までたわいのない世間話をかわしたりと、一人でなければ経験できないことにめぐり合えるのが、新鮮である。
北上するのならばともかく、南下するのでは、刺客の目にもつかない。
もしもこのまま隠棲するならば、毎日が、こんなふうにおだやかなのだな、と孔明はおもう。
おなじことを、趙雲もおもったであろうか…いや、おもわなかっただろうな、きっと、逃げるように、ひたすら道をいそいだにちがいない。

何度か馬を乗り換え、渡し舟で川を渡り、やがて、あまり人里のない土地にやってきた。
人々の顔つきが、民族の境があいまいな、独特のものに変わっていく。
その土地の顔の特長というものはあるが、ここでは、孔明の、都会風を吹かせたうりざね顔は、とても目立つものであった。
これでは、あの男も目立つはずだ。
そう見当つけて問えば、浅黒い肌をした、素朴な顔をした地元の民は、そういえば、最近、立派な馬にまたがった、からだのおおきな人が、湖に住み着いた、と答えた。
ぴしゃりだ。
こちらの記憶力をあなどったなと、心のうちでひそやかに、会心の笑みを浮かべつつ、孔明は湖へと向かった。





さわさわと木々を揺らす風が流れるたびに、広漢の風と、ここの風は性質がちがうな、と孔明はおもった。
住む人が、おだやかな気質になるのもわかる。
緑のあざやかな、ただよう風までやわらかい土地であった。
広漢の終風村は、あれから村人たちも、ふるさとにもどる準備に入っているらしい。
真の平和が村人たちにもたらされるかどうか、すべては、あの驕慢で驕慢で驕慢で、ついでにもうひとつ驕慢な李巌が、手早く山賊をひっとらえることにかかっている。
魏の後ろ盾をなくした山賊だ。
これで時間がかかるようならば、今度こそ容赦せぬぞ、と孔明は、ここにはいない政敵にうなってみた。
馬が、この奇矯な乗り手にどうおもったか、片方の耳を、ぺん、と跳ねてみせた。
李巌のことをおもい出すと、はらわたが煮えるほどのおもいに捕らわれるので、とりあえずは忘れることにして、孔明は先を急いだ。

やがて、人家もまばらとなり、ぽつぽつとある段々畑に人の姿をたまに見かけるほかは、ほとんどだれとも顔を合わせないような山奥にやってきた。
あとは、ばったりと山野の王にあわないようにするばかりである。
湖というからには、水音がしないだろうかと耳を澄ませば、どこからか、悲しげな雉の、ケン、ケンという鳴き声が聞こえてくる。
地元の民に教えられた道を真っ直ぐいって、やがて孔明は絶句した。
道が絶えている。
いや、深さはそれほどでもないが、流れの早い川の真ん中に、岩がいくつか並んでおり、それが道の変わりになっているのだ。
すこし跳躍が必要である。
これは、訓練された騎馬でないかぎり、越えられまい。
事実、孔明が乗ってきた馬は、川のほとりで、ぴたりと足を止めて、それきりになってしまった。
ここから先は、どれくらいあるのだろうかと頭をめぐらせれば、川上の向こうに、山奥にふさわしからぬ、立派なしつらえの家がある。
そして、川は、高台にある湖より流れ落ちているのであった。

目標は決まった。
孔明は、とりあえず、馬をそのままにしておくのも気の毒だから、いちばん最後に見た農夫のもとまでもどり、事情を説明し、馬をあずかってもらうことにした。
その農夫は、遠方よりやってきた孔明をめずらしがって(なにせ言葉がほとんど通じないため、地面に枝で字を書いての交渉だった)、わずかな金で、これを請け負ってくれた。
そうして、孔明はふたたび川までもどり、湖の家まで向かった。
これほどまでに苦労するのである。
かならず連れもどすのだと、自分にいい聞かせながら。


つづく……

(サイト 「はさみの世界」(現・牧知花のホームページ) 初出 2005/10/14)

風の終わる場所 33

2021年06月13日 09時38分39秒 | 風の終わる場所


偉度はというと、費観の屋敷の中庭にて、主の姿を探すでもなく、ただ立っていた。
建安十二年の、初夏のことをおもい出していたのである。
風の音と木立のざわめきのなかに、あのとき、ひっきりなしに聞こえてきた蝉の声が聞こえやしないかと、耳を傾けていたのだ。
時間が止まったままだ。
留まりたいと願っているから、そこから動けないのか。
それとも芝蘭の夫をはじめとする、数々の、裏切って見捨てた命に呪縛されているために、動けないのか。

しばらくして、文偉は、ふわふわした足取りで部屋を出てきた。
その、いかにもふつうの青年らしい様子に、偉度はほっとする。
偉度にとって、文偉や休昭たちは、いまを生きている証であった。

「なんだ、せっかく席を立ってやったのに、もう出てきたのか、甲斐性なし」
わざと憎まれ口を叩くと、文偉は、大きく息を吐いた。
「いやはや」
「なにがいやはや、だ。言っておくがな、あの娘を遊び女のごとく扱ったなら、わたしばかりではない、あらゆるところにいるわたしの兄弟が、おまえに刃を向けるぞ」
夢見心地を彷徨っていた文偉は、偉度の言葉に、ふと真顔になって、顔をしかめた。
「おまえ、そんな脅迫があるか。怖い奴だな。それに、友達だろう? すこしくらい、いい気分を長続きさせるのを手伝ってくれたっていいじゃないか」
「あいにくと、そういう親切さは持ち合わせていない」
「やはり、偉度は偉度だな」
「なんとでも。で?」
「で、とは?」
「誤魔化すな。首尾だ。芝蘭は、なんと?」
「そんなことでよろしいの? と。いやはや」
偉度は首をかしげた。
『そんなこと』って、なんだ? 
あれは、そんなに軽い娘ではないが。
「しかし、うまく行くとはおもわなかった。互いに立場が立場だからな。だが、おかげで、これから毎日が春のようだ。鞭で打たれた傷の痛みも忘れてしまったぞ」
「それは何よりだが…毎日って? 芝蘭は、呉へ帰る」
「わかっているとも。それは悲しいが、しかし、未来は拓けた。勇気を出すものだな。わたしはこれから毎日、東のほうを向いてすごすことにする。
もしかしたら、地平のかれ方から、かの女の手紙を携えた使者の姿を見つけることができるかもしれないからな」
「手紙? 使者?」
すると、文偉は満面の笑みを浮かべて、答えた。
「そうだ。偉度、聞いて驚け。芝蘭は、わたしと文通することを了解してくれたのだ!」
「…………………………………………ふーん」
文偉は、すっかり夢見心地で、さてはて、最初の手紙は何を書こうかな、などと浮かれている。
こいつ、ほんとうに女の経験があるのだろうな。
面相はわるくないから、モテている、ということではあるが…
と、呆れていた偉度であるが、ふと我に返る。
「待て。なぜそれをわたしに伝えた、この莫迦。わたしは、芝蘭の兄ではあるが、軍師の主簿でもあるのだぞ」
「わかっているとも。いまさら自おのれ紹介はいらぬ」
「ぜんぜんわかってない! 芝蘭は敵国の細作、そして、おまえは費家の跡取り。その二人が文通だと?」
「問題あるかな」
「あるに決まっているだろう! まったく、口のかるい! 事実を聞かなければ見過ごせたものを、知ってしまったからには」
「とめるのか」
と、文偉は、小雨降る日に、たった一人、置いてきぼりになって、さむさにふるえながら、かぼそい声をあげている子犬のような、かなしそうな顔をした。
これが演技ならば容赦しないが、本気なのだから、まいる。
「検閲せねばなるまいな」
「えー?」
文偉は声を引っくり返らせていやがったが、偉度は、かえってこうすることで、おたがいの身を守れるであろうと判断した。
文偉と芝蘭が直接やりとりするよりも、偉度を中継させれば、『兄妹』が手紙をやりとりしているというかたちをとることができる。
やれやれ、世話を焼かせてくれるものだ、と偉度は嘆息しつつも、いまを明るく生きている偉度と、過去を忘れて同じく生きようとしている、芝蘭たちの助けになれることを喜んだ。

