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はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

地這う龍 四章 その12 再会

2024年02月06日 09時53分01秒 | 英華伝 地這う龍



「劉備の女房がいるぞ!」
だれかがそう叫んだことで、夏侯恩《かこうおん》の軍兵たちの目の色が変わった。
それというのも、夏侯蘭《かこうらん》があまり熱心に先導しなかったことと、戦に慣れていない夏侯恩の要領の悪さのせいで、かれらはほかの軽騎兵たちとはちがい、まったく功績らしい功績をあげられていなかったからだ。
劉備の妻を捕獲したとなれば、曹操から褒美がもらえる。
しかも、さいわいというべきか、女は背後に男の子をかばっていた。


「これが阿斗でしょう」
と、夏侯恩のかたわらにいる老兵が夏侯恩に耳打ちをしている。
かれらには、阿斗がいくつくらいかという正確な情報が届いていなかった。


「はて、さきほど馬で逃げた女は何者だろう?」
夏侯恩が首をひねるのを、老兵がまた答えた。
「侍女ではありませぬか」
「左様か。どちらにしろ、劉備の妻子を捕えたのだから、よいか。
おい女、劉備はどこにいる」
たずねられて、元気いっぱいの声が返って来た。
「知るもんですか、知っていても、教えるわけがないでしょう!」


兵たちのなかで目立たないよう、うずもれるようにして背後にいた夏侯蘭は、『劉備の妻』の声にはっとした。
胸をわしづかみされたかのような、なつかしさに襲われる。
この声は、まちがいない、藍玉《らんぎょく》……崔玉蘭《さいぎょくらん》のものだ。
恩人であるかのじょの声を、自分が忘れるなどということはありえない。
まさか、いつのまにか劉備の妻になっていた?
混乱したまま、首を伸ばしてみれば、玉蘭は片手に剣を持って夏侯恩を威嚇しつつ、背後に阿瑯《あろう》をかばって、軍兵に囲まれていた。
「わたしを麋子仲《びしちゅう》の妹と知っての狼藉ですか! 兵を引きなさいっ」
なんだって?
「阿斗、泣いてはいけません、殿のお子なのですから、しっかりなさい!」
玉蘭は、自分の背後で、えーん、えーんと、いささかわざとらしい泣き声をあげているサルに似た子供を叱咤する。
これまた、忘れるはずもない。
まちがいなく阿瑯だ。


瞬時に夏侯蘭は状況を呑み込んだ。
さきほど、馬に乗って逃げた女がいると、みなが言っていた。
それが劉備の夫人だ。
玉蘭は、それを逃がすため、あえて自分が劉備の妻だと名乗り、敵を引きつけているのだ。


なんという女だ、と夏侯蘭は、あいかわらずの玉蘭の度胸のよさに唖然とする。
この死地においてもなお、玉蘭は凛としていて、美しかった。
夏侯恩に、もうすこし世間知があったなら、彼女が劉備の夫人にしては、あまりに婀娜《あだ》めいていることを不審におもっただろう。
胡服《こふく》を着ていることも、おかしいと思ったはずだ。
だが、夏侯恩は、まったくおかしさに気づかない様子で、威嚇してくる玉蘭に、不快そうに眉をひそめるだけだった。


「生意気な女よ。このわたしに刃を向けるか」
「兵を退きなさい!」
「無駄なことだ。おい、この女をだれか縛ってしまえ」
待ってましたとばかりに何名かの兵が、縄を持って、玉蘭と阿瑯に近づいていく。
とたん、玉蘭は剣を振りかざして、自分たちを縄にかけようとする男たちを追っ払った。


その騒ぎのせいで、夏侯恩の馬がすこしたたらを踏む。
それが気に入らなかったらしく、夏侯恩は、
「何をしている、馬鹿者ども!」
と叫ぶや、自らの腰の剣を抜き、馬を降りる。
そして、玉蘭たちの前に進み出た。
「麋竺の妹だと言ったな。無駄な抵抗はよせ。
さあ、そのうしろにいる小僧をわれらに渡すのだ」
「できるわけないでしょう」
冷たく言い放ち、玉蘭は持っていた剣でもって、夏侯恩に切りかかる。