とはいえ、その後、舞い上がりすぎているがために、あまりに舌足らずな文偉の文章に、わざわざ注釈を添えた手紙を、芝蘭に送り続けなければならないハメになるなどと、偉度は想像していなかったが…





さて、偉度は文偉を連れて成都にもどってきた。
もどったことの報告を、左将軍府にいるはずの孔明に伝えに行くと、代わりに董和が出てきて、孔明は宮城にいる、という。
董和は、文偉が無事にもどってきたことをなにより喜んでおり、息子の休昭とともに、あちこち傷だらけの文偉を、それこそ抱きかかえるようにして迎えて、おのが屋敷につれて帰った。
あいもかわらず、あきれるほどに仲の良い、とおもいつつ、偉度は、宮城の孔明を追いかけた。

実のところ、偉度は拍子抜けしていた。
成都は、今回の事件を受けて、蜂の巣をつついたような騒ぎになっているだろう、ほかならぬ、李巌と劉封の処遇をめぐって、紛糾しているだろうと、予想していたのだ。
ところが、成都は平穏そのもので、広漢の騒ぎなど、誰も知らない様子である。
いくらなんでも、静か過ぎる。
たとえ『なかったこと』として処理することに決まったとしても、なんらかの余波があってよいところだ。
李巌は上手く言い逃れしたようであるが、劉備に黙って孔明を攫い、あわよくば亡き者にせんと画策していたのは、まちがいないところなのである。
おかしい、おかしいと首をひねりながら、ふと大路を見れば、おどろいたことに、『李』の旗をかかげた一軍が、堂々と成都を出て行くところが見えた。
李巌が、ふたたび広漢にもどっていくのだ。

許された? 
莫迦な。
あれだけのことをしておいて、なにも処罰をされなかったと?
いや、以前にも同じことがあった。
法正が、かつての政敵を、ことごとく捕らえて、一族もろとも処刑してまわったときも、その罪を問われなかった。
あのとき、不問に付すように、と指示を出したのは、ほかのだれでもない。劉備でなかったか。
いやな予感がした。
孔明に限って、失策はないだろうとはおもったが、それを超えて、いやな予感がした。
広漢に、ぐずぐずと留まっているべきではなかった。
孔明の伴をして、一緒に劉備の前に出るべきだったのだ。





宮城に駆けつけると、ちょうど、孔明が、宮城の、よく掃き清められた幅広のおおきな白い石段を、くだってくるところであった。
その顔を一瞥しただけで、偉度は、予感が的中したのだと、暗くおもった。
孔明の表情は、いつになく固かった。
偉度を見ると、笑顔を作ろうとしたのだが、強ばって失敗したのが見てとれる。
「なにゆえでございます」
前置きなく尋ねると、これまた、孔明も余計な説明をせず、答えた。
「してやられた。李将軍に、先に話をさせてしまったのが失敗であった。しかも、主公と差し向かいにしてしまったのだ」
「それだけでございますか? 軍師と、趙将軍の証言がふたつそろえば、李将軍や劉副軍中郎将への処罰は確定したでしょうに」
孔明は、ふいと顔をそらし、めったに見せない、きびしくもこわばった横顔を見せた。
「子龍はいない」
「いない? どちらへいかれたのですか、この肝心なときに? もしや、じつはあのとき、傷を負われていたのですか」
「成都にもどるなり、将軍職を返上するといって、主公がとめるのも聞かず、出て行った」
「なんですと?」

頭がまっしろになった。
事態についていけない。
有り得ない事態であった。
なぜ、李巌がゆるされ、趙雲が出奔せねばならないのか?

「ありえませぬ。なぜですか」
「偉度」
孔明は、息をつくと、どんな反論であろうと封じこめるような、きびしい口調で言った。
「これから、わたしの言うことをよく聞け。わたしはたった今より、休暇に入る。いつまでになるかは不明だが、左将軍府の手が足りなくなる分は、おまえがおぎなってくれ。
それと、ほかのみなにも伝えよ。だれであれ、わたしの後を追ってはならぬ。おまえも勿論のこと、この言いつけをよく守るように」
ますます偉度は混乱した。
「なにをおっしゃっているのですか。いったい、どちらへ行かれるというのです」
孔明は、偉度のほうを見ずに、成都の空の、もっと彼方を見やるようなまなざしで、答えた。
「詮索は無用」
「それは、あまりに無情なお言葉ではありますまいか。われらは、今日まで、軍師に尽くして参りましたものを、此度のことで、お怒りになっておられるのでしょうか」

偉度の声が震える。
怒りのためではない。
恐怖のためであった。
この人がいなくなってしまったなら、どうしたらよいのか。
想像もしなかったことだったからである。

幼子のような声を聞き、孔明の固い表情が、わずかにやわらいだ。
「そうではない。おまえたちに、怒りなどあるものか。むしろ、わたしは、おまえたちに累が及ぶことを恐れているのだよ。天地が引っくり返ってしまったような気分だ。だが、まだ取り返しはつく」
「もしや、主公は、李将軍のお言葉のほうを信じたのですか?」
「信じるもなにも、偉度、おまえの兄弟たちは、じつによくやってくれた。おまえの報告を聞き、すぐさま四方に手配して、劉括なる子の身元を調べてくれたのだ。
そしたら、なんのことはない。劉括は、主公のお子ではなかった。馬光年らしい男が、漢中のとある村より、劉括を一年ほど前に買い上げていたことがわかったのだ。劉括の両親も健在だ。まずししいうえに子沢山なのに、知恵遅れの子の養育に持て余してしまい、売ってしまったそうだ。あの子供は何も知らぬ。
馬光年のほうは、魏の細作で、かの女の形見を受け継いで、子供が主公に似ていることをいいことに、子であると、でっちあげたらしい。魏の細作である馬光年が、いつ、未来の主人を裏切ることを決めたのかはわからぬが、やはり、『例のお方』と繋がりがある様子だ」
「わが弟に所縁のある者たちとも、でございましょうか」
「関わりはあるだろう。曹家をかく乱し、おのが命脈の起死回生を計ったものとかんがえられる。まったく、ずいぶんと恨まれたものだな、わたしも、おまえも」
「では、そちらを探るのは、わたくしにお任せを。しかし、劉括も偽者とわかったのならば、なぜ?」
食い下がる偉度に、孔明は、かるく息をつくと、ようやく目を向けて、答えた。
その表情は、ひどく透明である。
まるで、これから死におもむく者のような顔ではないか。
「主公は、もちろんお怒りであったとも。そして、わたしをずいぶんいたわってくださった」
「では、なぜ? 以前の主公であれば、李将軍は決してゆるされなかったはず」
「だが、確たる証拠がない。馬光年は死んでしまったし、魏の公子を連れもどすわけにもいかぬ。劉公子は李将軍と口裏をきれいにあわせておるし、子龍の言葉がもしあったとしても、それとて証言のひとつにすぎぬ」
「では、呉より芝蘭たちを」
「いいや、そうではない。もう、そういう話ではないのだ。主公は、此度のことは、真偽が確定せぬが、李将軍と劉副軍中郎将のやりようはゆるせぬ。ゆえに、広漢の賊をすぐに討て。それで事態はおさまったことにする、と」
「それで軍師には我慢せよと?」
「いや、わたしが、不問に付してくれと頼んだのだ。そうでなければ、あやうかった。主公は、それはいけないとまでおっしゃってくださったが、わたしが頼んだのだよ。だから、おまえも騒いでくれるな」
偉度は途方に暮れた。
「わけがわかりませぬ。なぜに、こちらが引かねばならぬのですか」
「李将軍だよ、すべては奴なのだ。子龍が、職務を放棄し、広漢へ行ったことを持ちあげて問題にし、こちらの動きを牽制したのだ。それに、さも子龍に二心があるような讒訴をした。将軍職を返上しようとしているのも、まさにそのあかしである、とな」
「馬鹿馬鹿しい。まさか主公は信じなかったでしょう」

孔明は答えず、こわばった顔のまま、彼方をにらみつけている。
偉度は、ぞくりと背筋をふるわせた。
気づいたのだ。
なぜ、孔明が沈黙を守る道を選んだのか。

「まさか」
「矢の雨を受けた際、子龍がまっ先にだれを助けたのか、主公の耳に入れた者がいる。その行為が動かぬ証拠だと。もちろん、主公は半信半疑であったようだが…つまりは、すこし疑心がある、ということだ。わたしは、いままであの方のやさしさに、あまりに甘えすぎていたようだ」
「しかし、軍師が、だれより主公に忠義を捧げているのは、どんな者の目にも明らかではありませぬか。それは主公もわかっておられるはず。軍師、もし軍師で駄目だと言うのであれば、わたくしもその場にいたのです。わたしの口より、主公にご説明申し上げるというのは如何でしょうか」
偉度の提案に、孔明は、口元に笑みを浮かべながらも、首をふった。
「すまぬが、これに関しては、余人の力は及ぶまい。主公は、薄々と気づいておられたのかもしれぬ。だが、それでよしとおもっていらしたのだ。だが、李将軍の言葉で、お心が揺らいだ。主公が子龍を信じているのはまちがいないが、主公の周囲が、子龍を疑っているというのであれば、これは別の問題だ。
偉度、曹操が、いずれはおのれの血統に、皇帝を名乗らせようと動いていることは知っているな? そうなれば、江東の孫氏もその動きに同調しよう。われらもまた、対抗するために、それなりの準備が必要となる。主公も変わろうとなさっているのだ。いつまでも、以前のように、気心のしれた身内ばかりを贔屓にするやり方では、国力は伸びぬと、そう判断されておる」
「たしかに、李将軍を支持する向きはおおい。軍師に反発を抱く者たちが、その中心になっております」
「かれらを切るのではなく、取り込むことを、主公はかんがえておられるのだ。蜀は、領土が狭いために、どうしても人材がすくない。わたしにとっては敵であっても、忠義をしめす以上、かれらは、主公にとっての敵ではない」
「お待ちくださいませ。それでは、主公をこれまで支えつづけてきた、軍師のお立場は?」
「わたしの立場は何も変わらないよ」
と、孔明は偉度に目を向けた。
「われらは家族ではない。主従なのだ。わたしの敵は、わたしが立ち向かわねばならぬ。主公はあくまで、公平な立場を貫く。そうであればこそ、だれであれ、主公の前で存分に力を奮うことができるのだ。そうでなければ、天下を望むこともできまい」
「納得いきませぬ」
むくれる偉度に、孔明が声を立てて笑った。
「そこは納得せねばならぬぞ。おまえがそのように拗ねてしまえば、わたしは、だれを頼りに戦えばよいのだね」
偉度はむくれるのをやめ、顔を赤らめて、孔明を見た。
「なにやら軍師も、以前よりさらに、人たらし度が増されたような」
「主公が変わろうと努力なさっておられるのだ。わたしも、どんどん変わらねばなるまい。真の切磋琢磨とは、そういうことではないのかな」

はあ、と、それでも納得できず、生返事をする偉度に、孔明は笑みを引っ込めて、さとすように言った。
「偉度よ、これだけは先に言う。もしも、わたしの力がおよばず、戦いに負け、主公の前から去るようなことになっても、おまえは決して、主公を恨んではならぬぞ。
変わると一言で言っても、たやすいものではない。変化というものには、かならず痛みがともなうものなのだ。いま、だれよりも孤独なのは、おそらく主公だ。おまえならばわかるであろう」
「わからないとは、申し上げませぬ」
「おまえは好い男だ。努力すれば、もっと好き男となろう」
「そんなに誉めても駄目ですよ。わたしは、これが精一杯です」
「そういわず、やるだけのことはやってごらん。それと、礼がまだであったな。またも助けられた。ありがとう。いまふたたび、この成都の空を眺めることができるのも、おまえのおかげだ」
「それはそうでしょうとも。で、もうお一方への礼は、いつ言いに行かれるのですか」
「いますぐに。仕事のほうであるが、幼宰殿と許長史には書面にて事情を説明してある。手が足らぬようであれば、伊籍殿か糜竺殿にお願いしなさい。お二方にも、手紙を用意したから」
「相も変わらず、完璧な段取りでらっしゃる。お二方ならば、呼ばれなくてもやってきてくださるでしょう」
「頼んだ。土産は期待せずに待つように」

孔明は言いながら、偉度に背を向け去っていく。
その小さなつぶやきが、最後に風にのって聞こえてきた。
「やれやれ、今度は、わたしが追いかけねばならぬとは」
衣を風にはためかせながら、遠ざかるうしろ姿を、偉度はしばらく見送っていた。

つづく……

(旧サイト・はさみの世界(現・牧知花のホームページ)初出 2005/10/12)

風の終わる場所 32

2021年06月12日 09時53分05秒 | 風の終わる場所
文偉は、偉度に乱暴にぐるぐると巻かれた包帯を気にしつつ、従兄の費観の屋敷のなかで、偉度たちが休んでいる部屋へと向かった。
孔明と趙雲たちは、劉封、李巌らと共に、すでに先に成都に向けて出立している。
偉度はめずらしく伴を願い出ず、文偉とともに広漢に留まっている
いまや、広漢の治安は、副将の費観が一手に引き受けており、本来は文官であることのほうが似合っている従兄の目の下の隈は、濃くなる一方であった。
偉度曰く、魏の支援がなくなったのであるから、しばらく山賊も大人しかろう、ということである。
そうであってくれればと、願うところではある。

費観の妻によれば、もう元気になっている、ということだった。
そうなれば、出立は早かろう。

文偉は、成都にいた折から、ずっと用意していた書簡を取り出し、よし、と気合を入れた。
馬光年に捕らえられたときに、この書簡が見つからなかったのは幸いである。
休昭にあれこれと相談しながら(かなりウンザリされていたが)懸命に書き上げたものなのだ。