いけない、と夏侯蘭は身構えたが、すぐに玉蘭のほうが有利ということが見えた。
夏侯恩は、どうやら実戦をほとんど知らないまま戦場に来た青年らしく、熟練の玉蘭の剣を、ただ受け止め、いなすしかできないでいるのだ。
ぎん、がん、と火花を散らして玉蘭は夏侯恩に剣を打ち込んでいく。


それでもし、夏侯恩の剣がふつうの剣であったなら、状況は変わったかもしれなかった。
だが、夏侯蘭は気づいた。
たしかに、剣の腕も経験も玉蘭のほうが上。
しかし、夏侯恩の手に持つあの剣は、ただの剣ではなさそうだ。
腰に佩《お》びたままの鞘には、きわめて精巧な象嵌がなされており、朝日を受けて、きらきらと輝いている。
その刀身もまた、ひやりとした青白さをもち、玉蘭の剣を受けながらも、刃こぼれひとつしない。
どころか、優勢だったはずの玉蘭の剣を、たいした攻撃もしていないうちから、叩き割ってしまった。


わあっ、と夏侯恩の兵が興奮の声をあげる。
弾き飛ばされた反動で、玉蘭は地面に後ろ倒しになった。
それを見て、泣きまねをしていた阿瑯が、玉蘭に駆け寄った。
「奥様っ」
「奥様、だと? きさま、劉備の子ではないのか?」
唸るような夏侯恩の問いかけに、阿瑯は顔をゆがめる。


玉蘭は形勢が逆転したとすぐに判断し、背後の阿瑯をかばった。
「わたしはどうなってもいいわ、でも、この子は助けてあげて、関係のない子よ!」
「関係がないなら、余計に許せぬ。わたしを謀《たばか》ろうとしたな?」
夏侯恩はふたりをきつくにらみつけると、剣を持つ手を大きくふりかぶった。
「この青釭《せいこう》の剣の試し切りにしてやるっ! 仲良くあの世へ行くがよい!」


つづく



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ブログ村およびブログランキングに投票してくださったみなさまも、ほんとうにどうもありがとうございました!
状況は、昨日更新した近況報告どおりですが、なんとか挽回すべくがんばってまいります!
引き続き応援していただけるとさいわいです♪

それでは、次回をどうぞおたのしみにー(*^▽^*)

地這う龍 四章 その11 身代わり

2024年02月05日 10時00分43秒 | 英華伝 地這う龍
麋夫人《びふじん》は、それでも玉蘭《ぎょくらん》と阿瑯《あろう》をこの地に残すことをためらった。
だが、そうこうしているうちに、どんどん廃屋に曹操の兵の気配が近づいてきている。
「おそらく水を得ようとしているのでしょう。
わたくしたちは、なんとでもなりますわ。さあ、行って!」
玉蘭は言うと、馬の腹を手で思い切りたたいた。
それを合図に、馬は南へ向かって走り出す。
とつぜん動き出した馬に食らいつくのが精いっぱいで、麋夫人は玉蘭たちを振り返ることができなかった。
『どうか、ご無事で!』
そう祈りながら、手綱を持ち、二の腕で必死に阿斗を抱える。


するとなんということだろう、背後から、呪わしい曹操兵の声が聞こえてきた。
「だれか馬に乗って逃げるぞ! 矢を掛けよ!」
「いいえ、待ちなさい! その者に矢を掛けるのは、この劉備の妻がゆるしませんっ」
玉蘭の声が荒野にひびく。
ああ、彼女は自分の身代わりとなってくれるのだ。


麋夫人はこころの中で、何度も「ごめんなさい」とつぶやきながら、馬を励まし、南へ急いだ。
だが、自分たちを追跡してくる二体の馬があることに、すぐに気づいた。
曹操の兵の執拗なことに、おもわず歯ぎしりする。
『ここで死ぬわけにはいかない、なんとしても阿斗を殿に!』
その一念で、勇ましく馬を走らせ続けていた麋夫人だが、不意に、どん、とつよい衝撃を背中に受けた。
『なにが起こったの?』
わからないまま、それでもまだ動けるので、馬を励まして先へ進もうとした。
だが、肩から袖を伝って、血が垂れてきたのを見て、事態を把握した。
矢に背中を撃たれたのだ。