そろそろと足音を殺して部屋に近づくと、芝蘭と、まずいことに偉度もいるようである。
ほかの仲間たちは、それらしく遠慮して、どこかに潜んでいるようだが、偉度が願い出て、手負いの芝蘭と、もうひとりの、孔明を庇って斬られたという青年だけは、費観の屋敷にて手当てをうけた。
文偉が面白くないことには、偉度が、血縁でもないのに、無作法にも、ちょくちょく芝蘭の部屋に出入りし、しかも傷の手当てを自ら買っている、ということである。
芝蘭は、偉度を『兄上』と呼び、偉度も芝蘭を『妹』であると費観の妻に紹介したらしい。
李巌の陣の床下にて聞いたことがほんとうならば、かれらは、同じ細作であり、なんらかの結びつきがあって、義兄弟になっている、ということだ。
だが、片一方が蜀、片一方が呉、というのが解せない。
なにか事情があるのだろうか。
その事情を聞くことは難しいだろうが、いつか判るのだろうか。
とりあえず、文偉は、偉度が嫌がるだろうとおもっていたから、聞きたがっている素振りさえ見せるつもりはなかった。
たとえ偉度が何者であろうと、大事な友人である事実には、まったく変わりはない。
偉度が、なんらかの下心があって近づいてきているというのならば、話は別だが、この不器用で口の悪い青年は、あくまで友として文偉を助けてくれるのだから、その恩義は返さねば、おかしな話だろう。





文偉が、芝蘭の休んでいる部屋へ行くと、やはり偉度がいて、珍しくも、じつにほがらかに会話なんぞをしている。
何も事情を知らなければ、仲の良いほんとうの兄妹に見えたであろう。
そういえば、面差しが似てなくもない。
文偉が部屋の入り口に立つと、偉度は、ようよう、と、からかうように言って、文偉を部屋に招きいれた。
「おまえの従兄殿にお礼を言わねばならぬ。いまはどちらにいらっしゃるだろう? われらは、明日、出立する」
「明日? ずいぶん早いな。二人で呉へ?」
「まさか。ここでお別れだ。わたしの『妹』には、強い仲間がたくさんいるから、道中の心配はない。男も女も、それから四足の友達も」
「軍師将軍さまに御挨拶できなかったのが残念です。わたしが眠っているあいだに、もう成都へ発たれてしまったとは。でも、お怪我がなくてなによりですわ」
と、すっかり元気になった芝蘭は、残念そうに声を落とした。

芝蘭の背中には、四本あまりの矢がつきたてられていた。
とはいえ、芝蘭もただの娘ではない。
薄く見える衣の下に、細かく編みこまれた鎖帷子を纏っていたために、鏃は肉を突き抜けたものの、臓腑の奥まで届くことはなく、一命を取り留めたのであった。

「軍師は、おまえの働きを、たいへんこころよくおもっておられる。呉主に、おまえたちを決して粗略に扱わぬようにと、書簡を書き送ったそうだよ」
「敵国の細作に、そこまで心を砕いてくださるとは、お優しすぎますわ」
「我らのことは、細作とおもっていないのだよ、あの方は。生き別れた弟妹も同様だとおっしゃられていた。もし、おまえに辛いことがあれば、かならず頼ってくるようにとのお言付けだ。ほかの兄弟たちにも、その旨伝えてくれ」
「そのお言葉だけで十分ですのに」
「そう言うな。かならず、頼ってくれ。黙って行かれるほうが、あの方にとっては辛いのだから」
と、偉度と芝蘭は、文偉には、半分も意味の読み取れない言葉を交わし、なにやら笑みを交し合うのである。
なんだ、なんだ、この雰囲気は。
「ところで、文偉、おまえも出立するころだろう。一緒に帰るか。傷薬を塗ってやる手も必要であろうし、わたしがその役目をになってやる。あとで休昭に、どうして一緒に帰ってこなかったのだと恨まれると、面倒だからな」
「まあ、それも悪くないが」
「なんだ、らしくもなく、歯切れが悪いな」
言う偉度の横で、芝蘭が、親しげな笑みをうかべて、文偉を向いた。
「でも、ほんとうにお怪我がひどくなくて良かった。貴方が死んでしまったら、わたしも悲しいもの」

とたん、文偉は、ぱあっと目の前が明るくなったような気がした。
芝蘭は、このうえなく美しい娘だとおもう。
顔の半分にひどい火傷を負っているので、醜い、などとあからさまに蔑む者もいるようだし、従兄の妻も気味悪がっている様子だが、かれらの目はどうかしている。
文偉は、ちらりと偉度を見た。
偉度が出て行かないかとおもったのである。
しかし、偉度は、尻に根が生えたような風情で、まったくそこを動く気配がない。
もじもじと、次の言葉を捜していると、芝蘭が、微笑を浮かべたまま、言った。

「貴方は、わたしの夫に似ているわ」
「……………オット?」
文偉の目が点になった。
文字どおり、視界が狭くなった。
いや、目の前が暗くなった。
無情に、芝蘭は笑顔のまま、つづける。
「ええ。顔はにてらっしゃらないけれど、明るい雰囲気や、しゃべり方や…そうね、おどけているようで、芯のつよいところも似ているかもしれないわ」
これはノロケである。
こちらが誉められているようではあるが、ノロケ以外の何物でもない。
ぐらぐらと眩暈をおぼえているなかで、さらに偉度が追い討ちをかける。
「なんだ、結婚していたのか」
すると、芝蘭は、笑みをわずかに曇らせて、それでも明るく言った。
「結婚していたのです。夫は、昔に亡くなりました。夫といっても、こちらが一方的にそうおもっていただけで、あの方が、わたしを、妻とおもってくださったかどうかはわからないのですが」
「ふむ?」
偉度は、なにやら孔明そっくりの仕草でもって、髪をかき上げると、話の続きをうながした。
「わたしのこの顔の傷は、幼少の頃に、黄巾賊に村を焼かれたときに負ったものなのです。でも、おかげで捕らえられても、売り物にならぬと捨てられて、みじめな境遇に陥ることは免れたのです。そんな中で、孤児を集めている村にたどり着き、そこで夫に出会いました」
「『村』で結婚を? よく許されたな」

ハテ、奇妙な問いである。
結婚を許さぬ村とはなんだろう。
文偉が首をかしげるなか、芝蘭の言葉はつづく。

「許されませんでした。ですから、誰にも告げずに、こっそりと。あの方は、わたしの顔の傷のことを、一度も気にしないでくれた、たった一人のひとでした。村をみなで移動する直前に、お城に呼ばれて、それが今生の別れです」
「そうか」
文字通り、偉度の顔色が変わった。

これほど蒼白になった偉度を、文偉は初めて見た。
いや、さっきから、偉度に関しては初めてづくしだろう。
偉度は、過去のことはほとんど語らぬし、聞かれることもいやがった。
それが、文偉の前で、まったくいやがらず、自然に話しているのである。

「われらをそれでも許すか」
蒼ざめた顔のまま、偉度が問うと、芝蘭は、答えた。
「最初はお恨みしておりました。でも、あとになって、事情をすべて知りました。もはや終わってしまったこと。対決する形になってしまったとはいえ、わたしたちを本気で救おうとしてくださった方を、どうして恨み続けることができましょう。
ですから、お気になさらずに。わたしたちの仲間も、似たような痛みを抱えておりますが、誰一人として、恨んではおりませぬ。そうお伝えください」
「わかった。おまえたちも、さきほどの言葉を忘れてくれるな。かならず、頼ってくれ。軍師が駄目なときは、わたしがかならず助けとなる。約束しよう」
文偉は、すっかり話の輪からはずされている形となっていたが、不平不満を述べるわけにはいかなかった。
なにせ、偉度の目が、なんと、涙目にすら、なっていたからだ。

邪魔者なのは、もしやこちらか、と腰を浮かしかけていると、ほかならぬ偉度が声をかけてきた。
「ところで文偉、おまえ、用事があってここに来たのだろう。わたしはおまえの従兄殿を探しに行くから、席をはずす」
なんだ、唐突に。
文偉が返事をする間も与えず、偉度はさっさと立ち上がると、部屋を出て行ってしまった。
そのうしろ姿を、ぼう然と見送っていると、芝蘭が言った。
「あの方は、わたしたちの中でも、いちばん残酷な扱いを受けた方なの。それでも立派に立ち直られて、軍師の主簿を勤め上げてらっしゃる」
「そうなのか?」
芝蘭は、今度は、文偉に目を真っ直ぐ向けて、言った。
「兄のことは、もう判ってらっしゃるのでしょう?」
「おぼろではあるが…」
「では、約束してくださいませんか、文偉さま。兄の助けになって下さい。あの方は、裏切らない相手には、きっと誠を尽くします」
「それは勿論だ。もとより、偉度はわが命の恩人だからな」
「よかったわ」
と、芝蘭は、まるでおのれのことのように、文偉の言葉を聞くと、うれしそうにした。
命の恩人は、目の前にもいる。
一度や二度ではない。
三度も助けてくれたのだ。
このままでは、偉度の話ばかりになってしまう。
文偉は、ずっと手にしていた書簡をぐっと握りしめた。こんなときばかりアレだが、休昭、力を分けてくれ。
「つ、ついでといってはなんなのだが、わたしも約束をしてほしいことがあるのだが」

つづく……

(旧サイト「はさみの世界(現・牧知花のホームページ)」 初出 2005/10/12)

☆ 同人誌お買い上げくださったみなさま、ありがとうございます! 嬉しいです♪
それと、新ブログ「牧知花の古今東西☆歴史こぼれ話」も本日更新しました。
どうぞどちらもよろしくお願いします。
もちろん、サイトも更新していますよ♬

風の終わる場所 31

2021年06月06日 09時49分48秒 | 風の終わる場所
そのとき、これまでより、もっとも強い風が吹き、一同の全身を打った。
舞い上がる砂塵に、おもわず目を庇う。
そして、ふたたび目を開けたとき、李巌の、高らかな哄笑が響いた。
なにごとかと趙雲が目を向けた先に、後ろ手に縛られたまま、咽喉元に刃を突きつけられた孔明の姿があった。
とたん、全身の血が、地面に引きずられるように、どっと下がった感覚があった。
声を立てることもできず、ただ目の前の、困惑した表情を浮かべる孔明の姿を見る。
「狂ったか」
と、それだけを、ようやく搾り出した。
李巌は目を細めて、余裕を見せたいのか、手首をしなやかに動かして、孔明を示す。
「あいにくと正気だ。いやはや、目出度いではないかね、軍師を保護できたのであるから」
「刃で脅すのが保護か」
と、皮肉を口にしたのは、孔明本人である。
李巌を睨みつけ、それから交互に趙雲を見る。
髪はほつれ、その纏うものもところどころ汚れていたが、傷つけられた形跡はない。
孔明は、趙雲と目が合うと、笑おうとしたようだが、うまく頬が動かないようであった。
そして、ふたたび李巌をきびしく睨みつける。
「まさか貴殿がこのように大胆なことをされるとはな。狂ったのだと聞いたほうが、よほど納得できたのだが」
「そう睨み付けないでくれないか。たしかに待遇が悪いのは、謝らねばなるまい。しかし、森に棲まう狼どもに食われるより、はるかにマシだとおもわないかね、軍師将軍殿。いやはや、ずいぶんと久しぶりではないかね。最後にあったとき、貴殿は成都にて、主公の隣に座って、なにやら悠然と諸将に指示を下しておられた」
「それが仕事であるからな」
「左様。それが貴殿の仕事で、わたしは、この広漢の山賊を平定するのが仕事。で、君の指示のとおりに仕事をこなしてみせたなら、なぜだか君の主騎に叱られる。どうにかならないかね。君は言ったではないか。『いかなる手段を用いても、賊を平定せよ』と」
「魏の公子を捕らえよ、などという指示は、出しておらぬが」
「魏の公子は、いわばついでだ。いいかね、わたしは、広漢に多く出没する賊を捕らえに来た。これが、連中ときたら、なかなかにずる賢い。そこで罠をかけるために、かれらを一網打尽にできる機会を、ずっと待っていたのだよ。
そうしたら、驚くではないかね、賊の裏に、魏のたくらみがあったのだ。そこで、わたしは、この汚い陰謀の首謀者を引きずり出す算段をしていたのだ。
とはいえ、魏の人間を、蜀にまでおびき寄せるには、なにか大きな理由を作らねばならない。そうしてかんがえていたときに、偶然にも、馬光年という男より、劉括さまの存在を知った。
主公のご長子であらせられる劉副軍中郎将に相談したところ、劉括さまにいたくご同情なさってね…ああ、若君をお助けまいらせよ(李巌は、ここで部下に、倒れている劉封を助け起こさせた)…このままではあまりに哀れ、父君にあわせてさしあげたいと、そういう話になったのだが、ただ会うだけではつまらない。大きな土産も持たせてやりたいと、そうおっしゃる。
うるわしい兄弟愛だとはおもわぬか。そして、魏の公子を捕らえるべく、馬光年を頼って情報を流し、広漢におびき寄せた、というわけだよ。
途中、いろいろと齟齬があったようだが、これほど大掛かりな策謀となれば、致し方あるまい。貴殿を餌に使ったのは謝らねばならぬが、喜んでいただけるとおもったのだがねぇ。君は、どうも短慮でいけない」
「短慮なうえに狭量でね、あいにくと、貴殿の長舌も、上滑りして聞こえるのだよ。本音を語らぬのは、やはり我らのおもうところで、だいたいが合っているとかんがえてよいか」
孔明の皮肉に、李巌は、器用に眉をあげ、なおも歌うようにつづける。
「君たちのおもうところとはなんだね? いやはや、だいぶ怒っておるようだな。だから恐ろしくて、君を自由にするのにもためらってしまう。わたしは君を、司馬徳操先生のところにいたときから知っているが、見かけによらず、短気なのと、すぐに喧嘩を売りたがる癖は、あらためたほうがよいな。これが、最終通告になるのだが」
「なんと?」
李巌は、腰の剣をすらりと抜くと、隣に立って、孔明とのやり取りを注意深く聞いていた趙雲に向けて、その切っ先をつきつけた。
「武器を捨てたまえ、翊軍将軍。軍師将軍もお静かに。広漢においての治安は、それがしが任されておる。我が権限において、貴殿を拘束する」
「なんの理由で?」
「いたずらに広漢を騒がせた罪、わが将兵らを混乱させ、傷つけた罪、加えて、主公の長子に狼藉を働いた罪。これだけ揃えば文句もあるまい。
さて、軍師将軍、わが策謀の深遠を、ご理解いただけなかったとは残念だ。すまぬが貴殿も拘束させていただく。その後ろにいる、卑しき者たちも一緒に」
牢へと、李巌は言葉をつづけようとして、顔を強ばらせた。