くらりとめまいが起こり、馬から落ちそうになる。
同時に、馬の速度が落ち始めた。
背後から追いかけてくる二人の騎兵が、獲物をしとめたと確信して、おなじく馬の速度をゆるめはじめた。
『捕らえられる……!』
麋夫人は馬上でうずくまり、腕の中の阿斗だけは、けっしてだれにも触れられまいとした。
長阪橋とは、まだ遠いのだろうか。
そんなことをかんがえたとき、それまでじっと馬上で揺られるがままになっていた阿斗が、火が付いたように泣き出した。
「阿斗っ」
その声に弾かれるように、麋夫人は挫けかけた気持ちを振る立たせ、ふたたび手綱を握りしめた。
そうだ、ここで死ぬにせよ、阿斗だけは助けねば。
まだ一度しか傷つけられていない。
まだ大丈夫、きっと大丈夫なはずだ。


だが、背後からやってきた騎兵のひとりが、麋夫人の馬に並行してきた。
そして、無情にも腕の中の阿斗に手を伸ばし、泣き叫ぶかれを奪おうとする。
徒手空拳の麋夫人には、馬を走らせることが精いっぱいで、抵抗のしようがない。
『ああ、だめだっ』
阿斗を掴まれそうになった、そのときだった。


ひゅっ、と風を切る音がしたかおもうと、阿斗に手を伸ばしていた男の眉間に、矢が突き刺さった。
アッとおもう間もなく、男は手を伸ばした姿勢のまま、目を見開いて、馬から振り落とされた。
もうひとりの騎兵が、嘆きの声か、怒りの声か、判然としない叫び声をあげた。
手にしていた戟《げき》をかまえ、麋夫人の背後から前方に向けて切りかかろうとする。
だが、かれの馬を走らせるものすさまじい速度に合わせるように、前方から風のような速さで繰り出された槍の一撃でもって、騎兵は弾き飛ばされ、後方に落ちた。
馬から落とされてもなお、立ち上がろうとするところへ、第二撃がくりだされ、男の胸に、深々と槍が突き刺された。


「奥方様っ、よくぞご無事で!」
かすれた声で、趙雲が槍を敵兵のからだから抜き取りながら言った。
「子龍」
冷静沈着がつねの趙雲が、そうとうに感極まっているようで、その顔はめずらしく感情的になっていて、目には涙さえ浮かべていた。
その傍らには、弓をかまえていた兄・麋竺《びじく》の姿もあった。
「兄上!」
身内を見たことで、安堵のあまり一気に崩れ落ちそうになる。
そのときになって、はじめて趙雲と麋竺は、麋夫人の怪我に気づいたようだった。
「ややっ、この傷は! なんということか、よくこの傷を負いながらここまできた!」
涙声で自分を抱き留める兄のなすがままになりつつ、麋夫人は意識が遠のきそうになるのをけんめいに我慢して、趙雲に言った。
「おねがい、子龍、この先に、わたしの身代わりとなって、敵兵を引きつけてくれたひとたちがいます。
崔玉蘭というひとです。そのひとたちを、どうか助けてあげて」
「わかり申した、奥方様の願い、かならずやこの子龍が!」
よかった。
麋夫人は弱弱しく微笑むと、そのまま兄の腕のなかで昏倒した。


つづく


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そして、ブログ村に投票してくださった方、ブログランキングに投票してくださった方も、ありがとうございました(^^♪
ブログランキングはフォローまでしていただき光栄です!
とっても嬉しいです! いまいろいろ行き詰っていて、やや気持ちがダウンしていましたが、おかげさまで浮上しました!
これからもがんばりまーすv

さて、近況報告をそろそろ更新しようかと思っています(下書きは書けました)。
そのさいは、どうぞ見てやってくださいませ……うう。

ではでは、次回をおたのしみにー(*^▽^*)

地這う龍 四章 その10 思わぬ助け

2024年02月04日 10時04分19秒 | 英華伝 地這う龍
『だれなの? 味方?』
怯えつつ、曹操の兵のほうに注意を戻す。
すると、曹操の兵も麋夫人《びふじん》の存在に気づいたらしい。
人食い鬼のような顔を土塀の向こうからのぞかせて、怒りの形相のまま、麋夫人と少年のところへやってくる。
そのときである。
曹操の兵のうしろから、にゅっと白い手が伸びた。
あっ、と麋夫人が驚く間もなく、その白い手は曹操の兵の髭だらけの口を覆いつくす。
つづいて、もう片方の手が、手際よく、男の首筋に短刀を突きつけていた。


口をふさがれたまま、男はなにかを叫んだ。
だが、ほどなく首筋からすさまじい出血をすると、膝から崩れ落ち、やがて絶命した。


あまりの手際のよい一連の展開に、麋夫人は声を上げることもできず、目を見張るしかない。
白い手の持ち主が男の背後からあらわれる。
いかにも婀娜《あだ》っぽい雰囲気の、短い筒袖の胡服《こふく》を着た女だった。
砂塵に巻かれて汚れてはいたし、身なりも崩れてはいたが、それでも十分に美しかった。


女は手際よく曹操の兵の脈をとり、死んだのをたしかめると、麋夫人に、やさしく微笑みかけた。
「間に合ってようございました。玄徳さまの奥様でらっしゃいますね? 
以前にお見掛けしたことがございます」
麋夫人はことばをうまく紡ぐことが出来ず、ええ、と短く返事をすることしかできない。
しかし女は気にせず、こんなときだというのに、優雅に礼を取ってみせた。
「お初にお目にかかります、崔玉蘭《さいぎょくらん》と申します。
世間では藍玉《らんぎょく》という名で通っておりますわ」
「そ、そうでしたの。助けて下すって、ありがとう」


子ザルのような少年のほうを見ると、かれはにっ、と歯を見せて笑った。
「おいらは阿瑯《あろう》っていうんだ。奥方様をお見掛けして、助けに来たんだよ」
「まあ。ほんとうに、なんとお礼を申し上げたらよいか、わからないほどですわ」
そう口にしてから、やっと助けが来たのだということが実感できた。
ほっとして、力が抜けてくる。
泣きたくさえなってきたが、ぐっとこらえた。
劉備の妻は、めったなことでは挫けないのだ。


それにしても、男をあっさりと一撃で殺して見せる手際の良さといい、そのあとの堂々とした態度と言い、この女はかなりの修羅場をくぐりぬけてきた女だと、麋夫人は見抜いた。
自分よりかなり若いというのに、人生経験は女のほうが積んでいるというのが、落ち着きでわかる。
甘夫人《かんふじん》と同等か、それ以上の人生を歩んできた女なのかもしれない。
麋夫人は、この場は崔玉蘭についていくことに決めた。


「ほかに味方はおりますの?」
土塀の穴から外を見るが、ほかに人馬の影があるわけではなし、戦場から離れて、静かなものである。
玉蘭は、気の毒そうに顔をしかめた。
「申し訳ございません、わたくしどもだけです」
「あなたは、殿にお仕えしている方なのですか?」
細作《さいさく》かもしれないと期待しての問いだったが、玉蘭は首を横に振った。
「いいえ、残念ながらちがいます。でも、夏に玄徳さまたちに救われたひとりですわ」


夏のあいだに起こった痛ましい騒動とその顛末は、麋夫人もよく知っていた。
騒動の果てに救われた子供たちを匿《かくま》って、育てるつもりでいたほどだ。
玉蘭は救われたひとりだというが、おそらく、過去に子供たち以上に悲惨な目にあった女人なのだろう。


時と場合もかんがえて、あまり踏み込まないほうがいいと判断した麋夫人は話を変えた。
「これからどうやって殿に追いつきましょう」
「戦は小康状態になったようです。いまのうちに、ここを出ましょう。
ここから南の長阪橋までたどり着くことができたなら、玄徳さまにお会いできますよ」
「おいらたち、いったん長阪橋まで行ったんだけれど、仲間たちが心配で戻って来たんだよ」
と阿瑯が口をはさんだ。
「うちの奥様は、とっても義理堅いんだ」
玉蘭は、阿瑯に、これ、といって軽口を制した。
玉蘭の子にしては大きい子だとおもっていたが、どうやら阿瑯は、実子ではないらしい。