何事かと目を向ければ、文偉の介抱をしていた芝蘭が、いつの間にか、村を駆けまわって遊んでいた劉括を拘束し、孔明がされているように、その咽喉元に刃を突きつけていた。
「くだらぬ真似はお止めなさい。たとえ策謀が破れたとしても、この子供を劉左将軍に見せれば、そのお心を鎮めることができるとおもってらっしゃるのでしたら、読みちがいですわ。
たとえ、そこのお二人の死の原因を、魏の者たちのせいにしたとしても、左将軍は、あなたをお許しにならないでしょう」
「これはなんと」
と、李巌は眉を細めて、芝蘭を見据えた。
芝蘭の腕の中にいる劉括は、状況がわかっていない様子で、にこにこと無邪気に笑っている。
たくさん人が集まっているのが、楽しいらしい。
「わたしは呉の細作。呉の盾となる、蜀の現状を保たせよというのが、我が主命。軍師将軍は、親呉派の筆頭ですもの。貴方はちがう。おわかり? この子はいないほうが、我らにとっては都合がよいの。この可哀相な子を、わたしに斬らせないで。さあ、武器をお捨てなさい」
「細作ごときが、それがしに命令を下すとは、片腹痛い」
「勝手に痛がってなさいな。まずは、軍師を解放して。それから、趙将軍に向けている刃を下ろすのよ」
「怪物じみた面相の娘よ、たとえ貴殿らを解放したとしても、それがしは広漢から、そなたたちを出さぬ」
「ならば、ここで、わたしたちと一緒に死ぬといいわ。繰り返してあげる。わたしは呉の細作。蜀の現状を維持させるのが仕事なの。貴方が、軍師と趙将軍たちを殺して、自分がその地位を襲おうとしているのならば、蜀の混乱と弱体化を防ぐために、わたしはこれを、全力で阻止しなければならない。命に替えても」
とたん、闇の中の黄金の瞳が、唸り声とともに李巌の周囲に集ってきた。
「貴方さえいなければ、あとはろくな知恵ももたない烏合の衆。恐れることなどなにもない。人ならば、あなたの得意なおしゃべりも通用するでしょうけれど、その子たちには、なにも聞こえないわよ。さあ、どうなさるの?」
李巌は、自分の四方をとりかこむ山犬たちを見下ろした。
犬たちは、どれも恐ろしげな唸り声をあげて、李巌の咽喉笛を掻き切らんと、凶悪な目で狙いを定めている。

「小癪な」
と、李巌はつぶやき、趙雲に向けたおのれの刃をおさめた。
そして、犬たちを注意しながら、ちらりと横を向いた。
「馬光年、頼まれてくれぬか」
「なんでございましょう」
と、文偉を拘束していた男、文偉の前では村の長、孔明の前では劉括の保護者として姿を現した男が、かしこまって進み出た。
「娘、交換と行こうではないか。おまえが呉の細作であり、それがしは、おまえをよく知らぬ以上、おまえの言葉すべてをそのまま信頼するわけにはいかぬ。そこでだ、それがしは、軍師を解放する。同時に、おまえも、劉括さまを解放してくれぬか」
「なるほど、交換ね。わかったわ」
芝蘭は頷き、劉括を拘束していた腕をゆるくする。
同時に、孔明を拘束していた男は、馬光年と交替し、それぞれ、ゆっくりと近づいた。
「翊軍将軍、貴殿はまちがっている」
と、徐々に距離を詰める馬光年と孔明、芝蘭と劉括の二組を面白くなさそうに見ながら、李巌は言った。
「真に主公に忠誠を示すつもりならば、軍師にではなく、劉副軍中郎将や、そこな劉括さまに捧げるべきなのだ。軍師は、たしかに主公の寵愛の深い男だが、人の心はうつろうもの。やがて、軍師と主公が対立なさったとき、貴殿は主公にもどれるのか?」
「もどれるか、とは…面妖な物言いをする」
憮然として趙雲が言うと、李巌はなにをおもったか、鼻を鳴らして笑った。
「我が策は、半分は為っていた。貴殿のせいで壊れたようなものだ。主公は、いまは軍師の無事を喜ばれるかもしれぬ。
だが、龍はいつまでも眠ったままではあるまい。主公はきっと後悔なさるときが来るだろう。そのとき、貴殿は、どちらに付く?」
「主公さえお許しになれば、貴殿の、その奇妙な言葉をつむぐ舌を、永遠にしゃべれぬように引っこ抜いてしまうのだが」
「そうそう、貴殿はそういう冷酷な男なのだ。貴殿の血は凍っている。主公は、心の離れた貴殿のことをも、いずれは扱いかねるようになるだろう。貴殿は器用ではない。ニ君に仕えることはできぬ。その芽を摘んでしまおうとした、わたしは不忠者だろうかね」
「黙れ」
「あるいは主公は気づいておられるのかもしれん。貴殿の位が低いのは、単に軍師の主騎として、身動きが取りやすいようにという、配慮だけではないのかもしれぬ。いや、無意識のことかもしれぬが、わたしを初めとする、心ある者は、気づいておるぞ。
貴殿は、主公の臣ではなく、そこな軍師のみの臣に、すでに成り果てておるのだ。現に、おのれの職務を投げ捨て、軍師のためのみに、貴殿は広漢に飛んできた。わたしが主公の了解を得ていないと責めるが、貴殿とて同じではないか。貴殿は、主公と軍師のどちらかを選べと問われれば、迷わず軍師を取る。そういう男なのだ。
いや、貴殿自身も、うすうすと気づいておられるのだろう。貴殿は、もはや主公の臣ではなくなっている。もはや別の者に忠を傾ける、二心ある者を側に仕えさせる恐ろしさを、人の好い主公はわかっておられぬのだ」
「いい加減にしろ! いかにそれらしき理由を付けて言い繕おうと、貴殿が広漢の守りをおろそかにしていた咎は免れぬぞ! 糾弾の場にて、その舌を揮うがよい!」
趙雲が怒鳴ると、李巌は、小憎らしくも、声をたてて笑った。
「趙子龍、わたしは予言する。いずれ貴殿は、おのれの心にすら裏切られるだろう。孤独のままの死を選ぶか、あるいは」

李巌の言葉のすべてを聞くことはできなかった。

ちょうど、孔明と劉括の交換が終わった頃である。
戒めを解かれて、自由になり、芝蘭の側に歩み寄った孔明に向けて、馬光年が、刃を付きたてた。
いや、付きたてようとしたのだが、その刃は、篝火の光に鈍くひかり、芝蘭の目に飛び込んできた。
娘は、すばやく孔明を突き飛ばすと、その刃を、袂にて受け止める。
芝蘭の袂は、この強風でも、ほとんど風になびくことがなかった。
おそらくは、袂に鎖帷子のような薄い鉄条のものを仕込み、いざというときの盾にしているようだ。
「卑怯者!」
いいざま、芝蘭は、刃を跳ね除け、剣を馬光年と交わす。
はじまった剣戟に、そばにいた劉括は怯えてしまって、身をすくませている。
孔明はというと、芝蘭に突き飛ばされた反動で地に倒れていたが、そのまま、傷ついた文偉のほうを見て、低い姿勢のまま、そちらへ向かおうとしている。

そのとき、趙雲は、ごうごうと唸る風の奥に、耳慣れた音をはっきりと聞いた。
闇の奥底から、風に乗って、飛んでくる物がある。
矢だ。
ちょうど、曹丕たちが逃げたはずの望楼の裏側あたりから、矢の飛来する音が聞こえてくるのだ。
どいつもこいつも!
矢は、あきらかに、最たる裏切り者、馬光年を狙っているのだが、この風の勢いである。
周囲にいる者たちにも、矢はかかる。
目の前に、馬光年と、芝蘭と…そして、ちょうど馬光年の足元にいる形となる孔明が、剣戟を気にしながら立ち上がろうとする姿と、傍らで、怯えて立ち尽くしている子供の姿があった。

どちらを。

かんがえている暇はなかった。
趙雲は、地を蹴ると、無防備に立っている者に飛びかかり、ふたたび地面に伏せさせた。
ほどなく、矢の降りかかる音が、伏せたおのれの周囲でいくつも聞こえてくる。
顔を上げることができなかった。
風の音だけが聞こえていた。



子供の泣き声が聞こえてくる。
まるで見えない手で髪を捕まれたように、趙雲はゆるゆると顔を上げ、あたりを見回した。
まず、矢の勢いによって、篝火がひとつ倒れて、なおもまだ燃えているのが最初に目に入った。
そのそばで、子供がしゃがみこんで泣きじゃくっている。
隣には、剣を持ったまま、矢を何本も身に受けて倒れている、馬光年のあわれな死体がある。
李巌は、矢の雨を免れたものの、ぼう然とその場に立ち尽くしており、ほかの将兵たちも同様であった。
その隣では、流れた矢が肘のあたりに当たり、痛みに呻いている劉封の姿があった。
「たいした置き土産だな!」
と、偉度が憎憎しげに、闇の向こうに悪態をついた。
腕の中には、その『妹』である芝蘭の、背中に何本かの矢を受けた体があった。
風の発する方角から、「引け、引け」と声が聞こえた。
魏の者たちが、ささやかな報復をして、故国へと逃げていくところらしい。
国境付近で捕らえられてしまえばよい、と趙雲は胸の内で呪詛を吐いた。

「子龍、子龍」
間近で声がして、趙雲は腕に抱えた者を見下ろす。
恐怖から脱け出した虚脱感か、それともいまだ状況がつかめずにいるのか。孔明は、困惑の色を浮かべている。
それでもなお、片手は、趙雲の頬にゆっくりと差し伸べられた。
白い指先が、かすかに震えている。
それがわずかに頬に触れるか触れないか、それだけのわずかな接触で、趙雲は、孔明が生きていることを実感し、安堵した。
子供の泣き声がつづいている。
劉封が、助けを求めて呻いているのが聞こえた。
だが、趙雲はどちらにも顔を向けることなく、ただ、目の前の者だけを見ていた。
そして、孔明が言葉を語る前に、地に倒れたものを抱き起こすようなかたちで、趙雲はその身を強く抱いた。
「俺は、おまえを選んだのだ」
それだけ言った。
孔明は、わずかに驚いたような顔をしたが、何も言わずに、しばらく大人しく腕の中にいた。

つづく……

(初出 旧サイト・はさみの世界(現・牧知花のホームページ) 2005/10/12)

サイトのウェブ拍手押してくださった方、当ブログのいいね! をいつも押してくださる方、どうもありがとうございます!
とっても元気が出ます。
これからもがんばりますので、どうぞまたブログとサイトに遊びに来てくださいませね!

お話は、なんと、まだつづきます……

風の終わる場所 30

2021年06月05日 20時16分08秒 | 風の終わる場所
趙雲が士卒長の鎧を纏っていたということもあり、李巌も劉封も、文偉に気をとられ、近づくその男が、趙雲その人だと、まったく気づかないでいた。
望楼を見張っていた兵卒長が、騒ぎにおどろいて飛んできた。
その程度にしか見ていなかった。
ほかの兵卒もそうだった。

走ってきたその男は、劉封に近づくや否や、平伏することもなく、いきなり飛び込んできた勢いのまま、腫れ上がった頬とは、逆の頬を殴りつけた。
その場のみなが、あっ、とおもったのも束の間。
つづいて、闇から、大きな白い何者かが飛び出してきたかとおもうと、殴り飛ばされた劉封におどろく馬光年の胴に斬りつける。
それが怯んだ一瞬の隙に文偉に近づき、その両手をつなぐ木の枷を打ち壊した。
それが合図だったように、櫓におのおの占拠していた犬たちが、ふたたび遠吠えをはじめ、翼が生えているかのように、ひらりと上空高く舞うと、劉封と李巌の部隊めがけて飛び降りてきた。

このおもわぬ敵襲に、部隊は混乱した。
大将である劉封は、士卒長の姿をした趙雲によって、殴り飛ばされて、地に伏したままである。
李巌のほうは、さすが経験豊かなところを見せ、すぐに我に返ったものの、人ならぬ犬の襲撃に、驚きあわてる兵卒たちに指示を飛ばす。
しかし、混乱のため指示は行き届かず、さらに騒ぎは大きくなる。
騒ぎを煽るようにして、趙雲は、おろおろと腰を引き気味に、刃を向けてきた兵卒を、あっさりと打ち伏し、得意の槍を奪った。
そして、目の前に群がる兵卒たちを、吹きつける風にあわせるかのように、つぎつぎと倒していった。

「わたしが見えていたのですか?」
と、文偉の周囲に集ってくる兵卒たちを、これは矛でもって薙ぎ払う偉度が、背中合わせのように戦っている趙雲に尋ねた。
「まるではかったようではありませぬか。ずっとわたしを見ていらしたのですか?」
「いいや、たまたま運が良かっただけだ」
短く答える趙雲に、偉度はちいさく笑みをこぼす。
そして群がる敵をふたたび見据え、その鋭い切っ先でもって、次から次へと容赦なく切り伏せていく。
その動きには、一分の隙もない。
犬たちは、一匹一匹が、物言わぬ優秀な武将のように、おもわぬ奇襲にうろたえ、まともに反撃も出来ないでいる兵卒たちに牙を剥き、あるいはその爪で蹴散らした。
人とはちがう動きをするために、よく訓練された兵卒たちも、犬の素早い動きを捉えることができず、かえって同士討ちをする者までいる。
文偉は、すっかり気を失っていたが、そこへ、芝蘭がやってきて、助け起こした。
「文偉さま、どうかしっかり!」
声をかけつつ、すでに変色し、あるいはむくみつつある頬を軽く叩くと、文偉はちいさく呻いた。

芝蘭が、どうして文偉を助けるのかはよくわからない。
わからないが、偉度とおのれと芝蘭と、その忠実な犬、さらには望楼から集ってきた芝蘭の仲間たちがいれば、混乱しきった中を突破できるかもしれない。
だが、いまは敵とはいえ、目の前にいるのは、たまたま李巌と劉封の配下になった、同じ蜀の兵卒なのである。
なるべくならば、殺したくない。

趙雲は、混乱の極みにある兵卒たちを、あらかたおのれの周囲から遠ざけると、奪った槍でもって、どん、と地面をつよく叩き、大音声で呼ばわった。
「みな、鎮まれ! 俺はおまえたちの敵ではない! 我が名は、翊軍将軍趙子龍! 聞き覚えがあろう!」
乱戦の空気を断ち切った、趙雲の一喝であった。
それまで火花を散らして繰り返されていた剣戟が、ぴたりと止まる。
効果はあり、趙子龍の名を聞くと、兵卒たちは、おのれの耳を疑ったのか、唖然とした顔をして、いずれも趙雲に視線をあつめてくる。
かれらの大半は、李巌らのおも惑も知らずに付いてきた。
なぜに、味方の将と戦っているのか、わからないのである。
かれらひとりひとりを見据えるようにして、趙雲はつづけた。
「そなたたちの策謀は破れた。いまならば、この咎は李将軍、劉副軍中郎将にのみ問い、そなたらは罪に問わぬ! 早々に剣を納め、降伏せよ!」

「よろしいのですか、そのような権限はないでしょう」
と、偉度が、早口でささやいてくるが、趙雲は、ちろりと横目で見て、それを牽制した。
もしも、この場に孔明がいたなら、口にしたであろう言葉を、趙雲は言った。
権限はたしかにない。
だが、孔明ならばこうする。
孔明がこの場にいないのであるから、自分がこれに代わるしかない。