歩けるかしら、と麋夫人は自分の足元を見た。
豆が破れて血だらけの足である。
それでも、歩かねば、だれも助けようがないのだと覚悟を決めた。
「わかりました、玉蘭さんの言うとおりにいたします」
「玉蘭と呼び捨てにしてくださいませ。奥様の足が限界なのは見てわかります。
でもご安心ください、はぐれた馬をひそかにかくして持ってまいりました」
「まあっ、すばらしいわ」
顔を輝かせる麋夫人に、玉蘭はたのもしくうなずいた。


玉蘭の言うとおりで、廃屋の少し先の木の陰に、馬がつないであった。
麋夫人はふたりに助けられながら、馬にまたがる。
そこまで夢中だったので、はじめて気づいた。
「あなたがたはどうするのですか」
「ご心配なく、わたくしたちは徒歩で追いつきます」
でも、と言おうとしたとき、北のほうから、軍馬の群れの音が近づいているのがわかった。
まだ姿も見えなかったが、そのあまり急いでいない間隔の音からして、曹操軍の兵が、敗残兵を狩りに押し寄せてきたのだと、すぐにわかってしまった。
「幸い、この馬は大きいですし、よ、四人で」
「いいえ、それでは橋につくまえに、馬がつぶれてしまいます。
ためらっていてはいけません、おはやくご出発を」


つづく

※ いつも閲覧してくださっているみなさま、ありがとうございます!(^^)!
ん? なんだか演義とはちがう展開……?
次回をおたのしみにー!

地這う龍 四章 その9 廃屋の麋夫人

2024年02月03日 09時58分53秒 | 英華伝 地這う龍
どこか安全なところへ逃げなければ。
脚を励まし、引きずり、麋夫人《びふじん》はあたりを見回す。
前方に、廃屋があるのがわかった。
かろうじて屋根が残っている、ひどいありさまの廃屋だった。
だいぶ昔に家主に捨てられたものらしい。
『あそこに隠れよう、だれか迎えにきてくれるかもしれない』


夜闇のなかを駆けまわるのはおそろしいことであった。
だが、朝になってわかった。
目隠しになってくれていた闇が消えることも、またおそろしいことなのだと。
敵に見つかるわけにはいかない。
自分はどうなってもいい。
だが、阿斗は、見つかったら、きっと殺される。
それだけは避けなければ。


廃屋に入っていくと、さいわい、厨房の傍らに残っていた大甕《おおがめ》のなかに雨水がたまっていた。
清く甘い水しか飲んでこなかった麋夫人にとっては冒険だったが、のどがあまりに乾いていたので、掬《すく》って飲んだ。
そして、土塀に背を預けるかたちで床にへたりこむ。
布張りの靴はとっくに破けていて、足の先は無残なものだった。
おそらく、鏡があったなら、泥だらけで傷だらけの、赤ん坊を抱いた女を見ることができたろう。
崩れた土塀の向こうには、中庭があり、古いおおきな井戸が梅の木のとなりにあった。
雑草のたぐいは少なく、このところ少雨だったこともあり、植物のほとんどは枯れてしおれている。


『だれも来てくれなかったら、どうしよう』
そんな悲観的な考えが浮かんでくる。
すぐさま、麋夫人は首をおおきく振って、おのれの考えを振り払った。
「いいえ、だれかがきっと来てくれるわ」
口に出すと、ほんとうにそうなるような気がしてくるからふしぎだ。
胸に抱かれている阿斗は静かなもので、お乳を欲しがるでもなく、むずがるでもなく、ひたすら眠っている。
しかし、そろそろぐずりだしても、おかしくはない。
残念なことに、麋夫人は阿斗の生母ではないので、お乳を阿斗にあたえることができない。


「ごめんなさいね、阿斗。きっとお母さまに会わせてあげるからね」
甘夫人《かんふじん》が死んでしまったかもしれないという想像は、麋夫人の頭にない。
甘夫人は数々の修羅場を切り抜けてきている、麋夫人の尊敬する女人だ。
こんどの苦難だって、きっと切り抜けているに決まっている。


ふと、ぱきっと枯れ枝が踏まれる音がした。
だれかが敷地内にはいってきたらしい。
助けがきたのかしら。
麋夫人は首をのばして、崩れた土塀の穴から、外をうかがった。
とたん、心臓が掴まれたのではというほど、恐怖で胸の痛みをおぼえた。


泥まみれで血まみれの曹操の兵が、槍を手に敷地内をうろついているのだ。
さいわい、ひとりだけのようだったが、それでも丸腰の麋夫人にとってはじゅうぶんに脅威だった。


『どうしよう!』
麋夫人は、息を殺し、相手のうごきを見る。
曹操の兵は、仲間とはぐれたのか、あたりをきょろきょろと見回している。
人を何人も殺したせいか、その形相は鬼のようにこわばっていて、口周りの豊かなひげは、どれも逆立っている。
見つかったら、殺されるのはまちがない。
いや、殺されなかったとしても、どれだけひどい目に遭わされるか、知れたものではない。
自害する、という選択肢が、はじめて麋夫人のあたまに浮かんだ。
自分は劉備の妻なのだ。
その自分が、名もない男に辱められて死ぬという事態に陥ってはならない。
劉備の名を汚すことにもなる。


男はふう、ふう、と荒い息のまま、廃屋に入って来た。
麋夫人は身を縮め、息を殺した。
恐怖と混乱のため、自分の息が激しくなる。
それを殺そうとすると、ますます息がうまくつげなくなって、麋夫人はますます焦った。


厨房の外には、例の古井戸がある。
護身用の短剣を持ってはいるが、これで敵を攻撃するのはほぼ不可能。
いますぐ自分の胸を突いて、死ぬか。
それとも、井戸に飛び込んで死ぬか……
『だめよ、阿斗はどうするの。阿斗を道連れにすることはできない』
曹操の兵に見つからないようにと懸命に祈りながら、いまや壁一枚へだてて向こうにいるだけの曹操の兵をじっと見つめる。
『お願い、出て行って! 天の神様、どうぞわたしと阿斗をお守りください!』


そのとき、だれかにぐいっと肩を掴まれた。


悲鳴をあげかけて、すぐさま口をふさがれる。
身をよじり、口をふさぐ手を振り払おうとしたが、目の端に見えた姿におどろいて、動きを止めた。
少年だった。
子ザルのような目のきょろりとした少年で、身振りで麋夫人に静かにするよう伝えてきている。


つづく

※ いつも閲覧してくださっているみなさま、ありがとうございます(^^♪
おかげさまで、毎日、張りのある創作活動ができていますv
しかし……お伝えしなくてはならないことが近づいてきています;
近々、近況報告にて現状をお伝えする予定です。
そのときはどうぞ読んでやってくださいませ……

そして今日はフィギュアスケートの四大陸選手権で、とっても応援していた千葉百音ちゃんが優勝してくれてほっくほく!
あのちいちゃな百音ちゃんが、こんなに立派な選手に成長するとは……うれしいですねえ。
男子……鍵山くん、佐藤くん、山本くんも続いてくれるはず!

と、話がそれました;
とにもかくにも、明日もどうぞおたのしみにー(*^-^*)

地這う龍 四章 その8 彷徨

2024年02月02日 10時10分24秒 | 英華伝 地這う龍



張飛は虎髯《とらひげ》を風になぶらせつつ、じっと北の方向をにらみつけていた。
長阪橋の中央で、騎馬にのり、敵のやってくるのを待っている。
朝もやの向こうから、絶えず悲鳴と剣戟が聞こえてくる。


みんな死んじまったかな、と頭のすみでかんがえる。
かといって、ひるむ張飛ではなかった。
たとえ万の曹操軍が押し寄せてきたとしても、この橋をきっと守り、兄者を守り通して見せる。
決意を固めたその姿は、神々しいといっていいほど凛としていて、部下たちも、声をかけそびれるほどだった。


と、朝もやを突っ切るようにして、こちらに駆けてくる一団がある。
見れば、先頭に立っているのは簡雍《かんよう》で、片腕にひどいけがを負っているようだったが、声は元気だった。
「おおい、おおい、益徳っ、わたしだ、簡雍だ」
「見ればわかるわい、生きておったか」
軽口をたたきつつ、簡雍のとなりを見ると、まぎれもなく甘夫人であった。
張飛の顔が、一気に花が咲いたように明るくなった。
「おお、姉上、ご無事でしたか!」
「子仲《しちゅう》どのと、子龍が助けてくれました」
馬を飛ばしてきたがために、甘夫人の声は弾んでいる。
「わが君はご無事かえ」
「問題なく。姉上が戻られたなら、きっと喜ぶでしょう。
それにしても憲和《けんわ》(簡雍)、子龍が助けたというのは本当か」
「なにをいう、嘘をつくものか、子龍がみなを助けてくれたのだ」
「ふん」