趙雲は、篝火に陰影をつけたその顔を浮かばせる、唖然とする兵卒たちを、ふたたび睥睨した。
かれらは息を呑んで、趙雲に視線をあつめてくる。
だが、その手に、武器は握られたままだ。
張飛ならば、たった一喝で兵卒たちから武器を奪えようし、関羽ならば、その姿を見せただけで、兵卒たちは怖じて武器を捨てただろう。
自分は、まだまだだな、とおもいつつ、趙雲はふたたび兵卒たちに叫んだ。
「どうした! 降伏せぬのであれば、俺はそなたらを逆賊として討たねばならぬ! この咎は、そなたらのみに留まらず、九族にいたるまで及ぶであろう! それでもよいか!」
兵卒たちは、すっかり固まってしまって、ただただひたすら、趙雲を見つめている。
趙雲が焦れて、どん、とふたたび地面を槍の柄で突くと、まるで火にかけられた豆がはぜたかのように、恐怖の色を浮かべた兵卒たちが、つぎつぎと手にしていた武器を打ち捨てた。
だが、なおも武器を捨てず、こちらに切っ先を向けてくるものが残っている。
鎧装束が、ほかより立派なところからして、李巌らの直属の将兵らであろう。

吹きすさぶ風が、村を揺らしている。
全身につよい風を受けながら、趙雲は、かれらの次の動きを待った。
このまま、突破するか。
あるいは、説得をつづけるか? 
数の上では、変わらずこちらは不利なのであるし、曹丕が逃げたことに気づき、かれらが手勢を分けて、追っ手をかけてしまっては、また同じことになってしまう。

「逆賊とは笑止!」
李巌の重々しい声が、沈黙を破った。
李巌は、姿勢も凛々しく、篝火に浮かび上がる美麗な鎧に身を固め、前に進み出る。

出てきたな。
趙雲は胸の内でつぶやきつつ、状況の悪さにも怖じずに、悠然と足を進めて来た李巌を見つめた。
以前に、何度か顔をあわせたことがある。
だが、顔をあわせたという程度である。
親しく話したことはない。
李巌には驕慢なところがあり、おのれの認めた士大夫としか付き合わないと決めているところがあった。
趙雲は、その選別から洩れていた。

趙雲は、慎重に言葉を選びつつ、甲冑の房飾りを風になぶらせて、堂々と目の前にたつ男に問うた。
「俺の言葉に誤りはない。そのことを、貴殿はなによりご存知のはずだが?」
「いいや、貴殿こそ、間違っておられる。われらが何ゆえに逆賊だと言うのか。我らは、主公の御ために魏の公子を捕らえたうえに、生き別れとなっていた御子を探し出し、保護したのだ」
「保護だと?」
「左様。この御子は、阿斗さまよりも年長であり、本来の主公の跡継ぎともいえるお方。このうえなく貴重なお方である。保護するのは当然であろう。しかし、劉括さまの母君を亡き者にされたのが、軍師で、その軍師が後押しされているのが、劉括さまの弟君にあたる阿斗さまだというのは、皮肉であるな」
「その軍師を、勝手に捕らえて、なにを言うか!」
「だが、軍師は主公の御子の仇、言うなれば、主公の仇ということにはならぬかね」

その言葉を聞いて、武器を捨てた兵卒たちが、互いに顔を見合わせ、ひそひそとやりだした。
まったく知識を与えられずに、李巌の言葉と趙雲の言葉を聞かされたら、どちらを取るだろうか。
趙雲は、ついさっきまで、問答無用で、かれらの仲間を切り伏せていた男である。
一方の李巌は、腰に剣こそ提げているが、いまはなにも武器を手にしていない。
失敗した。
相手の得意な分野に入り込んでしまっている。
弁舌にかけては、李巌のほうがはるかに上だ。
兵卒たちにせっかく武器を捨てさせることができたのに、また武器を取らせてしまう。
無益な殺しはしたくないというのに。

「まこと主公の御子か、まだ定かでない者を持ち上げ、軍師を貶めて見せる。そして、主公の了解もないままに、その勝手に軍師を捕らえるとは、叛意ありと取られても仕方ないところであろう!」
「劉括さまが主公のお子であることは、その面差しからも間違いのないところ。くわえて、ご母堂が、主公よりいただいた品も受け継いでおられる。阿斗どのを長坂の戦にてお助けした貴殿からすれば、おもしろくない話かもしれぬ。だが、これは事実なのだ」
「いまは、阿斗さまのことは関係なかろう。問題のすり替えは止せ。たとえ劉括どのが主公のお子であろうと、問題は、貴殿らが勝手に動き、魏の公子を捕らえたという、これに尽きる!」
「致し方なかろう。敵を騙すには、まず味方から、という言葉を知らぬのか。魏の公子を捕らえるのだぞ。なまじあちこちに話を報せて、それが洩れてしまうのであれば、そもそもの策が成り立たぬ」
趙雲は苛立ち、槍の柄を、ふたたび地面に打ちつけた。
「そうではない! そうではなかろう! 主公のお許しもなく、勝手に軍師を捕らえ、そしてこの村へ連れてきた挙句、さも餌のように、魏の公子の面前にぶら下げてみせた。そのことも許せぬし」
蜀の国力の詳細や、魏の内情も知らず、状況をかえって悪くする策を用いて、どうするつもりだ、と続けようとした趙雲であるが、李巌の大きなため息に打ち消された。
「貴殿は軍師に近すぎる。たしかにこの策は、軍師には酷なものであったかもしれぬ。だが、貴殿は、軍師をどこまでご存知か? わたしは、かの御仁を、主公の軍師になる以前より見知っておる。貴殿もしらぬ軍師の顔、というものがあるのだよ。この策は、軍師もご存知だ」

「嘘です。押されてはなりませぬ! だいたい、軍師はたしかに李将軍を知ってはいたが、顔見知り程度だったはず!」
偉度がすばやく趙雲に言う。
そうであろうと趙雲はおもい、その言葉にうなずいた。
これまで、孔明の口から、公務に関すること以外で、李巌のことが出てきたことはないのだ。

「苦しい嘘をつくものだな。それに、貴殿はおもいちがいをしておるぞ。俺が軍師と近すぎるゆえ、見境がなくなっているとでも言いたいのか? 見境がなくなっているのは、貴殿らのほうであろう! 
たとえ、いま劉括というお子があらわれたとしても、主公にとって、軍師はまさに主従を越えて、手足のようなもの。それを、なにも相談なしにもぎ取られては、主公とて黙ってはおらぬぞ!」
「一介の翊軍将軍ごときが、なぜに主公のお心をそこまで主張する? 僭越であろう!」
「問題のすり替えに必死なようだな。軍師は、この策のことなど、なにも知らなかったし、貴殿は、そこに倒れておる劉副軍中郎将の存在ゆえに大きく出ているようだが、もはや策は破れた。
こうなれば、いかに動機が忠から発するものであったとしても、立場が微妙なことは、理解しているであろう。これで、そなたらの寿命は、ますますみじかくなるというものだ」
「なんと不遜な」
李巌は、旗色がわるくなったことを悟り、顔を大きくゆがめてみせる。
趙雲はといえば、弁舌でもって相手をやりこめたことも少ないので、この結果に、大いに会心の笑みを浮かべた。
といっても、口はしに笑みが浮かぶ程度であったが。

つづく……

(旧サイト「はさみの世界(現・牧知花のホームページ)」初出 2005/10/12)

新ブログ村


にほんブログ村