張飛は思案した。
どうやら、麋芳《びほう》のやつは早とちりをしたらしい。
もともと、あいつは子龍に反感を持っていたやつだったからなあ。
おれもやつのことばに引きずられてしまった。
悪いことをしたな、とすぐに反省する。
その切り替えの早さが、張飛のいいところであった。


「ここは俺が守る。姉上たちは、すぐに兄者のところへ行ってくれ」
「わかった、益徳、気をつけろよ」
「だれに言っているかね」
そう不敵に笑い、張飛はふたたび、こうべを北へめぐらせた。
そして、朝もやと血風の向こうに入るであろう同僚に、心で呼びかけた。
『子龍、死ぬなよ、きっと戻ってこい』





麋夫人《びふじん》はけんめいに走っていたが、とうとう利き足にできたまめの痛さに、立ちどまらざるを得なくなった。
足先を確かめるまでもなく、まめはつぶれてしまったようだ。
常日頃から、体が弱いこともあり、立ち歩くこともめったになかった。
それなのに、急に走り続けたので、体中のあちこちが悲鳴をあげてもいた。
足先のまめだけではない。
脚の関節がところどころ痛くてたまらない。


しかし、それでも彼女は足を引きずりながら、曙光の照らす大地をいく。
腕の中には、赤ん坊がいた。
この赤ん坊こそが劉備の嫡子である阿斗である。
阿斗は、麋夫人の奮闘も知らず、すやすやと眠りについていた。
「いい子ね」
阿斗のすこやかな寝顔を見て、ほんのすこしだけ麋夫人は笑みをこぼす。


仮に彼女がひとりだけであったなら、もっと遠くへ逃げられたかもしれない。
あるいは、甘夫人と合流できたかもしれなかった。
しかし、麋夫人に阿斗を棄てるという選択肢はまったくない。
馬車が曹操軍におそわれて横倒しになったさい、甘夫人とはぐれ、阿斗だけを拾って逃げてきた。
暗闇のなかで、激しい剣戟と叫び声が聞こえていた。
趙雲の名を呼ぼうとしたが、かれが敵兵に群がられて手に負えない状況になっているからこそ、自分たちが危険なのだということはすぐに判断できた。
むしろ、声を立てて、敵兵に居場所を知られてしまうことを恐れた。
そこで、みな散り散りになって逃げたのだが、これが失敗だったのだ。
途中までついてきてくれていた御者は、流れ矢に当たって死んでしまっていた。


ここはどこなのだろう。
趙雲は、当陽という地名を口にしていた。
出かけることすらまれだった麋夫人にとって、当陽という土地の名もわからなかったし、当然のことながら、まったく土地勘もない。
地図くらい見て、荊州の地理にくわしくなっておけばよかったと、麋夫人は後悔する。
しかし、まさかこんな状況になるだろうと、半月前に想像できたろうか。
新野で、今年の秋は実りが良いと、みなでよろこんでいたことが嘘のようだった。


だんだん夜の闇が太陽に駆逐されてきている。
遠くのほうから争いの声が聞こえてくるが、味方が勝っているのか、敵が一方的に攻撃を繰り出してきているのか、それすらもわからない。
あまりいい状況ではないということは、大地のあちこちに倒れている無残な民の遺体の数で知れた。
それこそ数日前までは、人の死を前にしただけで卒倒してしまっていただろう。
だが、麋夫人は阿斗を守らねばという使命感ひとつで、おどろくべき強さを一夜にして身に着けていた。


つづく

※ いつも閲覧してくださっているみなさま、ありがとうございます!(^^)!
そして、ブログランキングに投票してくださった方、ブログを新たにフォローしてくださった方、うれしいです! どうもありがとうございました(*^-^*)
今後もしっかり活動してまいります(^^♪
気合入りましたよー!

さて、麋夫人が大ピンチな回がいよいよ来てしまいました……
しかし……どうなるか、次回をおたのしみにー!!


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